影の栞
古本屋「月影堂」のカウンターに、霧谷沙耶は静かに佇んでいた。夕暮れの光が埃まみれの書架を淡く染め、軋む床板が微かな嘆息を漏らす。16歳、高校一年。銀灰色の髪は肩を過ぎ、月光のように揺れる。紫の瞳は詩集『月影の栞』(1898年、霧山静流)に沈み、細い指がページをそっと撫でる。詩は喪失の痛みを囁く。「月は欠け、夜は涙を隠す/されど朝は再び光を灯す」。華奢な体はガラス細工のようで、少女と大人の狭間を漂う儚い影を帯びる。深緑のブレザーはわずかに大きく、袖口が手首を隠す。
沙耶は10年前の火事で両親を失い、天涯孤独だった。6歳の夜、炎の熱に耐えかね、母の手を離して逃げた。「沙耶、生きて!」--母の最後の声が、罪悪感となって心に刻まれる。奨学金と古本屋のアルバイトで古いアパートに一人暮らし。詩集は、彼女の心を包む唯一の避難所だった。
店の奥で店主が居眠りする中、扉の鈴が冷たく鳴る。灰色のコートをまとった中年の男が無言で入店し、古い詩集を手に取る。夕暮れの光が彼の影を長く伸ばし、書架の埃を揺らす。その瞳が沙耶を捉える。まるで過去の傷を暴くような、深く重い視線に、彼女の心は凍る。
「その本...どこで手に入れたんです?」
声は低く、錆びた刃のよう。沙耶の紫の瞳が揺れ、警戒心を隠すように言葉を紡ぐ。
「ただの在庫です。買うんですか?」
男は一瞬、詩集を握る手に力を込め、掠れた声で呟く。
「君、霧谷の...いや、なんでもない」
その視線が、まるで沙耶の心の奥を覗くように突き刺さり、彼女の指が震えた。男は詩集を棚に戻し、無言で店を出る。扉の鈴が冷たく響き、背中に残る重い視線と埃っぽい空気が沙耶を締め付ける。
在庫整理中、詩集を開くと、ページの間に古びた栞が挟まっていた。知らない筆跡で「10年前、火事の夜」。それを読んだ瞬間、頭の中に母の最期の声が響き、胸が締め付けられる。沙耶は栞を握り、震えを抑えた。
夜、アパートに帰ると、狭い1Kの部屋は静寂に沈む。擦り切れたカーテン、積まれた詩集、質素な机。窓の外から異音が漂う。軋み、滴るような音に、囁くような響きが混じる。沙耶は耳を塞ぎ、栞を握りしめる。
「誰もいないのに」
翌朝、教室。佐藤彩花、ショートカットのクラスメイトがそっと近づく。
「沙耶、まるで詩人みたい。ミステリアスだね」
沙耶は目を逸らし、髪を指で巻く。
「静かにしててほしい」
彩花は微笑む。
「友達になろうよ。沙耶がひとりでいるの、なんか放っておけないんだ」
彩花は転校生。前の学校で親友に裏切られ、テストの答案を盗んだと濡れ衣を着せられた。孤立し、両親は海外赴任中で祖母と暮らす。沙耶の紫の瞳に、自分の孤独を見た。沙耶は苛立つが、彩花の笑顔に微かな温もりを覚え、心が揺れる。
古本屋の書架の間で、沙耶は詩集を整理する。別の詩集(1900年)を手に取ると、ページから栞が滑り落ちる。そこに書かれていたのは「霧谷へ」。前の「10年前、火事の夜」に続く呼びかけが、混乱を深める。
「誰が、こんなものを」
心の奥で、炎の記憶がざわめく。
学校の図書館、薄暗い書架にステンドグラスの青い光が影を落とす。沙耶は『月影の栞』第二集(1902年)を手に、紫の瞳を沈める。詩は赦しを囁く。「影は寄り添い、傷を癒す/君の心はまだ光を知る」。だが、栞の恐怖が心を曇らせる。
「その詩集、いいよね」
高橋悠真、黒髪のクラスメイトが静かに隣に座る。沙耶の孤独な瞳、詩集を撫でる仕草に、彼の心は揺さぶられた。両親の過度な期待に縛られ、自己否定に沈んだ悠真にとって、沙耶の存在は詩のようだった。
「知らない人には、話さない」
悠真は穏やかに微笑む。
「高橋悠真。よろしく。その詩、読むたびに何か救われる気がするんだ」
沙耶の指が震える。
「救われる? どういうこと?」
「昔、親に医者になれって押し付けられてさ。自分を全部否定された気分だった。この詩、なんか心に残る」
沙耶は目を伏せる。
「私も、詩に逃げるの。10年前、母さんを...置いてきちゃったから」
悠真の眼差しが柔らかくなる。
「沙耶、話したいとき、いつでも聞くよ。君の瞳、俺の心に刺さるんだ」
沙耶の頬がほのかに赤らむ。
小林美咲が現れる。ロングヘアが揺れ、天然な笑顔が柔らかい。彼女は逆さに持った詩集(1904年)を開き、栞を見つける。「炎は全てを奪う」。
「沙耶、これ...何?」
沙耶は凍りつく。母の叫びが胸を抉り、涙を堪える。
「美咲、どこで?」
「本、逆さにしたら落ちてきたの。なんか、切ないね」
沙耶と美咲は中学の図書館で知り合った。両親の不和から逃げる美咲が、逆さに持った本を手に「詩、きれいだね」と話しかけ、沙耶の心をそっと解した。
彩花が合流する。
「沙耶、なんだか暗いよ。大丈夫?」
「何でもない」
夜、古本屋で沙耶が詩集(1906年)を整理していると、栞が落ちる。「影はいつもそばに」。監視されているような不気味さが心を締め付ける。中年の男が再び現れる。詩集を手に持つ指がわずかに震え、焦げた匂いが漂う。
「君、霧谷の娘だろ?」
沙耶は凍りつく。
「知らない。出てって」
男は笑わず、去る。視線が重く残る。
昼休み、彩花が沙耶を屋上に連れ出す。風が髪を揺らし、青空が広がる。陽光が校舎の影を柔らかく溶かし、4月の空気はまだ冷たい。屋上の柵に寄りかかり、彩花が弁当の包みを解く。
「沙耶、ひとりで食べるなんて勿体ないよ。一緒に食べよう!」
彼女は目を伏せ、箸を手に呟く。
「前の学校で、親友に裏切られたの。答案盗んだって濡れ衣着せられて、誰も信じてくれなかった。沙耶の瞳、なんか私の心に似てて...仲間になってほしい」
沙耶の紫の瞳が揺れる。彩花の声には、過去の傷と力強い意志が混じる。
「彩花、なんで...そんな話をするの?」
「沙耶がひとりで抱え込んでるの、放っておけないんだ。私、沙耶の力になりたいよ」
風が二人の髪を絡ませ、沙耶は胸の奥に微かな温もりを感じる。彼女は鞄から栞を取り出し、震える指で彩花に差し出す。
「古本屋で、変な栞を見つけた。『10年前』とか『霧谷へ』とか『炎』とか『影』とか...怖くて、胸が苦しいの」
彩花は栞を手に取り、目を細める。古びた紙の文字は、まるで誰かの囁きのようだった。
「沙耶、ひとりで抱えなくていいよ。私たちで絶対に解決しよう!」
美咲が階段を駆け上がって現れる。ロングヘアが風に揺れ、詩集を抱えたまま笑う。
「このおにぎり、なんだか優しい味だね」
彼女は詩集を手に、ページをめくりながら呟く。
「星は落ち、夜は泣く...切ないな」
沙耶の唇に笑みが浮かぶ。美咲の無垢な声は、凍りついた心をそっと溶かす。そこへ、悠真が静かに現れる。黒髪が風に揺れ、穏やかな眼差しが沙耶を包む。
「沙耶、一緒に食べよう。君を放っておけないんだ」
沙耶の瞳が悠真を見つめる。彼女はためらいながら、栞(「10年前」「霧谷へ」「炎」「影」)を広げる。4人は屋上の柵に寄りかかり、栞を手に取る。古びた紙の感触が、沙耶の罪悪感を静かに刺激する。
「これ、全部古い詩集から見つけたんだ。誰かが...私に何か言おうとしてるみたいで」
悠真は栞をじっと見つめ、静かに言う。
「君がひとりでいるの、辛そうだから。そばにいたいんだ」
彩花が力強く頷く。
「沙耶、これ、きっと何か意味があるよ。一緒に答えを探そう!」
美咲が目を輝かせる。
「この詩、まるで心にそっと触れるみたい。栞も、優しいよ」
悠真が栞を手に、穏やかに続ける。
「この栞、挟まっていた詩集の発行年数で並べたら、誰かのメッセージになるかもしれない。沙耶、話してくれてありがとう」
その夜、古本屋「月影堂」。埃っぽい書架の間に、沙耶は一人で詩集を整理する。夕暮れの光が窓から差し込み、ページをめくるたびに紙の匂いが漂う。詩集(1908年)の間から、栞が現れる。「君は一人じゃない」。沙耶の胸に、恐怖が薄れ、微かな光が差す。
「誰かが、私を見守ってる?」
沙耶は栞を握り、母の「生きて!」を思い出す。孤独が少しずつ解け、彩花の笑顔、美咲の声、悠真の眼差しが浮かぶ。
翌日、4人は古本屋に集まる。悠真が書架の奥から詩集(1910年)を手に取り、ページをめくると、栞が滑り落ちる。「生きててくれて、よかった」。彼の手がわずかに震え、沙耶に栞を渡す。
「沙耶、これ...君にだ」
沙耶の紫の瞳が潤む。栞の文字は、まるで母の声のように心に響く。頬を伝う涙を、彩花がそっとハンカチで拭う。
「沙耶、あなたは強いよ。私たち、絶対にこの謎を解くから」
美咲が詩集を抱きしめ、微笑む。
「この栞、なんだか温かいね。沙耶、ひとりじゃないよ」
悠真が静かに微笑む。
「沙耶、俺たちならこの謎を解ける。君を支えたい」
図書館の一角、ステンドグラスの光が書架を照らす。4人は詩集を広げ、栞を並べる。発行年数(1898年~1910年)を確認し、順番を整える準備をする。悠真が栞を手に、静かに言う。
「これ、誰かが沙耶を見守ってるんだ。きっと、答えが見つかる」
沙耶の心に、仲間たちの温もりが灯る。栞は恐怖ではなく、希望の欠片に変わりつつあった。
図書館の一角、夕暮れの光がステンドグラス越しに差し込む中、沙耶は詩集を一冊ずつ開き、栞を確認していた。
栞に書かれていた言葉。それは順に並べて初めて、誰かからの手紙のような意味を成していた。
「霧谷へ」「10年前、火事の夜」「炎はすべてを奪う」「影はいつもそばに」「君はひとりじゃない」「生きててくれて、よかった」
ページを繰る指が震えた。まるで、自分の過去を、誰かがそっと抱きしめてくれていたような--。
悠真がそっと沙耶の隣に腰を下ろす。
「影のように寄り添ってたんだ、この栞...ずっと、沙耶のそばにさ」
沙耶の紫の瞳が揺れた。悠真の言葉は、胸の奥に静かに降り積もる。
「そんなふうに思ったの、初めて」
「思っててくれたんだよ。誰かが、ずっと君のことを」
沙耶の唇が、ほのかに緩んだ。
「ありがとう」
その夜、古本屋「月影堂」。薄暗い光が書架を照らし、紙の匂いが漂う中、沙耶はカウンターに立つ。扉の鈴が鳴り、あの灰色のコートの男が再び現れる。詩集を手に、目を伏せる彼の指はわずかに震え、焦げた匂いが漂う。沙耶は一歩踏み出し、静かに向き合う。
「10年前、霧谷の家を...助けたかった。でも、何もできなかった。それがずっと、俺の中で――」
男の声は掠れ、過去の重さを吐き出すようだった。沙耶の紫の瞳が揺れ、男の言葉に心がざわめく。
「あなたはいったい? どうして私の名前を...?」
男は詩集を握りしめ、目を上げた。その視線には、深い後悔と微かな光が宿る。
「俺は消防士だった。あの夜、霧谷の家で...君の家族を救えなかった。10年、ずっとその重さを背負ってる。君が生き残ったことだけが、俺の救いだった。伝えたかった、ただそれだけだ」
沙耶の胸が締め付けられる。炎の記憶、母の最期の声が蘇るが、男の言葉に別の温もりが混じる。彼女はゆっくりと頷く。
「私は、生きてます。あなたがどんな気持ちだったか...今、わかった。だから、もう大丈夫です」
男の目が潤み、初めて微笑む。10年間閉じ込めてきた何かが、静かにほどけたようだった。
「ありがとう」
それは、二人の心を救う、たった一言だった。沙耶は男を見送り、詩集を手に握る。栞の謎はまだ残るが、心に灯る光は確かに強くなっていた。
数日後、屋上。風が吹き抜ける中、沙耶は彩花、美咲、悠真と並んで空を見上げていた。
「ね、また屋上、いいよね?」と彩花。
「ふわっとしてて、好き~」と美咲。
悠真は小さく頷く。「沙耶が笑ってるなら、それだけで」
沙耶は、胸ポケットの詩集から一枚の紙を取り出す。新しい栞だった。
「霧谷沙耶――生きる」
それは、過去への別れと、新しい未来への扉だった。
古本屋に戻った沙耶を迎えたのは、あの軋む床の音と、懐かしい紙の匂い。
「ただいま」
誰にともなく、そう呟いた。
影は、もう恐怖ではない。静かに寄り添い、彼女の歩みに微かな光を灯している。
そして、夜の図書館。書架の隙間に、一枚の栞がそっと挟まれていた。
「影は、今日も君とともに――」
詩集の栞:霧谷沙耶へのメッセージ
霧谷へ 10年前、火事の夜 炎は全てを奪う 影はいつもそばに 君は一人じゃない 生きててくれて、よかった
「影の栞」を読んでくれてありがとうございます。
沙耶の罪悪感と仲間たちの絆、栞の不気味な謎を詩的に描きたくて、この物語が生まれました。
あの栞は誰が?と想像しながら楽しんでくれたら嬉しいです。この物語は終わりましたが、沙耶たち仲間の物語はまだまだ続きます。この続きや、霧山静流の詩集(おそらく出版元は民明書房)のシリーズなど読んでみたい!と思う人がいましたら感想やブックマークで応援してもらえたら励みになりますのでよろしくお願いいたします!