46.幻視の向こう側で
それは京一が岩倉家と巡り会った当初から所持していた、不思議なアイテムだった。
一見まるで懐中時計に見える。
しかし時計ではない。
文字盤に相当する部分は、まるで深く青い水晶のようになっていて、じっと見てるとまるで水が揺らめいてるようだ。
慎一も事務所で実際に見たとき、じっと見てると魂が魅入られるような気分になりそうだったので、写真を撮影後はあまり見ないようにしていた。
慎一はその写真を見せながら、清吉が知ってるものなら根掘り葉掘りと聞きたい気持ちを抑えきれなかった。
「爺さん。これは一体何に使うものなんだい?よもや時計ではないよな?」
「これはな…加賀美家に代々伝わるものじゃよ。一種のお守りみたいな物じゃな。」
慎一はそれを聞いてようやく得心の行く思いをした。
「じゃあ、何で裏側にギリシャ文字のθが書いてあるんだい?代々続く神道の家系には関係なさそうだけどな。古代ギリシャと何か関係でもあるのかい?」
慎一は、これを見てからずっと抱えてきた疑問を口にした。
「あのな…これはな…ギリシャ文字とはなんの関係もないわい。本来はこうして見るんじゃい。」
清吉は言いながら、マークの写ってる写真を真横にした。
「これを持つ者は、境界を飛び越えるもの、という意味じゃ。真ん中の線が境界線じゃよ。」
慎一はその言葉を聞いて、頭がクラクラするような感覚を覚えた。
言葉でクラクラ来てるのか、飲んだ酒の影響なのか、何とも判然としなかったが。
「境界って…どういう意味だよ、清吉さん。」
自分は今、何か触れちゃいけない秘密に触れてるような気がして、心臓が早鐘を打っているような気がしていた。
「距離を隔てる境界…幽世とこの世を隔てる境界…内面世界と外面世界を隔てる境界…まあ、色々あるわいな。」
清吉は思わせぶりな顔で無造作に言った。
「それを飛び越えるって?」
傍から聞いてたら、まともな会話じゃない。そんな事は分かってる。
しかし、慎一は事前に京一からアポーツ現象に似たような事象をすでに聞いている。
それに似た現象が日常的に起こっているなら、他に何が起こったって不思議じゃないとも言える。
慎一は湯飲み茶碗に酒を注いで、ゴクゴクと飲んだ。
こんな話をとても素面じゃ聞いていられないと思ったのだ。
「文字通りの意味よ。持ち主の必然と必要に応じて、コイツは機能を発揮する。」
清吉は言いながら一口酒を口に含んだ。
「それは…本人の意思によって恣意的には使えないこともあるということかい?」
慎一は酔いでいささか朦朧としながらも、やっとの事で清吉にそう尋ねた。
「使うべき必然が来たら、その能力を発揮するという事じゃ。
好き勝手に使うには、能力があまりにも大きすぎるでの。」
慎一はその説明を聞きながら、なぜこの爺さんは、そんな事まで細々と知ってるのだろうかと思った。
しかし、このアイテムに関して一番気になる事を尋ねておかねばならない。
「なあ…もしこいつが誰かに奪われたり、もしくは壊された場合はどうなるんだ?周囲に何か影響はあるのか?」
「こいつが持ち主と離れることは決してない。
何処に置いてこようが、誰かに奪われようが、境界を越えて持ち主の元に戻ってくる。
もしこいつを壊そうとする奴がいたとしても無駄なことじゃよ。
しかし、もし壊されでもしたら…」
清吉はそこで言葉を切った。
「もし…壊されでもしたら?」
慎一は思わずオウム返しに聞き返した。
「全部やり直しじゃあ。」
清吉はそう言いながら、ニヤッと笑った。
「そ…それは一体どういう意味だよ。」
慎一は激しい動悸を感じながら、清吉へ尋ねた。
「文字通りの意味よ。」
清吉は素っ気ない感じでそう言いながら、酒を一口飲んだ。
清吉の口調には、それ以上の追求は許さないような雰囲気があり、それを越えて質問することは憚られた。
多分質問したとて、はぐらかされるのがオチだったかもしれない。
「じ…じゃあ最後にもうひとつだけ。
今ここに清吉さん一人だけっていうことは、京一くんの両親はとうしたんだい?何処かに行ってるのかい?」
慎一は、最後にこれだけは確認しておかなければ帰れないという気持ちで清吉に尋ねた。
清吉は酒を飲みながら、慎一に言った。
「それはな…お前さんが自分の目で確かめてみると良いわい。そろそろ酒が回って、意識も朦朧としてくる所だろうしの。」
慎一は酔いの回った頭で、その言葉を理解するのだけで精一杯だった。
おかしい。
自分はそんなにアルコールに弱くなかったはずだ。
それなのに、この強烈な酔いはどうだ。
一升瓶の半分くらいしか飲んでないはずなのに。
「そろそろ効いてきたか。ここで何が起こったか、じっくりと確認するがええ。」
清吉のそんなセリフを遠くに感じながら、慎一は意識を失っていった。




