05.縁(えにし)
朝が来た。
新しい朝だ。
岩倉家の朝は慌ただしい。
通常であれば、まず娘二人が朝に風呂に入って、その後歯を磨いて髪を整える。
朝食はその後だ。
陽子は二人より早目に起きて朝食の支度、通常であればリモートワークの為の仕事の準備などを手掛けるのだが、この日は京一を病院まで迎えに行かなければならないので少々事情が違う。
上司には申し訳ないが、スマホに電話して、簡単に事情を説明して休ませてもらう事にした。
朝食のテーブルにはコーヒー、オレンジジュース、トースト、目玉焼き、サラダ、コーンスープ等が並んでいる。
バスルームには二人で入ってるのであろう、賑やかな声がする。
この日は金曜日ということで、二人とも普通に学校のある日である。
通常であれば、もういい加減バスルームから出て、朝食を取って学校へ向かう段取りを整えなければならない。
しかし今日は何だかいつもより遅いようだ。
中からも、何やら二人が言い合う声が聞こえたりする。
そうしているうちに、やっとバスルームの扉が開く気配がして、二人が出てきたかと思うと、身体を拭きながらまだ言い合っているようだ。
居間に現れた早々に、麗華が陽子に言う。
「ちょっとお母さん聞いてよ。美祢が今日学校休んで、お母さんと一緒に病院へ行くって言って聞かないのよ!」
麗華は一緒に出てきた美祢を見やりながら、そう言ってプリプリと怒っている様子だった。
一方、そう言われた美祢は揺るぎない決意をもって、テコでも動かないという決意を秘めた表情をしていた。
「美祢、あなた今日学校あるでしょう?ちゃんと行かないと!」
陽子はそう言ったが、言われた方は「お願い、今日一緒に病院へ行かせて?」と返してきた。
美祢は今まで学校を殆ど休んだことはない。
入学当初こそ学校を休みがちだったが、通ううちに体力が付いてきたのか、後半から以降は休むことは無くなった。自分から学校を休むなどと言ったこともない。
しかし、生まれながらに小柄な体格で、それがコンプレックスになっているのか、友達付き合いが多い方でもない。何人かの仲の良い友達は居るみたいだが。
短くすると背の小ささが際立つとでも思っているのか、髪も長く伸ばしている。
切るのはせいぜい毛先を揃えるときぐらいだ。
なので、現在は腰近くまで髪が伸びている。
しかし成績は優秀で、今まで悪い点を取ってきたこともない。
2年生になってからは休んだ事は無いので、このまま頑張れば皆勤賞で表彰されるかもしれない。
そんな美祢が学校を休んで陽子に付いていくという。
「あなた本気なの?もう少し頑張れば、学校から表彰されるかもしれないのよ?」
陽子は屈んで美祢と目線を合わせてそう言った。
「表彰なんて興味ないもん。それよりお願い!病院に一緒に連れてって!
お母さんだって、今日お仕事休むじゃない。」
そう言われてはもう、どうしょうもない。
ため息をついて、諦めたというふうに「分かったわ」と言った。
陽子は麗華の方へ目をやって、「麗華はどうする?」と聞いた。
「私?私は学校へ行くわよ。今日テニス部で試合があって、助っ人頼まれてんだぁ」
あっけらかんとそう言った。
麗華は美祢とはあらゆる意味で対照的だ。
背も高く、スラリと伸びた手足、快活な性格で、友人も多く人望も厚い。
ショートカットのヘア・スタイルも、その快活さを一層強調しているかのようだ。
現在中学2年の麗華は、一年の時に早くも生徒会長候補に推薦しようという話が持ち上がったが、これは本人が必死で辞退した。
理由は、生徒会役員なんかになったら自由な時間がなくなってしまうからだという理由が、いかにも麗華らしい。
そう、彼女はこの年齢にして、何よりも自由を尊ぶ人間なのだった。
だから彼女は部活にも入っていない。
誰に似たのか抜群の運動神経を誇っているが、部活に束縛されたくないという理由で、部員が足りないときに助っ人として大会に出場するのみだ。
全ての運動部に幽霊部員として、登録のみしてあるので、大会出場に関してはなんの問題もない。
現在でも助っ人として大会に出る度に、正部員としてどうかという声かけはあるみたいだが、その度に、やりたい事色々あるんでと言って断っているらしい。
「分かったわ。じゃあひとまず食べましょう」と陽子は言って、三人で朝食のテーブルに就いた。
「お母さん、食べ終わったらすぐ出発するの?」と、麗華が聞いてきた。
「そうね。帰りは何時になるか分からないから、いつものように家の鍵持っていくの忘れないでね?」と、陽子は念を押した。
同じ頃。
京一の入院してる病院ではどうなっていたかというと、一時期はそっと姿を消そうかと思い詰めていたこともあったようだが、思い直してそのまま病室に滞在していたようだ。
その理由としては、前の晩に膳場会長に言われたことも影響しているだろうし、このまま黙って姿を消すのも如何にも不義理ではないかと思ったというのもある。
『借りを返す機会はきっと来るだろうから、それまではこの波に乗ってみてはどうかね?』
前の晩に膳場会長の言った言葉が何度も京一の頭を駆け巡っていた。
とりあえず病院から出た朝食は全部取った。
他に取り立ててすることも無い。
さりとて病室のテレビを見る気にもなれず、こうして色々と考えるしか他にすることも無いのだった。
後に残っているのは医師による朝の回診と、退院手続き位のものである。
回診で特に異常がないと判断されれば、すぐに退院だ。
直に陽子もやって来るだろう。
陽子と顔を合わせたときにでも、これからどうするかを話し合っても遅くないかもしれない。
何しろ携行してたのはショルダーバッグ一つ。
その中身も、お守りに簡単な着替えと、懐中時計様の妙なアイテムだけなのだ。その上に記憶もまるで無い。
その時コンコンとノックの音がして、はいと応えると人が入ってきた。
てっきり陽子かと思ったが、意に反して入ってきたのは膳場会長だった。
京一は驚きをもって会長を迎えた。
会長は病室に入りながら「よう、調子はどうだね?」と言って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「昨日はどうも」と、ベッドの上で身を起こして会釈しながら「一体どうしたんですか?今日は検査の予定じゃないんですか?」と聞いた。
「まあ…そうなんじゃがな…中々呼び出しが来なくて退屈なんで、顔を出してみた次第じゃよ。」
そう言いながら、病室にあった折りたたみ椅子を広げて腰を下ろした。
「で……腹は決まったかね?」と、会長は唐突に聞いてきた。
京一が何も言わないでいると、会長は「なんじゃ……まだ何も決めかねておるのか」と、少し呆れたように言った。
「まあ良い、まあ良い。近いうちに昨日のあの親子も直に来よう。そうしたらじっくり話し合って決めれば良い。あの奥さんにはワシの連絡先を渡しておるでな。何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくるがいい。」
そう言ってハッハッハと笑った。
「会長さん。貴方は一体…」と、色々と聞こうと思った矢先に、病室のドアが開いて、膳場さん!と言いながら看護師が入ってきた。
「困るじゃないですか!検査がもう少しだっていうのに病室を勝手に抜け出して。幸い他の看護師が、貴方がこの病室に入ったのを目撃してたから良いものを。もうすぐ順番が来ますから、ちゃんと病室に戻ってて下さい!」
看護師に一気に捲し立てられて、会長はやれやれといった感じで立ち上がり、椅子を畳んだ。
そして、看護師と一緒に部屋を出る間際に、京一にこう声をかけた。
「いいか、もし彼女たちに報いたいと思ってるようなら、ひとまずは彼女たちの意向に従うようにするんじゃ。そうすれば、多分君自身の物事も動き始めるじゃろうて。」
その言葉に京一は、ハイと応えて会長を見送った。
病院へ向かう道すがら、陽子と美祢は少し不安のようなものを抱えながら歩いていた。
「お母さん。お兄ちゃん、ちゃんと病院に居るよね?ね?」
美祢は少しでも不安を払拭したくて、何度も陽子にそう聞いてきた。
その度に陽子は、大丈夫よ、ちゃんと居るからと繰り返したが、確証は何もない。
確証は無かったが、確信めいたものはあった。
前日に京一に投げかけた色々な言葉。それを真剣に受け止めていてくれていれば、今日もきっと病室に居てくれているはずという妙な確信はあった。
「さあ、もう少しで病院だから急ぎましょう?」
陽子は美祢にそう声をかけて歩を早めた。
何階の何号室に居るかは、もう分かっている。
二人は病院に入って真っすぐ病室へ向かった。
ノックをして入ろうとすると、丁度回診の医師が出てくるところだった。
「あ、先生!」
陽子は医師に呼びかけた。
「ああ、岩倉さん!」と医師は応じ「ちょうど良かった。説明しますから病室へ入って下さい。」と、医師は陽子に促し、一同は京一の病室へ入っていった。
京一は二人の姿を認めると、ペコリと頭を下げた。
「お兄ちゃん!」と言うが早いか、美祢は京一に抱きついた。ベッドはちょうど半身が起こされている状態だ。
「良かったよう。ちゃんと居てくれて。どっか行っちゃってて、もう会えなかったらどうしようかと思ってた。」
美祢はそう言って、京一を見上げた。
「どこにも行かないって昨日約束したじゃないか。だから大丈夫だよ。ちゃんとここに居ただろう?」
京一はそう言って、優しく微笑みながら、美祢の頭を軽く撫でた。
「この子ったら、ずっと心配してたんですよ。あなたが病室から消えてしまっていて、もう居ないんじゃないかって。」
そう言われて京一は、参ったなという感じの、苦笑いのような表情を浮かべた。
「さっき美祢ちゃんに言ったように、昨日約束しましたから。」
京一はそれだけを言った。
それだけしか言えなかったし、他にどう言えば良いのか分からなかった。
下手に何かを言えば、相手の好意につけ込んで、図々しさが先に立つような気がした。
具体的にはっきりそう思ったわけではないが、皮膚感覚的な部分で、何となくそう感じたのである。
「では感動のご対面のところ申し訳ありませんが、患者さんには既に説明したんですが、改めて説明させてもらってよろしいですか?」
医師は冗談なのか皮肉なのかよく分からない感じでそう言って、会話に割って入った。
「あ……はい、すいません!」
陽子はそう言って、医師の説明を待った。
ここから先は、いちいち細かく描写しても仕方ないので、かい摘んで要点のみを記していこう。
まず、京一の身体には何の以上も無いこと。
第二に、記憶喪失の件に関しては、何らかのキッカケがあれば戻る可能性は高いが、現在のところはそのキッカケを待つしかないこと。
第三に、これ以上入院の必要は無いので、もう退院の手続きを取って差し支えないこと等を説明した。
一通り説明した後に、医師は余談のようにこう言った。
「しかし不思議なこともあるものですねえ。
ぶつかった車には結構な凹み跡があったそうなんですが、それにも関わらず、身体には打撲痕が全然無かったんですから。」
えっ?!そうなんですかと、陽子と美祢は大いに驚いた。
京一は、そんな説明を聞いてもどこか他人事の様な感じだ。どんな風に感じてるのか、外からは何も伺えなかった。
「ええ、まるで何かに守られたような感じでね。」
陽子は当時美祢の方にばかり気を取られて、車の損傷具合のことなど気にも止めていなかった。今初めてその事実を聞かされて、驚くばかりである。
医師はそんな陽子たちを尻目に「それではこの後会計と退院手続きをお願いします」と言って、次の病室へ向かっていった。
医師の説明も一段落着いて、病室は三人だけになった。
後は会計と退院手続きを残すのみである。
「京一君…。」と、陽子は語りかけた。
「退院したら、とりあえずうちへ寄らない?今後の事も相談したいし。」
京一はしばらく黙っていた。
何かを考えてる風でもあった。
「申し出はありがたいんですが、ご迷惑ではないですか?」
やっとそれだけ言うと、下を向いてしまった。
「何を言ってるの?迷惑だと思っていたら、こうしてここには居ないわよ。」
そう言って、陽子は京一の両手を握った。
「あなたは事故から美祢の命を助けてくれた。そうしてくれていなかったら、美祢は未だにここに居るかどうかなんて、分からなかったわ。」
陽子はそう言いながら、握っている手に力を込めた。
「あなたには私達は大きな借りがあるわ。でも、ここであなたの力になれなかったら、私達は一体どうすれば良いの?ここであなたと別れて二度と会えなかったりしたら、胸に一生モヤモヤが残ってしまうわ。後悔することになるわ。記憶も行き場も分からない命の恩人を、一人っきりで放り出すなんてことは出来ないわ!」
京一はそんな陽子の話をじっと聞いていたが、何か感じるところがあったようだ。
「お兄ちゃん。とりあえずうちにおいでよ。私もっと一緒に居たいよ。」
美祢はそう言って、京一の身体に回してる腕にギュッと力を込めた。
「美祢は今朝からずっと心配してたんですよ。あなたがちゃんと病院に居るかどうか。来る途中で何度も同じことを聞いてきたんです。」
陽子は美祢の様子を見やりながら、そう言った。
「そうだったんですか。何だかご心配をかけてすいません。では、退院できたら、お宅に伺わせていただきます。」
そう言って京一は頭を下げた。
「そうと決まったら、退院手続きと会計をしてくるわね」
そう言って、陽子は病室を出ていった。
後には美祢と京一の二人だけである。
美祢はまだ京一に抱きついていた。
「美祢ちゃん、ずっとそうやってて疲れないかい?」と、京一は美祢の様子を伺った。
「うん、平気だよ。これくらい。」
そう言いながらも、美祢の抱きついてる腕の力が段々弱くなっていってるのを京一は感じていた。
「でも僕はもうどこにも行かないから、そんなに頑張らなくても大丈夫だよ。そばにある椅子にでも座って、もっと楽にしなよ。もう腕が疲れてきてるだろ?」と、京一は美祢を促した。
「ホントに何処にも行かない?」
美祢はそう言って、また下から上目使いに京一を見た。
「ホントだよ。逃げたりしないから。」
クスクスと笑いたくなるのを堪えながら、京一はそう言った。
何て可愛らしいんだろう。
今までそんな事を考える余裕も無かったが、気持ちに少し余裕が出てきた今、この子を無事に助けられて良かったと、京一は心から思った。
そうしているうちに、手続きを終えて、陽子が病室に戻ってきた。
「あら、あなたやっと頑張るのをやめたのね」
陽子は椅子に座っている美祢を見て、笑い混じりでそう言った。
「疲れたからやめたんじゃないからね。お兄ちゃんが何処にも行かないって約束してくれたから勘弁してあげたの!」
美祢は少しムキになった感じで陽子へそう言った。
陽子は「はいはい、よく分かったわよ」と、美祢へなだめる様に言い、「京一君、手続き終わったわよ。着替えて病院を出ましょう。」
そう言って、京一に着替えと持参していた荷物のまとめを促した。
まとめと言ったところで、ショルダーバッグ一つしか荷物は無いのだが。
タクシーを呼んで、三人で乗り込み岩倉家へ向かう。
「これからどうするか、帰ったら考えましょう。」
車中で陽子はそう言った。
走り始めてしばらく経って、陽子のスマートフォンが鳴り出した。
誰かしらと思い、バッグから取り出し発信元を確認する。
あら!という表情で、着信ボタンをタップして電話に出る。
「もしもし。陽一さん?」
かけてきたのは、陽子の夫の陽一からだった。