06.帰宅
夫である陽一からの電話は久しぶりだった。
と言っても、せいぜい二週間ぶりくらいのものではあるが。
陽一は出張の多い仕事であるので、家の事はまるっきり妻の陽子に任せっきりになってしまっている。その為に陽一は妻に頭が上がらない。妻から何か要望があれば、何でもウンウンと要望を聞いてしまうくらいには頭が上らないのだ。
そんな陽一がどういう仕事をしているかは後に述べる。
スマートフォンから流れてくる声は、そんな陽一の人柄を偲ばせるような、温かく優しそうな声だった。
「元気にしてた?」と、陽一は聞いてきた。
「元気だったわよ。麗華も美祢も変わらず元気にしてるわ。あなたの方こそ大丈夫なの?」
これは陽一が電話をかけてきたときの、二人のお決まりのやり取りである。
仕事の関係で、陽子の方から陽一へ電話をかけることは中々難しい。陽一の方も電波の届かないところに居ることも多いし、一日の中で仕事とプライベートを区切りづらい事情というのもあった。なので、これが久しぶりの夫婦の会話である。
「うん、僕の方は大丈夫だよ。それでね、またしばらく帰れることになったんで、一応知らせておこうと思ってね。」
陽子は少し驚き、そして嬉しそうに声を弾ませた。
「あら、いつ帰れることになったの?」
「それがね、今日なんだ。ハッキリするまで連絡できなくてごめんよ。」
スマートフォンの向こう側から、申し訳無さげな声が聞こえてきた。
「あら……それはビックリだわ。色んな意味で。」
陽子はそう言って、一瞬どうしようかなという表情をした。
そして美祢の方へ目をやると、「ちょっと待ってね」と言いながら美祢の方へ話しかけた。
「美祢、今お父さんからでね、今日帰ってくるんですって。お父さんと話したい?」
「え、お父さんなの?替わって替わって!」
美祢は陽子の話を聞いて、一気にテンションが上がったようだ。シートの上で身体をポンポンと弾ませている。
「いま車の中なんだけど、美祢に替わるわね。これから家へ向かうので、ゆっくり話して。」
そうして少しばかり電話は美祢と陽一の会話が続いた。
これから家へ帰ること、お土産を買ってあること、会ったら色々と知らせたいことがあることなど。
美祢からスマートフォンを受け取った陽子は、陽一へ何時頃到着するのかを訊ねた。
「それがねえ……実はもう少しで着きそうなんだ。驚かせて申し訳ないけども。」
陽一は少しばかりすまなそうな声音でそう言った。
「ええっ!?こっちの方はまだ何も用意してないわよ?」
陽子は思わず大きな声を出した。
「大丈夫だよ。それに時々あるだろ?こういう事は」
陽一は、事も無げにそう言って「あと三十分程で着くよ。」と続けた。
それは陽子たちが自宅に到着してから、しばらくして陽一も到着することを意味していた。
「もう……しょうがないわね。帰ってくる時はいつも突然なんだから。」
陽子のその言葉を聞いて、陽一はごめんごめんと言いながら陽気に笑っていた。
電話の切り際に、帰ったらちょっと相談したい事があると言い、陽一も分かったと承諾し、電話は終わった。
その話の間中、京一は何も言わなかった。
一体何を言えば良いか分からなかったのだ。
一つだけ思っていたのは、この人達に迷惑をかけるようなら自分はこの人達の前から消えて、彷徨の旅を続けようという気持ちだった。
やがてタクシーは岩倉家に到着した。
その家は一般的な家よりも少し大きく見えた。
建て売りではなくて注文住宅なのは明らかだったが、白壁のその家は、少し大きめのサイズに関わらず、控えめな印象を与えるのは、派手な色彩を控えた事によるものだろうか。
さあ入って入ってと、美祢が嬉しそうに京一の手を引っ張っていく。
先に降りた陽子が玄関の鍵を開けて、扉を開けながら、さあどうぞと京一たちが入るのを促した。
京一は少し気後れしたような表情を見せつつも、お邪魔しますとペコリと頭を下げてリビングへ入っていった。
岩倉家のリビングはシンプルなものだった。
大きな窓、大きなテレビ、四人がけのソファー。それで埋まりきらないスペースには、一人がけのソファーが置かれていた。
床には毛足が長めのフカフカした絨毯が敷かれ、寝っ転がりながらでもテレビが見れるようになっている。
部屋の半分はダイニング・キッチンになっていて、調理と食事はそこで取るようになっている。
大きめのソファーが丁度リビングとキッチンの境目の仕切りをしているといった感じだろうか。
時計を見ると、もう昼近い。
そろそろお腹が空いてくる時間だ。
陽子は以前に作り置きして冷凍してあったカレーを解凍して昼食にする事にした。
「美祢、お昼はカレーで良い?」
陽子がそう聞くと、美祢は「うん。カレー大好きだもん。お母さんのカレーなら毎日だっていいよ!」と、美祢はご機嫌である。
「お兄ちゃん、カレー好き?お母さんのカレー、凄く美味しいんだよ!」と京一へ聞くと「うん……多分好きだと思うよ。よく憶えてないけど」と、少し苦笑いのような表情を浮かべた。
「あ……ごめんね。ごめんね。なんにも覚えてないのに。」
美祢はそう言ってすまなそうな顔をした。
京一は慌てて「大丈夫だよ。全然気にしてないから。」と言った。
「それにきっと大好きだったと思うよ。ほら、いい匂いがしてきたじゃないか。」
京一は、フォローになってるだろうかと思いながらも、実際に温められた鍋からは、カレーのいい匂いが漂ってきた。
そこへ「ただいまー」という声がして、続いてバタンとドアが閉まる音が聞こえた。
しばらくすると、少しふっくらとして、それでいて体格がよく、人の良さそうな雰囲気の男性が家に入ってきた。
「お父さん!」
そう言って、美祢は陽一へ飛びついた。
陽一はそんな美祢を高々と自分の顔の前まで抱き上げた。
「美祢!しばらくだったなー!元気してたかい?学校で嫌なこととかは無いかい?」
陽一は美祢と同じ目線を取りながら、そう話しかけた。
陽一は、子供たちの学校生活については、あまり特には気にしていなかった。
ただ学校では楽しく過ごすこと、イジメの仲間には入らないようにすること、困ってる友達がいたら、出来るだけ力になってやること、困ったことがあれば何でも相談すること、常々言ってるのはこれぐらいのものだった。
親なんて子供の心配をしてなんぼ、そのための親なんだからというのが口癖だった。
良い人間関係を築くことが出来ていれば、勉強も皆で教え合って何とかなるだろうというのが陽一の考え方だったので、勉強しろなどという事は、まるで言ったことはない。それは妻の陽子も呆れるほどだった。
「うん、元気。学校は毎日楽しいよ!」
美祢が元気にそう言うと、「そうか、そりゃあ良かった」と笑顔で言って、美祢を下におろした。
「陽子さん、カレーのいい匂いがするね。僕腹減ってきちゃったよ。」
陽子はキッチンでカレーを温めながら「あなただけじゃなく、みんなお腹が空いてるわよ。もうお昼だし」と、リビングへ向けて声をかけた。
その段になって、陽一はやっと京一に気付いた。
陽一は「あ、気づかなくて、こりゃどうも失礼。」と言って、慌てて陽子の側へ移動した。
「陽子さん、お客さんが来てるなら、来てるって教えておいてくれよ。失礼しちゃったじゃないか。」
陽一は少し困り顔で、陽子にそうクレームを入れた。
「あら、今頃気付いたの?それに関しては、後でちょっと相談があるんだ。」
陽子は、カレーが焦げ付かないようにかき混ぜながら、陽一へ首だけを向けてそう言った。
「分かった。じゃあ食べ終わったら話し合おう。時間的に皆も腹が減ってるだろうし、僕も匂いを嗅いだら堪らなくなってきちゃったよ。」
陽一はそう言って、キッチンのテーブルへ目をやった。
「分かったわ。カレーをテーブルに用意したら、食べる前に簡単な紹介をするわね」
陽子はそう言いながら、手際よく人数分のカレーをテーブルに用意した。
食卓に着く前に、陽子は簡単に京一を陽一へ紹介した。
「こちらは加賀美京一君。美祢を事故から助けてくれた人。」
陽一は、えっ?と面食らったような表情をしていたが、陽子は、さあいただきましょうと促して、食事が始まった。
だが陽一は食卓の席には着いたが、まだ面食らった様子のままだ。
「え?ちょっと待って、ちょっと待って。陽子さん、美祢が事故に遭ったの?いつ?どこで?怪我は?全然話が見えないんだけど」
矢継ぎ早に質問してくる陽一に対して、陽子は黙々とカレーを口に運んでいたが、矢のように飛んでくる質問が一段落すると、「食事が終わったら詳しく説明するわ。今は食べちゃいましょう。」と言って、再びカレーを食べ続けた。
食事の間、美祢は美味しい美味しいと言いながらカレーを口に運び、陽子は京一に味はどうかしら?と質問をし、京一はとても美味しいですと返すなどしていたが、陽一だけは戸惑った表情でカレーを口に運び続けていた。
やがてそんな時間も終わり、全員でリビングの方へ移動をした。
京一は一人がけのソファーに、他の全員が大きい方のソファーに座り、京一に一番近い席には陽子が、その隣には陽一が座った。
「さて……じゃあ、じっくり説明してもらおうか。ここ最近一体何が起こったか。順を追ってね。」
陽一は、心の準備が出来たとでも言うように、陽子にそう言った。
「分かったわ。じゃあ順を追って説明するわね。そもそもは、昨日美祢と一緒に商店街まで買い物へ行ったことが、すべての始まりなの。」
そう言って、陽子は前日起こった出来事のすべてを、陽一へ順を追って話していった。
買い物をしてる最中に、車に轢かれそうになったこと。
そこに座っている、加賀美京一君が身を挺して美祢を助けてくれたこと。
美祢自身は大した怪我は無かったこと。
しかし助けた京一は気を失っていたので、救急車を呼んで、一晩入院したこと。
意識は戻ったのだが、殆どの記憶を失っているらしいこと。
そのせいで、自分がどこへ向かい何をしようとしていたのかが全然分からず行き場がないこと。
それらの説明を聞いて、陽一は大変驚き、京一の前まで行って、ひざまずきながら手を握り、ありがとうありがとうと何度も頭を下げた。
京一は、陽一のこのいきなりの挙動に大変驚き、やめて下さい、頭を上げてください、誰でもするだろう事をしただけの事ですからと言いながら、戸惑いと困った表情を浮かべた。
京一のそんな言葉を聞きながら、陽一はありがとうありがとうと繰り返し、固く握った手を離そうとはしなかった。
そして、最初のテンションが落ち着いて、やっと手を話した後に、陽一はしみじみと京一へ言った。
「いや、誰でも出来ることじゃないよ、京一君。それは誰でも出来ることじゃないんだ。君は君自身を過小評価しているよ。」
そう言って、陽一はソファーに戻った。
「陽一さん、いきなりやめてよ。京一君ビックリしてるじゃないの。」
陽子は呆れた表情で陽一に言った。
「そうよ。お兄ちゃんビックリして出て行っちゃったらどうするのよ。」と、美祢も同調する。
陽一は「ごめん、ごめん」と苦笑いしながら「でも、考えてもみてよ。」と言葉を続けた。
「もしかしたら、下手をしたら美祢は今日ここで一緒に飯を食ったりなんかしていなかったかもしれないんだよ?いきなりの知らせで、今頃は悲しみのどん底に居たかもしれないんだ。それを思うと彼には感謝してもしきれないよ。」
そう言って、陽一は京一へ顔を向けた。
「身を挺して大切な娘を助けてくれた君へ、僕達は報いなくちゃならない。陽子さんが僕へ相談があると言ってたことの内容は、そういう事だろ?」と、陽一は陽子へ向かって言った。
陽子はその言葉に黙って頷いた。
「君は記憶がなくて、その為にこれからどうしたら良いか分からないよね?なら、落ち着くまで暫くうちに滞在してちゃあどうだい?」
陽子は我が意を得たりと言うように「あなたの方からそう言ってくれるとは思わなかったわ。実は私も陽一さんに、それをお願いしたかったの。」
陽子はそう言って、京一の方へ向き直り、目を見つめながら語りかけた。
「どうかしら。記憶が戻る間だけでもここで一緒に暮らさない?私達と。」
この言葉を聞いて、京一は大変驚いた。
この人達にとって、自分は前日に知り合ったばかりの人間なのだ。おまけに記憶も欠落してて、素性も分からない。この人達には警戒心というものは無いのだろうか。
正直ありがたい申し出ではあったが、食わせてもらうばかりで、この家へ何も貢献しないまま居座るのも流石に気が引ける。
それにこの家の主人がいない間は、ここは女性ばかりの所帯になってしまう。
この家に寝泊まりするのも、何となく気が引けた。
京一は、申し出はありがたいんですがと言って、自分の感じてる懸念を陽一へ伝えた。
すると陽一は、なあに、別に心配するには及ばないと言って、京一を一緒に庭へ回るように促した。
先頭に陽一、次に京一、陽子と美祢がそれに続いた。
狭くはないが、さほど大きくもない岩倉家の庭へ回ると、そこには面積の半分ほどを、小さな離れの建物が占めていた。
「これは僕が仕事の資料作成をする為に建てた離れでね。夜遅くまでプリンターを動かすことも多いんで、家族を起こさないようにして作業に専念する為に、これを建てたんだ。それに、ここで作業をしてる限り、資料が散逸することも無いしね。」
陽一は少し自慢げにそう言うと、一同を離れの中へ招き入れた。
中は6畳の作業室と、同じ広さの寝室に別れていた。
作業室にはパソコンとプリンターが設置されていて、帰ってきてる間、陽一はここで作業をしてるらしかった。
「僕は普段出張ばっかりだし、この部屋を使ってるのも数日位のものだから、君はこの離れで寝泊まりするといいよ。そうすれば、君も気兼ねしなくて済むだろ?」
陽一はそう言って、陽子の方を見ながら「陽子さん、これで良いかな?」と付け加えた。
陽子は何度も頷きながら、完璧よと言って、陽一へサムズ・アップした。
「大変ありがたいですけど……良いんですか?記憶を無くして素性もしれないのに。不安とか無いんですか?」
京一の言葉を聞いて、陽一は美祢を見ながら「どうやら君のことを美祢が随分気に入ってるみたいなんでね」と言った。
「こう見えて、美祢はとても勘が鋭いんだ。一つ例を話してあげるよ。」
そう言って陽一が話したエピソードは驚くものだった。
美祢の学校に、ある時教育実習生がやってきた。
二人ほどの実習生が来たのだが、一人はとても内向的で、翌日の授業の準備をする為に、遅くまで残っていた。
もう一人はとても社交的で大変人当たりもよく、翌日の授業の準備も要領よく進め、いつも定時で上がっていた。
当然人々からの受けは後者の実習生の方が良く、人気も高かった。
しかし不思議なことに、美祢は人当たりの良い実習生のことを非常に毛嫌いしていた。
校舎で話しかけられても、お辞儀だけしてさっさと離れてばかりいたという。
むしろ内向的な実習生の方とよく話していたという証言を、美祢の友達から聞いたくらいだ。
陽子は美祢に、どうして片方の先生をそんなに邪険にするのか聞いてみたことがある。
そうすると美祢は「あの先生は嘘ばかりついてるんだよ。皆騙されちゃだめだよ。」と、嫌なことを聞くなと言わんばかりの顔で言っていたということだ。
そんなある日、職員室で盗難事件が起きた。
普段の印象から、普段残ることの多い内向的な方の実習生に疑いの目がかかったが、美祢はあの先生じゃないと言い続けた。
たまたま帰っていた陽一と陽子は二人で学校へ赴き、印象だけで決めつけないで、よく調べてくれるように頼んだ。
陽一の顔で、学校も重い腰を上げ、密かに警察に調査してもらった結果、人当たりの良い実習生が犯人だったことが判明した。
おまけに彼は、同僚の女性教師や何人かの生徒の母親にも手を出していた事が判明し、大きな問題になった。
「そんな具合にね、何でだかは分からないけど、美祢には所謂悪い奴ってのが、直感的に分かるらしいんだよ。例はこれだけじゃなく、幾つもあるしね。その中には僕も含めて騙されそうになった事例もあるくらいだ。」
陽一はそんな美祢の頭を撫でながら話を続けた。
「だからね、そんな美祢が君にそんなに懐いているなら、僕も信用してみようかなって気になったんだ。」
陽一はそう言いながら美祢を抱き上げた。
「それに、もし良かったら、僕が出張へ言ってる間に、ここでする作業を手伝ってほしいんだ。そうして貰えれば随分助かるのだけれど。」
それを聞いて、京一は「分かりました。出来るようでしたら、ぜひやらせて下さい」と言った。
「それはありがたい。じゃあ、仕事の説明をする前に、僕がどういう仕事をしているか説明するよ。」
陽一はそう言って、パソコンとプリンターのスイッチを入れた。