【なぞ】これって心霊現象??
ぴちょん――……。
ぴちょん……ぴちょん――……。
「オレ、呪われたかも」
友だちの蒼汰が深刻な顔でつぶやいた。
「この部屋、なんかヘンな音が聴こえるんだ」
どう思う、と、そう訊ねられた僕の耳にも、その気味の悪い音は聴こえていた。
どこからともなく響く、かすかな、かすかな、水滴の音。
ぴちょん……ぴちょん――……。
ぴちょん――……。
*
ゆるやかな上り坂というのは案外きつい。それがだらだら長く続くとなれば尚更だ。僕は自転車を一心にこいでいた。
やがて厳めしい古びた門が見えて、それを越えると、さらなる急勾配が待ちかまえている。気合を入れ直して、今度はその坂を立ちこぎで攻略した。
丘を上り切ったところにある三階建ての建物が僕の目的地だ。家から自転車で十分くらいのところにある大学の構内、いわゆる附属図書館というやつだった。
僕は自転車をとめると、ポケットから利用者カードを取り出しつつ、図書館の入り口に向かった。自動ドアを抜ける瞬間、スゥ、と、冷房の効いた室内から涼風が吹き出してくる。
「ふぅ……天国」
思わずつぶやきつつ、利用者カードをかざしてゲートを抜け、僕はそのまま吹き抜けの階段へ向かった。目指すは最上階、9類の書架のはざまだ。
「あ、律さん」
果たして探し人はそこにいた。僕はぱっと笑顔になると、彼に向かって手をふった。
「真幸くん……どうしたの? 今日は学校は?」
脇に数冊の本をかかえた律さんが、そう言いながら僕に近付いてくる。平日の正午過ぎという時間帯に僕がここにいることに、彼は疑問を持ったらしい。
が、すぐにその理由に思い当たったようだった。
「そっか……小学生はもう夏休みか」
ちらりと苦笑する。さすが律さん、その通り。
「律さんに聴いてほしい話があるんです。じいちゃんが、たぶん図書館だって言ってたから、探しに来たんだ」
僕、岩代真幸の祖父は、この大学の教授だ。ちなみに僕の名前はじいちゃんがつけたんだけど、初めての人にはよく「まさゆき」と読まれる。ふりがなが振ってあっても、今度は檸檬のイントネーションで「まさき」って言われるんだけど、でもじいちゃん曰く、僕の名前は林檎のイントネーションで「まさき」なんだって。由来は万葉集だとか。
その僕の名を、初対面で、ふりがな無しの書面を見て、正しく林檎のイントネーションで呼んでくれたのが、この律さんだ。じいちゃんのところのゼミの大学院生。学問の世界でいうところの弟子というやつらしくて、孫の僕にも良くしてくれる。
さて、その律さんは時々、探偵みたいな推理力を発揮して、僕の身の回りの謎を解明してくれる。今日も今日とて、僕は律さんに、僕の友達の部屋で起こった怪奇現象の話を持ち込む気満々でやってきたのだった。
*
まだ昼食をとっていないという律さんに連れられて、やってきたのは大学の学食だ。明るい窓際の席を確保し、律さんはいま、僕の目の前で麻婆天津飯なるものを食べていた。この学食の名物メニューなんだとか。
「それで……またおれを変なことに巻き込むつもり?」
疑わしげに言われ、僕は、えへへ、と、誤魔化すように笑った。
「まったく……」
呆れた溜め息こそつくものの、それでも律さんは僕を追い返したりはしないのだ。だから僕は、あのね、と、さっそく話を切り出すことにした。
「僕の友だちの蒼汰の部屋で、心霊現象が起きたんです」
「……心霊現象?」
「変な音がするんだ」
僕が言うと、律さんは、ふうん、と、うなずいて、麻婆天津をひとくち、それからちらりと首を傾げた。
「肝試しでもした?」
そのひと言に、僕はまんまるに目を瞠った。
「なんで知ってるのっ!?」
そう。律さんの言う通り、僕と蒼汰は先日、子供会でキャンプに出掛けた際に肝試しに参加したのだ。ということは、やっぱりその時に何か悪い霊にでも憑りつかれたのかな。ほら、百物語とかをすると悪霊が寄ってくるとかいうし、肝試しでもそういうことはあるのかもしれない。
「別に知ってたわけじゃないけどさ」
顔を蒼くする僕を気にしたふうもなく、律さんは水の入ったグラスを持ち上げて揺らしてみせる。カラコロン、と、氷が涼しげな音を立てた。
「でもさ、ふつう、異音がしたってすぐに心霊現象とか思わないだろ。だから、変な音、イコールお化けの仕業って考えてしまう、何か要因があるのかなって思っただけ……夏だし、キャンプの時期だし、肝試しはつきものだしね」
そうすっかり言い当てられて、僕は思わず、律さんすごい、と、手を叩いた。
「それで……変な音って、具体的にどんな音?」
「あ、えっと、水の音です。ぴちょん、ぴちょんって感じの、水滴が落ちるみたいな」
僕は蒼汰の家へ遊びに行ったときのことを思い出しながら言った。
今日の午前中のことだ。僕が蒼汰の家へ行くと、蒼汰が急に、深刻な顔をして言ったのだ。オレ、呪われたかもしれない、と。
詳しく話を聞いてみると、おとといの晩から部屋でずっと奇妙な水音が聴こえるのだと言う。先日の肝試しのせいで幽霊に憑りつかれたのではないか、と、蒼汰はすごく不安そうだった。
「だれかに話して呪いが拡大したらダメだからって、蒼汰、まだお父さんやお母さんにも相談してないんだって」
「なのに真幸くんには話したんだ?」
「あ、ほら、僕は一緒に肝試しに行ったから、話してもいいんじゃない?」
蒼汰が僕を呪いに巻き込んでも平気だったわけではないと思う。僕がそう言うと、律さんは、くすん、と、肩をすくめた。
「それってさ、起きた異常を、最初から肝試しと関連づけてるよね。先入観は学問の大敵だよ」
そう言って溜め息を吐く。でも本気で呆れているわけではないらしく、まあいいや、と、すぐに仕切り直して、僕に話の続きを促した。
「えっと、その後、僕も蒼汰の部屋へ行ったんだ。そしたら確かに、水が落ちる音がした」
「真幸くんにも聴こえたの?」
「うん。で、蒼汰と一緒に部屋をいろいろ調べたんです。でも変なところは何もなくて……」
たとえば雨漏りとか―とはいえ、梅雨も明けて、最近ずっと上天気が続いてるけど―どこかから水か漏れて滴ってはいないかと確認した。だが、床もどこも濡れていないし、それらしい様子は皆無だった。
しかも、部屋から出てドアを閉めると、その音は聴こえなくなるのだ。つまり音は、どうも蒼汰の部屋でだけしているらしかった。
それで、これは怪奇現象だ、と、そう思った僕は、家で昼食をかきこんで、急いで律さんのところへ来たってわけだった。
「なるほどね」
僕の話を聴いて、律さんはちょっと思案するふうを見せた。やっぱり幽霊なのかな、と、僕は固唾を呑んで律さんの見解を待つ。やがて彼は、ふと顔を上げて、向こうにあるウォーターサーバーを指さした。
「真幸くん、ちょっと一杯、水汲んできてくれない?」
「え、でも」
律さんの前にはグラスがあるし、中にはまだ水が残ってる。それなのに水をもう一杯だなんて、麻婆天津はそんなに辛いのかな、と、僕は戸惑ったが、まあいいから、と、律さんは笑いながら僕を急かした。
言われるがままに、僕は水を汲んで席に戻る。グラスを律さんの手許に置くと、律さんは口の端を持ち上げた。
「まあ見てて……っていうか、聴いてて」
そう言って、僕が持ってきた水の中に無造作に指を突っ込み、それを高く持ち上げる。律さんのきれいな指の先から、ぽた、ぽたん、と、水滴が落ちた。
「どう?」
「え?」
「水音」
「えっと……ぽちゃん?」
僕が答えると、律さんは刹那、はたりと目を瞬いて、それからくつくつと笑う。ちょっと馬鹿にしたような笑い方に、僕はむっとした。
「なんですか?」
「いや、水の音はいつしたかっていう意味で訊いたんだ。ごめん」
「じゃあ最初からそう言ってよ。―えっと、水滴が水の中に入るとき?」
「正確ではないけど、まあ正解」
律さんは再び指を水の中に入れ、それを持ち上げてグラスに水滴を落として見せた。指先から滴った水が水面に呑みこまれる瞬間ごとに、ぽちゃん、ぴち、と、また同じような音が聴こえる。
「実際は、水滴が水面に沈み込むときに凹みが出来て、それが反動で戻ろうとする際に小さな気泡が水面下に取り残される。この気泡が細かく振動することで、あの独特の水滴音が生じることが、実験で明らかにされてるんだけど」
「……よくわかんない」
僕の眉間に深い皺が寄ったからか、律さんは苦笑して、まあ要するに、と、肩をすくめた。
「ある程度の深さの水溜まりがなければ、水滴音は発生するはずがないってこと。―部屋になかったんだよね、水溜り? じゃあそれは、正確には水滴音じゃない」
「相手が幽霊でも?」
「心霊現象だって、いちおう、自然界で起きてる現象だろ? それなら、物理法則に従わない理由はないと思うな、おれは。ただ、現在の科学ではよくわかっていないってだけでさ」
律さんに言われても、僕はそれがどういうことだか腑に落ちなくて、そんな僕に律さんはまた苦笑する。
「まあ、心霊現象説はいったんおいておいて。まず考えるべきは、水滴が水溜まりに落ちてる状況がなくても水滴音がする場合として、どういう可能性があるのか……たとえば、これはどう?」
律さんは自分のスマーとフォンを取り出すと、素早く操作する。何かを検索しているみたいだったが、目的のものを見つけたのか、すぐに僕のほうへとスマホを差し出した。
ぴちょん、ぴちょん、ぴちょん、と、水滴の音が響く。でも何のことはない。律さんがインターネット上にある、水滴が水面に落ちるシーンをとらえた動画を再生しているだけのことだった。なにこれ、どういうこと、と、ぱちぱち瞬く僕に、律さんは目を細めた。
「いまおれたちには水滴音が聴こえている。でも、実際にこの場で水が滴っているわけじゃない。――蒼汰くんの部屋でも、これに似たことが起きているんじゃないかな」
「でも」
僕は律さんのスマホを手に取って、動画を見ながら反論する。
「蒼汰は、スマホは持ってないです」
「スマホとは限らないよ。他にも音が出るものはあるだろ?」
「たしか、部屋ではタブレットもゲームも禁止だって、この前ぼやいてた。テレビもなかったし、CDプレイヤーみたいのもなかったし、あとあの部屋で音が出そうなものっていったら、目覚まし時計くらいしかないと思うけど……」
水滴音どころか、そもそも音を出しそうなものすら思い当たらない、と、今朝訪ねた蒼汰の部屋の様子を思い出しながら僕は言った。僕たちだって一応は音の出所を探したんだから、水滴音を発しそうな機械とかがあったら、さすがに気がついたのではないかと思う。
「でも、あるんだ……あるから、音がしてる」
「ないのに音がしてるから、怪奇現象なんじゃなくて?」
「だから、その説は最後。それ言っちゃおしまいってやつ」
「そんなものなの?」
「そんなものなの。――そう、何か、絶対にあるはずだ……音を出す機能を持っているのに、そう意識されにくいもの。しかも、水の音を出しそうな、何か……」
細い顎に指を当てて、ひとりぶつぶつつぶやいている律さんの端正な顔を、僕は黙って見守っていた。その間も、律さんのスマホからは、絶え間なく水音が響き続けている。
「あ」
やがてそう声を上げたのは、でも、何かを思いついた律さんではなかった。
「スマホ、充電切れちゃいそうだよ」
僕は、律さんが思考に入ってしまったために、成り行き上、持ったままになっていたスマホを相手に示してみせる。画面上では、電池マークが赤い色で残量極少を警告していた。
「……あ」
次にそう言ったのは、今度こそ、律さんだ。
「ねえ、真幸くん……さっき、目覚ましって言った?」
「え? ……うん、たぶん、言ったけど」
「目覚ましがあるってことは、蒼汰くんは、その部屋で寝起きしてるんだよね」
「ベッドもあったし、そうじゃないかな。でも、それがどうしたんですか?」
僕は律さんの顔をのぞき込むようにする。律さんは無言で、でも口の端をゆるく持ち上げ、はたはた、と、二度ほどゆっくりと瞬いた。その瞬間、長い睫の縁取る白い瞼の下の瞳が、きらり、と、小さく光ったように見えた。
「律さん……もしかして、音の正体、わかったの?」
僕がたずねても、律さんは勿体ぶるように、応とも否とも言わない――……でも、わかる。この表情は絶対、謎が解けたんだ。
「教えて! ……やっぱり幽霊? お寺とか神社とかでおはらいしてもらったほうがいいやつですか?」
僕が立ち上がって迫ると、律さんはちいさく肩をすくめる。
「いや……行くべきは、ホームセンターかな」
そう意味深に笑った。そして、わけがわからなくてきょとんとする僕に、水滴音の正体についての推論を聴かせてくれたのだった。