35.きっとまた…
美祢を送り出したあと、京一は踵を返して家に戻った。
家の中には、陽子と二人きりだ。
「京一くん。家を出るまでは、まだ時間あるでしょ? それまでどうするの?」
陽子がキッチンから顔を覗かせる。
「そうですね。いつものことですが、陽一さんから送られてきた写真がまだ残ってますから……出発の時間まで、それを整理しようと思います」
京一は淡々と答えた。
「そう。じゃあ私も仕事開始の時間までまだあるし、コーヒー飲むわ。ちょっと付き合ってくれない?」
そう言うと、陽子は棚からインスタントコーヒーを取り出して、お湯を沸かし始めた。
「ありがとうございます。いただきます」
休日の朝、こんなふうにふたりでコーヒーを飲むことは、たまにある。
たいてい陽子が話して、京一が静かに頷く。そんなやりとりが心地よいのだ。
「昨日はね、美祢が面倒かけてごめんなさい」
陽子は湯気の立つカップを手に、少しだけ頭を下げた。
「い、いえ。むしろ僕のほうこそ……なんか、美祢ちゃんを悲しませた気がして、申し訳なかったです」
京一は小さく頭を下げて、熱いコーヒーを一口すする。
「違うのよ。京一くんは悪くない。ただ……思ってた以上に、あの子があなたに懐いちゃったのね。
……いずれ記憶が戻って、あなたが出ていってしまうかもって、分かってたつもりなのに」
陽子の声が少しだけ揺れていた。
京一は黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「あの……出てけって言われたら別ですけど、僕は、自分から出ていくつもりはありません。
だって、陽子さん、昨日言ってくれたじゃないですか。……僕たちは、もう、家族だって」
その言葉をなんとか絞り出すと、恥ずかしさに耐えきれず、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「熱っ……」
カップを置くなり立ち上がり、キッチンに駆けて水道水をゴクゴクと飲む。
「ふふ……そうだったわね」
陽子はふわりと笑った。
「そう言ってくれて、安心した。美祢も、きっと安心するわ」
「……それに、今朝も美祢ちゃんに怒られましたからね。『ちゃんと帰ってくるよね』って、すごい顔で迫られました。まるでヤクザですよ、あれは」
京一が肩をすくめると、陽子はプッと吹き出して、声を立てて笑った。
「やんなっちゃうわね、ほんと。あの子ったら」
しばしの間、静かで穏やかな空気がふたりを包んだ。
やがて、陽子が少し真顔になって言った。
「……じゃあ、結果がどうあれ、調査結果は教えてちょうだいね?」
「もちろんです」
京一は頷き、ふたりはそれぞれの仕事に取りかかることにした。
そして時計の針は11時半を指し示そうとしていた。
陽子は、離れにいる京一に、少し早いけどお昼にしましょうと、母屋に呼び寄せた。
「この間お弁当用に焼いたシャケが余って冷凍してあったので、その身を解してシャケ炒飯にしましょう。」
陽子は、そう言って手早く作って京一にシャケ炒飯を出した。
京一はそれを一口食べて美味しさに驚き、バクバクと続けざまにスプーンを口に運んだ。
「ウフフ…どうやら気に入ったようね。」
京一の食べる様子を、陽子は満足そうに眺めていた。
「す…すごく美味しいです。」
そう言いながら、休む間もなく食べ続け、皿はあっという間に空になってしまった。
「ごちそうさまでした。」
京一はそう言って、深々と頭を下げた。
「もう少ししたら、バスの時間だわねえ」
陽子はそう言って時計を見た。
「はい。」
京一は腹が満たされた満足感と、家を出なければならない名残惜しさで複雑な気分だった。
「じゃあ行きましょうか。バス停まで見送ってあげるわ。」
いつもなら陽子もそんなことはわざわざしないのだが、今日は何かを感ずるものがあるらしい。
京一も特に遠慮することなく、ハイとだけ言って、二人で家を出た。
バス停への道すがら、二人は特に何を話すことなく、黙々と歩き続けた。
岩倉家からバス停までは、そんなに遠くはない。せいぜい5分くらいだ。
そうこうしてるうちに、バス停に着いた。
あと数分くらいでバスは到着するだろう。
まっすぐで見通しのいい道路なので、一つ手前のバス停を出発するバスがおぼろげに見えた。
「京一くん。ちゃんと帰ってきなさいよ。」
突然陽子が京一に言った。
「陽子さん……」
それ以上、京一は何も言えなかった。
「美味しいもの作って待ってるから…ちゃんと帰ってきなさいよ。」
そう言って、陽子は京一の肩をポンポンと叩いた。
そんな話をしてるうちに、京一の前でバスは止まって、ドアが開いた。
「はい。」
京一は努めて明るく返事をして、バスに乗り込んだ。
「行ってきます!」
そう言うのと同事に、バスの扉は閉まった。
陽子はバスの姿が見えなくなるまで、いつまでも走り去るバスを眺めていた。




