50.あの夏の日
「待ちなさい、京一!」
家の中を駆け抜ける京一を、鈴音は必死の思いで呼び止める。
京一が村の小学校に入学して、4ヶ月が経つ。
夏休み前には一息つける時間もあったのに、夏休みということで、鈴音は気の休まる暇もない。
この日、夫の流は近在地方の神主の集まりということで出張である。
京一は着替えもそこそこに、出かけようと玄関に向かう。
「京一!出かける前に、朝ごはんくらいちゃんと食べていきなさい!」
鈴音は少し厳しい口調でそう言った。
「はーい!」
京一は、仕方ないなという顔を見せ、テーブルに就いて、ご飯に卵をかけて流し込んだ。
「まぁまぁ…そんなに急いでご飯を流し込んだらお腹壊しちゃうわよ。」
鈴音は呆れて、我が息子の食べる様子を見ていた。
「平気だよ!」
京一は、口から米粒を飛ばさんばかりの勢いでそう言うと、残った味噌汁を流し込み、食器を台所へ持っていった。
「まだおかずが丸々残っているわよ。」
京一の背中へ、鈴音がそう声をかけると「それ、お昼に食べるよ!」と言い残して玄関へ向かい、靴を履いて行ってしまった。
「しょうがない子ねえ。」
鈴音は半ば呆れ、半ば諦め顔で苦笑いしながら京一を見送った。
京一は境内を抜けて、神社のすぐ近くにある小さな森へ向かった。
鳥や虫、何頭かの鹿などが生息できるだけの環境は十分備えた森だ。
森の奥にはきれいな水が湧き出る小さな泉もあって、京一は喉が乾くとその泉で喉を潤すことがよくあった。
小学校入学前の小さな頃は、流が散歩がてらよく連れて歩いたものだ。
閑静で緑豊かな森の中で、情操を育てようという気持ちもあったが、自身の気分転換も兼ねていた。
何度も何度も森の中へ連れて行ってもらううちに、京一は一人でも森の中へ遊びに行くようになった。
それほど深い森でもなかったし、学校の友達や上級生もこの森でよく遊ぶ。
村の大人達も、幼き頃はよくこの森で遊んだ思い出があった。
「あまり奥まで行ってはいけないよ。」
出くわす大人達みんなにそう言われて、京一も注意はしていた。
そこまで奥に行かなくても十分に遊ぶ楽しみは味わえたし、友達や上級生の男の子と森へ入れば、色んな遊びを教えてくれた。
森へと繋がる小路に小さな祠があって、中には道祖神が祀られていると言われていた。
「京一。この中には神様が祀られているから、通るたびに毎回キチンと手を合わせてお祈りするんだよ。」
祠の前を通る度に、流は息子へそう教えた。
父親の教えを守り、京一は今でもその祠の前を通る度に、短い時間だが、手をあわせてお祈りをする。
ある日、京一は父に何を祈れば良いのか訊いたことがある。
流は面食らって、苦笑いしながら「何でも良いんだよ」と言った。
そうして、京一の前に跪いて目線を合わせて続きを語った。
「でもなあ、京一。何かを誰かの為に祈ってあげたら、その誰かは喜ぶかもしれないぞ。お前だって、誰かが自分の為に祈ってくれたって分かったら嬉しくないか?」
父からそんな話を聞いて、京一はしばらく考えている風だったが、父親にニッコリ笑って「うん、うれしい!」と言って、祠に何かをお祈りしていた。
帰りに流は京一に、何をお祈りしていたんだい?と聞いたが「今日もお母さんが美味しいご飯を作ってくれますようにー!」と聞いて、流は大笑いした。
「それ、お母さんが喜ぶかなあ。」
流は息子の頭を撫でながら、少し呆れ顔で言った。
京一は、祠の前で手を合わせたあと、森へと駆けていく。
森は木が密集していたが、獣道のような少し細い小道があり、そこをしばらく行くと、少し広くなった場所がある。
学校の友達や上級生達と森に入った時も、そこから奥へは行かないようにするというのが不文律のようなものになっていた。
広くなった場所から少し手前に戻って右に折れたらすぐに、泉の湧いている場所がある。
喉が渇いたらそこで水を飲めば良い。
村の人々も、お茶を立てたりお酒を割ったりするときに使う水を汲みに来るくらい綺麗で、村の人々にもよく知られた場所だ。
この広場で京一は、虫を取ったり、生っている木の実を食べたり、動物と遊んだりする。
「来たよーっ!」
森に向かって呼びかける。
色んな鳥たちや鹿などが、京一の前に現れる。
鳥たちは京一の頭の上に止まったり肩の上に止まったり。
親子連れで現れた鹿のうち、子鹿は近寄って京一の頬を舐めたりした。
「おい、やめろよ。いつも言ってるだろう?」
そう言ってる京一の顔は、でもそれほど満更でもない表情だ。
この広場で京一は鹿と軽い追いかけっこをしたり、葉っぱを千切って、父から教えられた葉笛を吹いたりする。
鳥達には、鈴音に黙ってこっそり持ってきた米をあげたりする。
京一はそれをついばむ鳥達の様子を見ているだけでも楽しくて堪らない。
だが、鳥たちや動物たちは、他の人間たちの気配を感じると、大急ぎで姿を消してしまう。
しばらく様子を伺ってると、上級生や同じ学年の子どもたちが何人かでやってきた。
複式学級なので、上級生も下級生も、関係性の密度は普通の学校よりとても濃い。
「なんだ京一、お前もう来てたのかよ。」
5年生の三太がそう言いながら、重い身体を持て余すように京一に近付いてきた。
「みんなを呼び集めた時に、お前だけ来ないから、どうしたのかと思ったよ。」
三太は分校での一番上の学年の生徒で、ただ一人の5年生だ。
分校の最上級生として、他の下級生の子達を束ねている。
「お前いつも言ってるだろ?森に入るときは一人だと危ないから皆で入ろうって。何かあったらどうすんだよバカ。」
三太はそう言って京一を叱った。
三太には下級生達を束ねている責任というものがある。
京一には京一の言い分があるかもしれないが、決してそれを容認するつもりは無かった。
「みんな知ってると思うけど、この広場より奥には行くなよ。何かあったら大変だから。」
三太は、分かってるだろうなという目で全員を見渡す。
「返事は?」と訊くと、はーいとか、分かったーとかいう返事が返ってきた。
こうして時々締めておかないと、勝手に行動する子が出てきてしまうことを三太は分かっていた。
そうして、拾った枝で数字を書いて算数を教えてやったり、食べることのできる木の実を取ってやったりした。
誰に頼まれた訳でもなく、誰に指導されたわけでもないが、学校の下級生から上級生まで入り混じって、それなりの序列というものが出来ていた。
広場で遊んだり、泉へ行って水を飲んだり。
そんな事を続けてどれくらいの時間が経ったことだろう。
下級生の面倒を見ながらも、三太は何か違和感を感じていた。
「おい、美香は?どうした?」
美香というのは、2年生の女の子だ。
何か一つのことに気を取られると、周囲に気が回らないクセがある。
三太は三年生の省吾に話しかけた。
「知らねえよ。おれ、木に絵を彫るのに夢中になってて。」
三太は少し焦った気持ちで周囲を見渡したが、やはり見えない。
「お前ら、ちょっとそこを動くなよ。美香を探してくる。省吾、頼む。」
そう言い残して、三太は森の奥へ行こうとした。
「僕も行くよ」
京一はそう言って、三太の後に付いてきた。
「駄目だ。お前は来るな。」
三太はニベもなく京一にそういった。
「ひとりきりで何かあったらどうするんだよ。美香ちゃんを見つける前に。」
走りながら京一は三太にそう言った。
三太は立ち止まった。
それにつられて、京一も立ち止まった。
三太はしばらくの間、じっと京一を見ていた。
「チェッ!勝手にしろ。足手まといにだけはなるなよ!」
三太はそう言って、二人はまた走り出した。




