49.京一誕生
穏やかに、日々は過ぎていった。
やがて鈴音のお腹も安定期に入った。
彼女は相変わらず境内の掃除などは続けていた。
そのせいで、流はやきもきしたりもしたが、適度な運動は安産のためにも良いとお医者様が言ってたと鈴音は言い、仕事は譲らなかった。
料理も同様だった。
私の作った料理を、あなたが美味しそうに食べてくれるのが嬉しいと、出産の為に病院へ入院するギリギリの時期までやめようとはしなかった。
近所の人々が心配して、よくおかずや野菜などを持ってきてくれる。
流はそれらを、深く頭を下げてお礼を言いつつ受け取り感謝した。
日々は更に流れて行った。
そうしてある日、陣痛の時が来た。
村の人が、二人を病院まで車で運んでくれた。
分娩室の前で、流はクマみたいに何度も行ったり来たりしながらソワソワしていた。
「ああっ!」という鈴音が苦しむ声が、ドア越しに聞こえてくる。それなのに、自分は何もしてやれない。
自分は何と無力なのだろうという思いが全身を包む。
ドア越しに「鈴音、がんばれぇ!」と叫ぶのが精一杯だ。
そうして、どれぐらいの時間が流れたろう。
「オギャー!オギャー!」という産声が聞こえた。
一人の新しい人間が、この世界に仲間入りした瞬間を宣言する声だった。
「終わりましたよ。男の子です。おめでとうございます。赤ちゃんの顔を見てあげてくださいね。」
まだ若い看護師にそう言われ、流は分娩室の中へ招かれて入っていった。
そこには、出産を終えたばかりの妻と、今はすやすやと寝ている赤ん坊の姿があった。
流は妻の手を握って「お疲れさん」と言った。
そして「この子と出会わせてくれてありがとう」とも。
「流さん…わたしの方こそ、この子と出会わせてくれてありがとう。わたし…頑張ったよ。」
そう言った鈴音の表情は、ホッとしたと同時に、どこか誇らしげだった。
「うん…うん…分かってる。今はしばらくの間、ゆっくり休んでな。」
流は頷きながら、そう言うのがやっとだった。
いつの間にか涙が頬をつたい落ち、慌てて腕で拭った。
「アハハ、すまないな。頑張ったのはお前の方なのに…。」
流は何だか気恥ずかしくなってそう言った。
自分は何もしてない。ただ妻の戦場の外でクマのように行ったり来たりしていただけだ。
自分に涙など流す資格はない。そう思って気恥ずかしい気分になった。
鈴音はそんな夫を引き寄せ、首をギュッと抱いた。
「そんなこと無いわ。あなたにはこれから頑張ってもらうんですもの。ね!お父さん。」
そう耳元で囁かれて、流には急に父親としての自覚が芽生えてきた。
「もちろんだよ!もう、これから色々と頑張っちゃうよ、俺。」
そこまで話したところで、看護師から説明があった。
「それではこれから、お子さんとお母さんを、病室に運びます。
今日はもう母子ともに疲れてるでしょうから、また明日来てくださいね。」
そう言われて、鈴音と赤ん坊は病室へ運ばれていった。
「じゃあ、俺はまた明日来る。ゆっくり休むんだぞ。」
ストレッチャーと共に歩きながら、流は妻にそう言って、病室へ入るのを見送ってから帰路についた。
それから退院するまでの間、流は毎日鈴音の病室へ顔を出した。
「そんな毎日来なくてもいいのに。来るの大変でしょう?」
鈴音は苦笑いしながら夫へ言った。
「大変なもんか。病院さえ許してくれれば、ここに泊まり込みたいくらいだよ。」
そんな冗談を言い、鈴音を笑わせた。
「でも貴方が言うと、冗談に聞こえないわ。」
鈴音にそう言われて、流は少しバツの悪そうな顔をした。
しかしその夫の優しさも、妻の回復を後押しし、親子揃って退院の日となった。
帰りも、入院の時に車を出してくれた人が、快くまた車を出してくれた。
「村田さん、何度もすいませんね。うちが車無いばかりに。」
流がそう言って恐縮そうにすると、村田さんと呼ばれた年配の男性は、運転しながら気さくに答えた。
「なぁに、良いってことよ。息子を連れて今日で退院。めでたい話じゃないか。
こうして迎えに来てやれるのも、俺としては嬉しい気分だよ。
退院おめでとう。」
村田さんにそう言われて、二人は改めて嬉しさを噛み締めた。
「所でよ。二人はもう、息子の名前は決めてるのかい?」
村田さんの問いに、流はある決心をしたような顔を鈴音へ向けた。
「実は…そのことなんだけど…君さえ良ければずっと考えてた名前があるんだよ。聞いてくれるかな?」
鈴音は少し驚いたような表情で、流に訊いた。
「まあ…何ていう名前?」
「きょういち。今日の一番を更新し続ける事ができるように。
でも、今日の一だと変な字面だから、京都の京を取って京一。雅な雰囲気も出るし。どう……かな……?」
流は鈴音へ恐る恐る尋ねた。
鈴音は其の名前を反芻するように繰り返したあとで「いい名前だわ!ありがとう、流さん。」
鈴音は流へ笑顔を向けて、その提案に賛同した。
「そ…そうか。よ、良かったー!」
流は心底ホッとしたというように、身体をシートに預けた。
「お前は今日から京一だよ。よろしくね、京一。」
鈴音はそう言いながら、京一に頬ずりした。
「そろそろ着くぜ!」
村田さんの声に、二人は外に目を向ける。
「帰ってきたわね」という鈴音の声に「うん。帰ってきた。お帰り。」と、流は応える。
やがて神社の鳥居の前を通りかかったとき、村田さんは車を止めた。
「こりゃあ…何ていう事だい!」
村田さんは驚いたように言う。
「どうしました?」
流は訝しげに村田さんに訊ねた。
「降りて見てみなよ。凄いものが見れるぜ。」
不思議な心持ちで流は車から降りて確認する。
鳥居の側には大きな桜の木がある。
今の季節は、花はとっくに散っていて、裸の枝がその姿を晒すばかりになっている。
ところがどうだろう。
季節外れの桜が満開に咲いているではないか。
まるで京一の到着を歓迎するように。
「おい、鈴音。ちょっと車から出ておいで!早く。」
そう促されて、鈴音も京一を抱いたまま車から出てきた。
「まあ……なんて事!」
季節外れの満開の桜に、鈴音も言葉にならなかった。
「あんたらの息子の誕生を、桜もお祝いしてるんだな。」
村田さんは、少しぶっきらぼうにそう言った。
「鈴音…俺たちも更新し続けような。今日の一番ってやつを。」
流は桜を見上げながら、鈴音へそう語りかけた。
「ええ…。」
そう言ったきり、後は言葉にならず、しばらくの間、3人は桜を見上げていた。




