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真上に上がった太陽から、木々の間を抜けて光が差し込んでいる。
そよぐ風も若草の香りを運び、木陰で少し冷えた空気が頬を撫でた。
そんな穏やかな春先の森の中で、クロノ・アークライトはじわりと額に汗を浮かべている。
少年の手には彼の腕の長さほどの剣が構えられている。陽光に当たったそれは、淡く紫色の光を返す。
「さて。どーっすっかなぁ……」
構えた剣のその先に、彼より二回り以上大きい狼が佇んでいる。
狼の傍には、摘んだばかりの薬草を詰めていたカゴが転がっていた。
刻まれた大きな爪痕は、人間であれば命はなかったと容易に想像がつく深さだ。
ちらりと背後に視線をやると、少し背が高くヒョロい男が大きな木の陰にもたれかかっている。
「薬屋のおっちゃんは暫くは起きないだろうけど」
薬屋は狼に遭遇してパニックを起こした末に気絶してしまった。
「問題はお前なんだよな。ちょっと見なかったことにしたりしてくれない?」
「……」
疑問形を投げるが、この場にはクロノと狼と気絶した薬屋しか居ない。
「聞いてる?生きてる?もしかしてこの状況で寝てる?寝てるならいいんだけどさ」
クロノは剣の柄をトントンと人差し指でたたきながら再度問う。
「……」
剣は変わらず淡く紫色に光っているのみだ。
ふぅ、と息を吐き、両手で構えていた剣を片手に持ち替える。
「まぁいいや。ちょっとの間気絶してて。もしくは今から少しの間の記憶を後から消し飛ばして」
狼が吠える。
同時に、クロノは前傾姿勢を取り、脚に力をこめる。
彼の右手の痣が、青色の鈍い光を放っていた。
「これからやること、くれぐれも姉さんには絶対に言わないように!」
クロノが、駆けた。
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「ファーリーおじさーん、カゴって何個積めばいいですかー?」
まだ日が昇り切らない薄明るい空の下で、クロノは薬屋の裏手の倉庫にいた。
「おじさんじゃなくてお兄さんと呼びなさい!……そこにある空のカゴ、2つ載せてもらえるかい?馬に餌をあげ終わったら出発するよー」
薬屋のおじ…お兄さんは馬に餌を与えていた。馬は与えられた草をモッモッモッとおいしそうに食べている。
クロノは村の薬屋の手伝いのために、村はずれの森まで薬草を摘みに出かけることになっていた。
少し距離もあり、帰りの荷も多くなるので朝早くに馬車で立ち、夕方に戻ってくる予定である。
出かける用意をする二人の元に、もう一つ人影が近寄ってきた。
「ファーリーさんをお兄さんと呼ぶにはちょっと無理があるよー。ねークロノ?」
クロノは驚いた顔で声の主を見る。
「姉さん!どうしたの、今日は朝早いからお…僕だけで行くって言ったのに。いつもねぼすけなのに早起きいでででででで」
高い位置で赤い髪を結わえた女性が、銀色に光る左手でクロノの頭を掴んで締め付けた。
「一言余計だぞこら!悪い子はこいつかこのこのこのこの」
姉さんと呼ばれたその女性は、クロノの頭をつかんでわしゃわしゃしている。
「だからってその左手でぐりぐりされたら痛いよ姉さん」
動きやすいように軽く結わえていたクロノの黒髪がぐしゃぐしゃになった。
「まぁまぁそこらへんにしてあげて、ジェシカさん。……あと僕は君と3つしか変わらないよ……まだおじさんじゃないよ……」
微笑ましそうにそのやりとりを見ていた薬屋のファーリーが、馬の餌やりを終えて止めに入った。
「指先は樹脂製だからそんな騒ぐほど痛くないでしょーが」
ジェシカが手を放し、解放されたクロノは頭をさすりながら髪を結び直した。
「僕まだカゴ積み終わってないから行ってきますね!」
また掴まれてはかなわない、と、クロノは物置のほうに駆けて行った。
「しかしジェシカさんの左手は本当によくできた義手だね、大きすぎる気もするけれど」
ファーリーはまじまじとジェシカの左手を見ていた。
ジェシカの左腕の肘から先は銀色の金属で覆われており、手首から先は明らかに人間のそれではなかった。金属を繋ぎ合わせて手の形にしており、関節部につぶれた球状の赤い石がはめられている。
左手を広げた大きさは、ちょうど彼女の右手の倍くらいの大きさだった。
「いやぁ右手だけで作るには限界があってさ、細かい作業は流石に無理だったのよね」
左手をわきわきと動かすと、関節部分と、ジェシカの右手に嵌っている魔石が赤く光った。
「魔力回路だけは気合で引いたけど」
彼女の右手の魔石が光ると、それに呼応するように左手の動きが変わる。
「ジェシカさんの魔石って生まれ持った属性は炎だろう?義手の間接制御方法なんてよく思いついたね」
ファーリーはその動きを、興味深そうにまじまじと見つめている。
「炎だからこそ、かな。」
ジェシカは右手を目線の高さまで上げ、手の甲に埋まる赤い石を見つめた。
人差し指と親指で輪を作ったくらいの大きさの、涙型で少し橙がかった赤い石だ。
「属性変化が要らないように、温度で変化するちょうどいい素材みつけるの大変だったんだー」
「炎は派手だし使い道も多くて羨ましいよ。僕なんか水でぱっとしないし、魔石も小さくて生活魔法くらいがやっとだよ」
ファーリーが左手の皮手袋を外すと、親指の爪ほどの四角い青い石が2つついていた。
「それ、クロノの前では絶対に言わないでよ」
とほほ、といった表情でファーリーが肩をすくめていたが、ジェシカはそれをいさめる。
明らかに不機嫌な視線を向けられ、ファーリーはぞっとし、気持ちばかり姿勢を正す。
「あの子「魔石なし」なんだから。魔石をもって生まれたあんたはそれだけであの子より恵まれてるの」
少し離れたところで荷積みをしているクロノを視界の端にとらえながら、ジェシカは静かな声で言った。
「魔石から魔力を出して生活することが前提のこの世の中で、必ず持って生まれてくるはずの魔石が無い、ってどれだけ大変か想像できるでしょ。魔力出力器官であるはずの魔石がついてない、って、身体の臓器が一つ無いようなものなんだから」
「ごめんごめん、そうだったね。だから今日は僕が、薬草の見分け方を教えるんだった」
「魔法が使えなくてもできる仕事を見つけないとだからね。頼むよ」
機嫌を直しウィンクしたジェシカに、ファーリーは気取られないくらいほんの少しだけ、頬を赤く染めた。
「そ、それにしても、片腕だけで自分の義手を作ってしまうのだから、流石は名工マーヴィンの孫娘だね」
「ありがとう。我ながら才能があると思うわ。ジジイ放り出して冒険者になったジジイ不孝な孫だったけどね」
「出て行って暫くの間のマーヴィンさんは凄かったよほんと…」
大荒れで大量の酒に溺れていた爺さんを、酒場に居合わせた村の若い衆でなだめたことを思い出し、ファーリーは遠い目で少し遠くを見た。
「でも冒険者としてもいいところまで行ったし、こうやって職人として村に帰ってきたじゃないか、きっと天国でマーヴィンさんも鍛冶師の道を応援しているよ」
「ジジイなら左腕もってかれた孫をしかり飛ばすだろうな。…まぁそんなことより、クロノと出かけるんでしょ?」
ばつが悪そうに目を伏せながら、ジェシカはファーリーに右手に持っていたバスケットを差し出した。
ファーリーがバスケットを開けると、いくらかの干し肉とパンが入っていた。
「一日がかりになるって聞いてたから、飯の足しにできそうなものをもってきたんだ。香辛料に漬けて干した肉だから、適当に現地で食べられる草とか摘んで挟んで食べて」
「おー、それは美味しそうだね、助かるよありがとう!」
「余裕があれば少し火であぶるといい、風味がでるから」
「想像しただけで何割かおなかが空いたよ、昼飯を楽しみに薬草集め頑張ろうかな」
「いえいえ、今日一日クロノに色々教えてもらうお礼ってことで!うちの弟をよろしくね」
ジェシカはファーリーの背中をばんと叩いた。
「……ちょっと痛いかも」
背中をさするファーリーを見て、ジェシカはケタケタと笑っている。
「ファーリーさん!カゴ積み終わりましたよ」
ちょうどその時、クロノが荷積みを終えて戻ってきた。
「おー、ありがとう!それじゃあそろそろ出発しようか」
「ちょっと待ちなさい、クロノ」
馬車に乗り込もうとしたクロノを、ジェシカが呼び止め、手をつかんだ。
その顔は先ほどまでのからかうような笑みではなく、至極真剣な表情をしている。
「あんたはこれも持っていきなさい」
ジェシカは自身の腰に下げていた剣をクロノに渡した。
薄紫色の剣身が見事な片手剣。ジェシカ愛用だった一振りである。
「え!?持っていけないよ、姉さんの大事なものでしょう?」
クロノは一瞬、露骨に嫌そうな顔をし、慌てて取り繕うように驚いてみせたが、気に留めずジェシカは剣を押し付ける。
「最近森の周りで魔物が増えているっていう噂があるから、護身のために持っていきなさい。剣術も教えたし、少しくらいならできるでしょ?この剣なら必ず力になってくれるから、お守りとでも思ってちょうだい。」
「……仕方ないなぁ」
渋々その剣を受け取ったクロノは、姉がしていたのと同じように腰に下げた。
「じゃあ、行ってきます!」
「ちゃんと夕方には帰ってくるのよー」
クロノと薬屋のファーリーは、村はずれの森へ向かって馬車を走らせた。
「ジークと一緒なら、きっと何かあっても大丈夫のはず」
馬車が見えなくなるまで見送ると、ジェシカはひとり呟いた。
一瞬、夜明けの冷たい風が強く吹き、括られた赤い髪を揺らした。