34.岩倉家の朝
翌日京一は目を開けると、ほんのり温かい重みに包まれていた。
美祢が小さな手足を絡めてしがみついている―まるで子猫だ。
すぐ隣には母親の陽子が静かに寝息を立てている。
美祢が安心してこんな寝相になったのも、無理はないことだろう。
京一は美祢を起こさないよう、身じろぎもせずにそのままの姿勢を保っていた。
やがて陽子が目を覚ました。
「おはよう、京一くん。」
美祢の寝姿を見て、少し驚いた表情を浮かべる。
「あらあら、京一くん、ごめんなさいね。こんな姿勢じゃよく眠れなかったでしょう?」
京一は微笑んで答えた。
「いえ、大丈夫ですよ。きっと僕が居なくなってしまうかもしれないという不安から、無意識にこんな寝相になったんでしょう。まだ起こすには早いので、もう少し寝かせておいてあげてください。」
陽子は「悪いわね」と言って、パジャマ代わりのスエットのままキッチンへ向かった。
「じゃあ少しの間だけお願いね。お米を研いじゃうから。」
そう言うと、炊飯器のタイマーをセットした。
「私も今日は手抜きするから、もう少し寝るわ。」
そう言って、再び布団に潜り込んだ。
京一は離れで写真の印刷を進めようとしたが、美祢がガッチリと抱きついているため起きられなかった。
仕方なく仰向けのまま目を閉じる。
ぼんやりと夢を見た。
暗闇の中から次々と声が聞こえる。
『お前は何を望む?』
『お前は誰に何を与える?』
『お前は何を贖う?』
『お前は世界の王になりたいか?』
問いかけは矢継ぎ早に続く。答える暇もない。
京一は必死にそれを押しのけて答えた。
『僕はこのままでいい。僕の身の回りの人たちと、このままの生活が続けば、他には何もいらない。』
また声が聞こえた。
『お前は世界の王になれる資質があるのに、見向きもしないのか』
『そんなもの…要らない!』
暗闇が薄れていき、遠くから誰かの声が聞こえた。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」
目を開けると、美祢の顔がすぐ近くにあった。
「ああ、美祢ちゃんか。おはよう。」
今の夢は一体……
目を擦りながら焦点を合わせようとする。
「どうしたの? なんかうなされてたよ?」
美祢が心配そうに聞く。
「何でもないよ。ちょっと…大きくなった美祢ちゃんに追いかけられる夢を見ただけさ。」
心配をかけまいとおどけて言うと、
「ひどーい!私そんなことしないもん!」
少し拗ねたような表情で、しかし本気ではない。
怒ったふりをしながら、京一に抱きついてきた。
京一はそんな美祢を優しく宥めてから、
「さあ、布団を片付けて朝ご飯を食べようか」と促した。
その日の朝食はカレーだった。
「えー?朝からカレー?」
麗華は驚いた顔をしたが、陽子は平然たるものだった。
「たまには手を抜きたい日もあるのよ。それにあんたは昨日お寿司食べてきて、カレー食べてないでしょ?丁度良いじゃない。」
その言葉に麗華はなんとも言えない表情を見せた。
「う~ん、お母さんのカレーは好きだけどさあ。朝からカレーかぁ。」
「それならお姉ちゃん食べなくて良いよ。」
カレーを口に運びながら、美祢は姉にバッサリと言った。
「私お母さんのカレー好きだもん。食べたい人が食べれば良いよ。ね?お兄ちゃん。」
「う…うん。どうだろうね。ハハ。僕は陽子さんのカレー好きだけど。」
下手にトバッチリを食わないように、美祢の問いかけにも、カレーを食べながら穏便な答えに努めようとするのが、その態度と表情からは見て取れた。
「んもう!分かったわよ。少し早いけど私もう行くね。」
時計の針が指し示している時間は、いつも家を出る時間より30分も早かった。
「麗華。あんたもうカレー食べないの?」
麗華の皿にはまだ半分近く残っていた。
「もういいわよ。お腹すいたらコンビニかどっかで何か買うから。」
麗華は少し投げやりな様子でそう言った。
「あんたお金は?今日お弁当作ってなかったから持っていきなさい。」
陽子は心配げに麗華へ言う。
「まだあるわよ。ほら。」
麗華は陽子に三千円程をポケットから出して指し示した。
「そう。なら気をつけていきなさいよ。」
陽子のその声を背中で聞きながら「行ってきます」のセリフを残し、バタンとドアの閉まる大きな音を響かせて麗華は家を出ていった。
「陽子さん。良いんですか?あれじゃ半分喧嘩みたいな感じじゃないですか。」
京一は心配して陽子に訊いた。
「良いのよ。良いの。あの子は今はああいう時期なんだから。」
陽子はサバサバした感じで京一に言った。
「誰にだってあるでしょ?些細なことでイライラしたり、何でもないことに尖ったり。大人になってから、そういう時期を懐かしく思い出すのよ。過ぎるまでは見守るしかないわ。」
「何だか今日のお姉ちゃん嫌い。」
頬を膨らませて美祢は言った。
「ホラホラ、美祢も支度しなさいよ。学校遅れちゃうでしょ?」
陽子に追い立てられるような感じで、美祢も学校へ行く準備をした。
そしていよいよ出発の時間。
「じゃあ美祢ちゃん、学校頑張ってね。」
京一が休みの時は美祢を学校に送り出すいつもの風景だ。
普段であれば、その言葉を受けて『行ってきます!』と元気に走って行くところだが、その日は様子が違った。
じっと京一を見つめている。
「どうしたんだい?美祢ちゃん。」
京一は美祢のいつもと違う様子に思わず聞いた。
「お兄ちゃんもお昼から出るんでしょ?」
思いつめたように京一を見つめながら言う。
「うん。一時までに行く約束だからね。」
京一はできるだけさり気なく言った。
「帰ってくるよね。」
美祢は大切なことを確認するように聞いてきた。
「今日用事が終わったら帰ってくるよね?」
京一から目を逸らさずに問いかけてくる。
京一は美祢に、ハッキリと言った。
「帰ってくるよ。ちゃんと帰ってくる。だから安心して行っておいで。」
京一は美祢の目を見ながらハッキリとそう言った。
「約束だからね!」
叫ぶようにそう言うと、クルリと踵を返して学校へ向けて走っていった。
京一はその後ろ姿を見えなくなるまで眺めていた。




