08.新しい日々
朝。
岩倉家の朝はいつも慌ただしい。
陽子は朝早くから朝食の準備と、リモートワークの仕事の準備に忙しいし、麗華と美祢は身だしなみを整えて、登校の準備をするのに忙しい。
しかし二人はまだバスルームからは出ていないみたいだ。
相変わらず色々と言い合う声が、ドア越しから聞こえていたりする。
前日以来、麗華は少々機嫌がよろしくない。
まあ、それもそうだろう。
帰宅早々、同居人が一人増えるという重大事を、自分には殆ど何の相談も無く、事後承諾のような形で押し切られるような形になってしまったからだ。
その日は学校にてテニスの練習試合も順調に進み、ダブルスのパートナーの健闘もあって、ほぼストレート勝ちに近い形で勝利を収め、意気揚々と上機嫌で帰宅した麗華であった。
そうして帰ってみると、どうやら皆は庭の方に居るみたいなので回ってみると、父の陽一を発見したのは嬉しい驚きであった。
それを見た麗華は、嬉しくなった勢いで「お父さん、おかえり〜!」と言いながら背後から陽一の横腹に抱きついた。
「おお!麗華おかえり。」
陽一は相好を崩しながら、腕を回して麗華の肩を抱いた。
我が娘に久々の帰宅をこうまで歓迎されて、父親である身として嬉しくない訳がない。
後で小遣いの少しでも…等と考え始めた矢先に「お父さん、お土産は?」と、当然のような顔をして聞かれて、少しガクッとなった。
「おまえ……待っていたのはお父さんじゃなくてお土産かぁ。」
陽一は少々ガックリした雰囲気を声音に滲ませながら麗華を見やった。
麗華はニヤッと笑いながら「そんな訳無いじゃん!ちゃあんとお父さんが帰ってくるのを、首をながーくして待ってたよ?いっつもお土産沢山買ってきてくれるからさぁ。」
そう言った後にニヘヘヘと笑いながら陽一を見上げる顔は屈託ない。
そんな顔を見ると、陽一の方もそれ以上お説教しようという気持ちも無くなってしまう。
月のうち、殆ど父親不在の家で育ったにしては、二人の娘は妙にねじ曲がったりもせず、素直に育ったものだと痛感する。
帰って来ることが出来るのは、月に精々4日か5日。ひと月に日曜日が何日あるかで違ってくる。その分を、月末に一気に取るのだ。
泣き所は、家に帰るための移動時間もこれに含まれてしまう事だ。
移動に丸一日かかるとしたら、往復でまる二日。
それを除いた二日もしくは三日間位が真の休日という事になる。
なので、この仕事をしている独身の連中の中には、いちいち帰ったりしないで近場の温泉でゆったりしたり、パチンコ等で休みを潰す連中も居たりするのだ。
陽一はどうしても家族の顔を見たいので、月に何日か、休みが取れると必ず家に帰ることにしていた。
そんな陽一を同僚たちは、帰るんじゃなくて通ってるって言ったほうが正確なんじゃないんですか?と揶揄したりする。
陽一としては、そんな揶揄したような言い草には苦笑いで返すしかない。
遠い地域からだと帰るのも一苦労だが、娘達の屈託のない表情を見ると、帰ってきて良かったと思う。次の休みにはまた帰ってきたいとさえ思う。必然娘達への対応も甘くなってしまう。
その為に、陽子には時々渋い顔をされてしまう事もある。
子供達にいい顔ばっかりしちゃって。汚れ役はいつも私なんだからと妻に冗談めかして言われ、その実顔は笑ってても目は笑ってないと意識したことが何度かあった。
なので二人きりになった機会がある時には、いつも感謝を伝えることを忘れたことはない。
娘たちも、いつも優しいそんな父親が大好きだ。
陽一はそれを分かっているだけに、京一のことを何と話したものかと思案した。
「お土産はリビングに置いてあるよ。後で渡そうと思ってな。例によって、地方限定の色んなお菓子だ。」
陽一がそう言うと、麗華は「やったあ!お父さんが帰ってくる度に、これが一番楽しみなのよね」と、喜びをあらわにした。
「えーと……所でだなあ、麗華。」と、陽一は京一の方へチラッと視線を走らせながら麗華に切り出した。
「なあに?あ!お客さん?はじめまして。何だかみっともない所を見せてごめんなさい。」と言って、京一へ礼儀正しく頭を下げた。
「お父さんもお父さんよ。お客さん来てるなら、最初っからちゃんと言ってよ!恥かいちゃったじゃない。」
麗華は京一を、すっかりお客さんか何かだと勘違いしている。
一体どうしたものだろうと、陽一も陽子も思った。
「お姉ちゃん、違うよ!この人、私を助けてくれた京一お兄ちゃんだよ。今日から一緒に住むんだよ。」
美祢は京一の腕に取り付きながら、麗華にそう言った。
麗華は少し驚いた表情で陽一と陽子を見やって「そ、そうなの?」と聞いた。
二人はそれぞれ、まあそうなんだとか、実は……みたいな事を言い、事情をいま詳しく説明するからとも言葉を重ねた。
麗華も前日病院の近くまで迎えに行き、帰りに回転寿司店に寄ったときに、食事しながら事の経緯は説明を受けていたので、飲み込みは早かったが、学校から帰ったら住人が一人増えることになっているとは思いもしなかった。
で、そこから軽く何だかんだあり、京一は京一で、やっぱり申し訳ないので出ていくという発言があって、三人で大慌てで止めたりということがあったりして、最終的には近いうちに外食に連れていくということで話がついた。
「約束だよ?」と、麗華は何度も念を押した。
「何だかごめんね。僕のせいで。本当に良いの?」と、京一はすまなそうな表情を浮かべながら、麗華へ聞いた。
「へーきへーき!私抜きで物事が決まっちゃっていたのが、ちょっと気に入らなかっただけなんだ。それに、あの極端に勘の鋭くて敏感な美祢があんなに懐いてるんだもん。それで大丈夫だって分かるよ。それに普段は離れに寝泊まりするんでしょ?お父さんが居ない間は女ばっかりだし、番犬代わりに丁度良いかなって。」
これっ!と陽子に注意されて、麗華は悪戯っぽく笑って舌を出した。
「お姉ちゃん、帰ってくる前に色々決めちゃってごめんね。」と美祢も麗華に侘びた。
「もう良いわよ。きっと私が居たところで、こういう風に決まってたんだろうし。それに近いうちにまたご飯に行けることになったしね。」と、サバサバした感じで言った。
そして「これからよろしくね。加賀美京一さん」と言って、握手のために手を出した。
京一は、慌ててズボンで手を拭って「よ、よろしく」と言いながら手を握った。
「よし、上手く話がまとまった所で家に戻ろうか」と陽一が言った。
「何でいつの間にかお父さんが上手くまとめたみたいな風になってる訳?」と、麗華は少し不満げに言って、陽一は誤魔化すようにハハハと笑った。
その頃には、もう陽が翳り空も赤く染まり始めていた。
「お母さん、今日のご飯は何?」
玄関で靴を脱ぎながら、麗華は今夜の献立を聞いてきた。
「そうねえ。今日は作る暇が無かったので、以前冷凍してあったハンバーグでも焼くわ。お昼のカレーもまだ残ってるわよ。」
「じゃあ私カレーを食べたいな。最近ご無沙汰だったし。ハンバーグも添えて、ハンバーグ・カレーにしたい。」
麗華がそう言うと、陽一も美祢も僕も私もと言い出し、陽子が京一に何が良いかと聞くと、何でも良いという返事だったので、その日の晩はハンバーグ・カレーになった。
あなた達、お昼もカレーだったじゃないと、陽子は少し呆れ気味ではあったけれども。
そんなこんなで一夜明けた朝。
バスルームから出てきた二人はまだ何か言い合っていた。
「あなた達、朝から何を騒がしくしてるの?」と陽子は少し呆れ気味に二人へ聞く。
「だってお母さん聞いてよ」と、麗華は憤慨しながら陽子へ訴える。
要するに、近いうちに実施される外食イベントで、一体どこへ行くのか、それで意見が割れてるらしい。
そういう事は帰ってきてから相談してちょうだいと陽子は言い、もうすぐ朝食が出来上がるので京一君を呼んできてと二人へ頼んだ。
私が呼んでくると言って、美祢が京一を呼びに向かった。
入り口のドアをノックして「お兄ちゃん、朝ごはんだよ」と呼びかけると、京一が出てきた。
互いにおはようと挨拶を交わすが、部屋の中からはプリンターの動いてる音がする。
「ちょっと待ってね、スイッチを止めてくるから」と言って、しばらく引っ込んでいたが、やがて戻ってきて一緒に家の中へ入っていった。
「麗華、悪いけどお父さんを起こしてきてちょうだい。」と、陽子に頼まれた麗華は、露骨に嫌な顔をした。
「ええっ!?嫌だよう。毎回起こしに行ったら、寝ぼけてお母さんと勘違いして抱きついてくるんだもん」
その口ぶりからして、陽一を起こしにいくと抱きつかれるというのは、毎回恒例のことらしい。
そんなやり取りをしている最中に、美祢と京一がリビングに入ってきた。
京一は「おはようございます」と言いながら、丁寧に頭を下げた。
「あら、京一君おはよう」
陽子はパリパリとレタスを剥きながら、京一へ顔を向けて挨拶をした。
「どう?よく眠れた?」と聞くと、京一は「はい、おかげさまで。」と答えた。
そして「早めに目を覚ましたんですけれど、一体どういうタイミングでそちらに伺ったら良いのか分からなかったので、昨日教えてもらった仕事の続きをしてました。」と、恐縮そうな表情を見せた。
「あらあら、それはごめんなさい。明日以降からは、こちらに来て欲しいタイミングで麗華か美祢を迎えに行かせるようにするわ」
陽子は申し訳無げなニュアンスを込めてそう言った。
「いやいや、それは申し訳ないですよ。予めそちらに伺っていい時間を教えてくれれば、その時間には来るようにしますから。」
京一は、陽子より更に申し訳無げなニュアンスを込めてそう言った。
「いいえ、本当にいいのよ。美祢なんかは京一君を迎えに行くのを日課にしたがってるみたいだしね。生活に新しいメリハリが出来て良いんじゃないかしら。ねえ美祢?」
陽子が美祢にそう問いかけると、美祢は大きく頷きながら「大丈夫だよ。毎朝あたしが起こしに来てあげる!」
嬉しそうにそう宣言されてしまうと、断るのも気が引ける。
「はい、では明日からもよろしくおねがいします」と言って、二人へ頭を下げた。
「それで、京一君悪いんだけど、うちのを起こしてきてくれる?昨日疲れてたみたいで、まだ目を覚ましてないのよ。」
京一は、わかりましたと言って、陽一が寝ている寝室へ向かった。
暫くしてギャーーーー!という悲鳴のような、叫び声のような声が家中に響き渡った。
どうやら京一を陽子と勘違いして抱きついて、キスしようとした陽一が、途中で目を覚まして驚いて上げた叫び声らしかった。
それから間もなく戻ってきた京一に「どうやら起きたみたいね」と陽子が言って程なくして、陽一がゲッソリした顔をして出てきた。
陽子がおはようと声をかけると、陽一は力なくおはようと返し、「いやあ、びっくりしたよ。てっきり君かと思ったら京一くんなんだもん。」と言いながら食卓に付いた。
その日の朝食は、コーヒーとオレンジジュース、トースト、目玉焼き、ツナとレタスとトマトとブロッコリーのサラダだった。
娘二人は朝食後、遅刻するからと、慌ただしく玄関を飛び出していった。
美祢は、お兄ちゃん行ってくるねと言い残していったが、それには何処にも消えずにここに居てねというニュアンスを多分に含んでいた。
もとより今の京一には、消えたところでどこに行くという当てもない。当面の間はここに腰を落ち着けて、何とか出来る範囲で恩返ししようと心に決めていた。
「行ってらっしゃい!」と、手を振りながら二人を送り出すと、京一は家に戻った。
陽一と陽子は京一へ、ちょっと二人で買い物に行ってきたいんだがと言った。
陽一の乗ってきた車で、いろいろな店を巡って日用品やら何やらを買ってストックしておきたいのだという。
二人は京一に、一緒に来るか、留守番しているかと問うたが、入院していた病院まで送って貰えませんかと言った。
二人は不思議そうに顔を見合わせたが、京一はお見舞いしたい人間が居るという。
それを聞いて、陽子は全てを察したような感じで頷き、分かったわと言ったが、陽一は不思議そうな顔をしていた。
陽子は陽一へ、後で説明するわと言って、とりあえず出発しましょうと車に乗り込んだ。
やがてKK新日病院へ到着し、帰りはどうするかと聞かれた陽一は、歩いて帰りますと答えた。
「じゃあ、気をつけてね。陽一さんの持ってる合鍵を渡しておくわ。二人で居れば、私の鍵だけあれば大丈夫だし、買い物の途中であなたの分の合い鍵を作ってくるから。」
陽子はそう言って、キーホルダーの付いた鍵を京一に渡した。
「ありがとうございます」と言いながら鍵を受け取って、京一は車を降りた。
ここから新しい日々が始まる。
一応報告しなければとの思いを胸に抱き、京一は病院の玄関を入っていった。