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36.せめぎ合いの中で

  京一を乗せてバスは走る。

  車窓を眺めながら、京一は岩倉家に出会ってからのことを色々と思い出していた。

  あれからもう何ヶ月経ったことだろう。

  普通記憶がないというのは不安なもので、早く自分の身元を知りたいと思うものなのだが、不思議と現在の自分はそういう思いが希薄だ。

  それは多分、岩倉家との暮らしが、どこか満たされたものだったからだろう。

  膳場探偵事務所へ向かう道すがら、正直いえば、期待よりも不安の方が根強い。

  何故なら、内容によっては岩倉家を去ることになるのではないかとの可能性も否めないからだ。

  車窓を眺めながら感じる京一の思いは、そういうものだった。

  やがてバスのアナウンスは、膳場探偵事務所の近くのバス停への到着のアナウンスを告げた。

  料金を払ってバスを降りる。

  歩いて事務所へ向かう。

  前回陽子と訪問したので道順は分かっている。

  雑居ビルの二階へ上り、ドアをノックする。

  慎一がわざわざドアを開けて迎えてくれた。

  「どうもどうも!わざわざお呼びだて致しまして!」と声をかけてきた。

  「いえいえ。こちらこそわざわざ出迎えありがとうございます。」と応じた。

  「喉が乾いてませんか?何か飲み物出しますね。」と京一へ言うが「いえ、大丈夫です。それよりも要件の方を先に。」と慎一へ言う。

  「まあまあ、そう言わずに。私も喉が乾いてるので付き合ってくださいよ。」

  慎一はそう言って、京一へお茶のペットボトルを渡した。

  まるで焦らしてるみたいだな、と思いつつ、京一はお茶を一口飲んだ。

  それから暫くは世間話が進んだ。

  主に慎一の方で一方的に喋ってるのに近かったが。

  話題は慎一の祖父である膳場会長の話が多かった。

  「だから俺、爺さんに言ったんですよ。家族なんだから店のもの少しは安くしてくれって。

  そうしたら、あの爺さんなんて言ったと思います?

  お前に安くする位なら客に還元するって。」

  そう言って慎一は笑った。

  「あの…膳場さん。」

 京一は焦れたように慎一へ言った。

  「そろそろ本題の方に行ってもらって良いですか?」

  京一は少し顔をしかめ、世間話に付き合うのに疲れたと言った雰囲気を出した。

  お互いのペットボトルは、もう半分が減っていた。

  「ああ、すいません。」

  慎一は咳払いしながらそう言った。

  「加賀美さん。」

  慎一は改まった調子で京一へ呼びかけた。

  「はい。」

  京一はいよいよ来たなという緊張をもって返事をした。

  「あなた、自分の身元が分かったあとで、どうしますか?」

  想定とは違う意外な事を聞いてきたので、京一は面食らった。

  「え…?」

  京一はあまりの意外な問いかけに、すぐには返事できなかった。

  「そ…それは…。」

  頭の中では色々な思いが交錯していた。

  もしかしたら家で自分の帰りを待っている人達が居るかもしれない。

  しかし…岩倉家の人々とも約束したのだ。

  ちゃんと帰ってくると。

  二つの思いが交錯し、京一の心は千々に乱れた。

  「いえね、今まで知らずにいた事を知ってしまうと、もう戻れないと思ったもんですからね。

  それはあなたの今の生活を根本から変えてしまうことにもなりかねないし、だからこうして覚悟の程を聞いてる訳です。」

  慎一が今まではぐらかす様に世間話に終止していたのは、京一の覚悟を計りかねていたためだった。

  「そ…それは…。」

  京一はそう言われて、何も言い返せなくなった。

  「たまにいるんですよ。こんな事なら知りたくなかったって言う人が。

 こんな事なら何故、調べたけど判らなかったと言ってくれなかったのかって。

  こっちは一生懸命調べたのにね。

  だから…ね。こっちも貴方の覚悟を確認してる訳です。逆恨みされないようにね。

  貴方がここに来たのも、記憶無いのがうちの爺さんに知れて、余計なお節介受けて来たんでしょ?」

  図星過ぎて京一は一言も返せなかった。

  「だから今なら引き返せますよ。何も知らなかったことにして、今までの生活を続けたいんなら、ここから出ていっても構いません。」

  慎一はそう言って、指でドアを指し示した。

  京一はそう言われて身じろぎも出来なかった。

  何故なら彼は本当の自分を知りたいという欲求と、岩倉家での今までの温かい生活の板挟みになっていたのだ。

  二人の間に沈黙が流れた。

  慎一は京一から何か言い出すまで辛抱強く待った。

  時折、喉が乾いてペットボトルを傾ける、チャプンという音だけが響いた。

  「調べは…付いているのですか?」

  京一は震える声で、恐る恐る聞いた。

「ええ。判る限りは調べましたよ。」

  何がどう判ったのかまでは言わないところが、慎一のズルいところだ。

  「で…どこら辺まで判ったのですか?」

  矛盾した心理のせめぎ合いだった。

  知ったら引き返せないと分かっているのに、聞かずにはいられない。

  「それを知ったら、もう引き返せませんよ。良いんですね?」

  慎一は、京一に対して、しつこいくらいに覚悟を迫った。

  京一は、しつこいですよと言いたい言葉をぐっと飲み込んで覚悟を決めた。

  「構いません。どのような結果が来ても、受け止める覚悟は出来ましたから。」

  京一は、真正面から慎一の目を見ながら、そう言った。

  「よろしい。」

  慎一はペットボトルに残ってたお茶を全部飲み干してそう言うと、京一へ向けてニヤリと笑った。

  そして席を離れ、デスクの引き出しから何枚かに綴られた報告書のファイルを取り出すと、京一の前に置いた。

  「報告書のファイルです。ご覧下さい。」

  慎一は京一へ、神妙な顔をしてそう告げた。

  京一は震える手でファイルに手を伸ばした。

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