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02.僕は……

  加賀美京一……

  加賀美京一……

  陽子は写真を見ながら、その名前を何度も何度も反芻していた。

  この写真を今ベッドに横たわっている青年が持っているということは、あの赤ん坊がこの青年ということで、間違いは無いのではないか。

  陽子はそう思いながら、ベッドに目をやった。

  だとすると、彼の名前は加賀美京一ということなのだろう。

  ついさっき迄は、彼の名前さえ分からなかったのだ。それに比べたら大きな前進ではないかと陽子には思えた。

  陽子はそう思いながら、再び写真に目をやる。

  赤ん坊を抱いた和服姿の女性は愛おしげに我が子に目をやり、幸せそうに微笑んでいた。

  もしかしたら、時期的にお宮参りに神社を訪れたのではないだろうか。

  そして二人を撮影したのは彼女の旦那さんだったのかもしれない。

  本当に綺麗な人。

  陽子はそう思いながら、麗華と美祢をそれぞれお宮参りに連れて行った時を思い出していた。

  あの頃は色々と大変だった。

  今も子育てと仕事の両立で大変な部分もあるが、当時は現在の比ではない。

  夫は出張の多い仕事で家を空けることが多かったので、必然的に子育てはワンオペ育児になってしまう。

 自分の両親は遠い村に住んでて、簡単にはサポートを頼めないし、旦那の両親は早世して、こちらも頼ることは出来ない。

  会社の上司に頼み込んで育児休暇を取り、ある程度手がかかからなくなるまで奮闘してた時期が、陽子にはあった。

  幸いというか何というか、時々後輩が仕事の件でメールを送ってきたり、電話をかけてきたりして、その度に仕事のアドバイスなどをしていたから、仕事の勘は鈍らずに済んだ。

  現在はリモートワーク中心になったので、子育てと仕事の両立は、あの頃よりは順調に回せてる感じだ。

  これも流行り病の思わぬ副産物と言ったところか。

  病の蔓延により失われたものも多かったが、失われたものばかりを数え上げても仕方ないことだ。それよりも前向きに、得られたメリットの方を数えたほうが良い。

  「お母さん!」

  美祢に声をかけられ、陽子はハッと我に返った。

  「ど…どうしたの?美祢。」

  いきなり声をかけられて、慌てたように美祢に応える。

  「お兄ちゃん、目を覚ましそうだよ!」

  陽子はそれを聞いて、バッグから出した諸々を、慌てて中へ仕舞った。

  うーんという、少し苦しげな声を上げながら、まぶたの中の目が少しグリグリと動き、それから青年はゆっくりと目を開けた。

  「お母さん!お兄ちゃん目を覚ましたよぉ!」

  美祢が嬉しそうに陽子に言う。

  「良かった。気が付いたのね。」

  陽子はホッとしたように、そして感慨深げに青年に言った。

  青年は最初眩しそうに周囲を見渡していたが、自分がどこにいるのか分からず戸惑っているように見えた。

  「ここは…。」

  青年は誰に問うわけでもなく、独り言のように呟いた。

  時計の針は七時近くを指していた。

  病院に運び込まれてから一時間半が経過しようとしていた。

  青年は周囲を見回すと、陽子たちの姿を認め「あなた達は?」と問いかけた。

  「ここは病院よ」と陽子は言った。

  「私はあなたが助けてくれた女の子の母親です。あなたは私の娘を助けるために車にぶつかって病院に運び込まれたの。そしてここはその病室です。」

  青年は、やっと得心が行ったという様子で「そうでしたか」と答えた。

  「意識が戻ったので、看護師さん呼びますね」

  それ以降のプロセスは、意識を取り戻した患者に対しては、通常行われるべきものが行われたということで、簡単に述べるに留めおいても十分だろう。

  ナースコールに応じて患者が意識を取り戻したのを看護師が確認し、医師を連れて病室にやって来る。

  そうして一通りの診察の後、特に異常は見受けられないという診断に達した。

  念の為翌日にもう一度診察を受け、異常が見受けられないようなら退院しても大丈夫だろうという結論に達した。

  そうして再び3人だけになった時、青年はおずおずと口を開いた。

  「お嬢さんは無事でしたか?怪我はしてませんか?」

  青年は今の所一番気になっていたことを陽子に問いかけた。

  「ええ、大丈夫ですわ。あなたのおかげです、本当に。」

  陽子は感謝に耐えないという面持ちで、青年にそう言った。

  「それは良かった。本当に良かった。」

  青年は繊細そうで細面の顔をホッとさせてそう言った。

  そして、半身を起こそうとした。

  「あ、無理をしないで。」と陽子は言って、青年の身体を支えて起き上がるのをサポートしようとした。

  「お母さん、ここにハンドル付いてるよ?回したらベッド起きるんじゃないかなあ」

  美祢に言われてベッドの頭側の下の方を見ると、なるほど小さなハンドルが付いている。

  陽子がそのハンドルを回そうとすると、「お母さん、私にやらせて?」と言って、楽しげにクルクルとハンドルを回し始めた。

  丁度良い位置までベッドが起き上がったので、陽子は「美祢、もう良いわよ」と言って、ハンドルの回転をストップさせた。

  そうして一段落付いたところで、陽子は青年に語りかけた。

  「改めて自己紹介しますわ。

  私は岩倉陽子。子育てをしながら会社員をしています。そして……」と言って美祢を招き寄せ、自分の前に立たせ両手を肩において「この子は美祢。危ないところをあなたに救われた私の娘です。」

  青年は面映い様子で陽子たちを見つめながら「や、やめてください。別に僕はそんなつもりじゃ……」

  そう言って顔をうつむけた。

  「ほら、美祢。あなたからもちゃんとお兄さんにお礼を言いなさい!」

  水を向けられた美祢はニコリと笑顔で「お兄ちゃん。ありがとう。」と、青年に向かって言って、ペコリと頭を下げた。

  「お、お礼だなんて。やめてください。それに……。」と言って、青年は口ごもった。

  そうして、掛け布団をギュッと握りしめた。

  「どうしたんですか?」と、陽子は訝しげに問いかけた。

  「僕……僕……覚えてないんです。」

  そう言った青年の声は消え入りそうであった。

  「覚えてない?」

  陽子は少し面食らった感じで、オウム返しのように青年に言った。一瞬、どういった意味か分からないとでも言うかのように。

  「はい。事故に遭いそうな美祢ちゃんを助けた事は、朧げには覚えてるんですが…それもぼんやりにといった感じで。」

  「そうなの……。」

  陽子は愕然とした面持ちで、そう言うのが精一杯だった。そうして思わず美祢の方に目を落とした。

  「お兄ちゃん、何にも覚えてないの?」

  美祢は無邪気に青年にそう訊ねた。

  青年は哀しいような、残念なような、それでいて苦笑いにも見えるような表情を浮かべながら、ただ「うん……。」とだけ言って、天を仰ぐような仕草を見せため息をついた。

  「じゃあ」と言いながら、美祢は青年のショルダーバッグをベッドの上に置いて「この中に、何か分かるものないかな?」と、青年に言った。

  陽子は、美祢ナイス!と思いつつ、言葉を継いで「とりあえず中の荷物を見てみませんか?」と言った。

  さすがの陽子も、寝てる間に中身を見ましたとは言いづらい。なので、それをどう切り出そうかと思っていたのだ。

  「そうですね」

  青年はそう言って、バッグをひっくり返して中身を見ていった。

  中身は先程記したとおりであるが、例の懐中時計のような物を手にした時に、青年はそれを長い間じっと見つめた。

  陽子は焦れたように「これはどんなものなのか、覚えてます?」と訊ねるが、やはり青年は首を横に振るばかりだ。

  「でも……これはとても綺麗なものですね」

  そうつぶやく青年の声音は、どこか人ごとのような響きだ。

  その次にお守り袋を手にして、やはりじっと見ていたが、陽子に「中を見てみたら、何か手がかりになるようなものが入ってるかもしれませんよ」と水を向けられ、中から写真を取り出した。

  ここに写ってる女の人は、あなたのお母さんかと陽子に聞かれても判然としない様子で、裏に書いてある名前を見ても反応は薄かった。

  しかし陽子に、自分の家族が写ってる写真でなければ持ち歩いてることはないのではないかと言われ、青年もそんな気がするという答えである。

  「じゃあ、あなたの名前は加賀美京一君ね」

  青年的には、これがまだ本当の名前かどうかは分らないと言う話だったが、とりあえず名前が分からないと不便ということもあり、写真裏の記載に基づいて、この時点で青年の名前は加賀美京一という事になった。

  ひとまずこれで、彼は事故で運び込まれた、身元不明の名前の分からない青年から、加賀美京一と言う青年だということになった。

  本当にそういう名前かどうかは分からない。

  しかし「本当の名前を思い出したら、その時点で名乗れば良いじゃない」という陽子の楽天的な意見により、ひとまずこの名前を使うことになった。

  そうこうしているうちに、ドアにノックの音がした。

  陽子がハイと返事をして扉を開ける。

  そこには菓子折りを持った、背広姿でネクタイをきっちり締めた、中年の男性が立っていた。

  「貴方は……どちら様ですか?」と、陽子は相手に尋ねる。

  「えー……この度は私の息子が大変なご迷惑をおかけしました。私は車を運転していた篠原孝の父親で、篠原守と申します。」

  そう言って、男性は入り口で頭を下げた。

  「お邪魔しても宜しいでしょうか?」と男性は言いながら、既に一歩部屋に足を踏み入れていた。

  陽子はその様子を見ながら「宜しいでしょうかも何も、既に一歩部屋の中に入ってるじゃないですか」と少し険のある声で言った。

  「これは大変失礼いたしました。廊下にいつまでも立ってたのでは、歩行者の邪魔になると思ったものですから。」

  篠原と名乗る男性は、そう言いながら、ズカズカと病室の中へ入ってきた。

  男性は汗を拭きながら、一見大変恐縮な面持ちではあったが、抜け目無さそうにそれとなくあたりを見回すと、ベッドから半身を起こしている京一を見つけ、ツカツカと近づいてきて「貴方が被害者でしたか。この度はうちの息子が大変なご迷惑をかけて、大変失礼をいたしました」と、大袈裟に頭を下げた。

  「つきましては、これは大変つまらない物なんですが」と言いながら、菓子折りを京一の目の前に置いた。

  そうして、その目は小狡く京一の出方を伺ってるように見えた。

  「謝るべきは僕にじゃなく、そこに居る美祢ちゃんと、彼女のお母さんになんじゃないですか?先に轢かれそうになったのは彼女なんですから」

  京一は、この茶番劇にも似た男の対応に、冷めた目をして相手を見遣った。

  「あ……そうでしたか。これはこれは大変失礼を致しました」

  そう言って、男は陽子たちの方を見遣り、申し訳無さそうな表情を顔に貼り付けながら、深々と頭を下げた。

  「ベッドにいるので私はてっきり……」

  男性がそう弁解しようとするのを遮って、陽子は荒げた声で怒りを滲ませながら相手に言った。

  「一体何なんですか?何で父親の貴方だけが来て、運転してた当人の息子さんが来てないんですか?うちの娘は、この人が助けてくれなかったら、あなたの息子さんに轢き殺されていたかもしれなかったんですよ。」と相手に問うた。

  男は相変わらず恐縮した表情を顔に貼り付けながら説明した。

  「おかげさまで、息子は書類送検だけで済んだんですが、引きこもりがぶり返して部屋を出ようとせんのです。」と、そう説明した。

  「ここ数年は、やっとそれも回復致しまして、少しずつ外に出るようにもなってきた機会に、最近免許を取らせたところだったんです。で、晴れて免許交付のその日に車を運転しましてね。で、皆さんにご迷惑をかけてしまったと……こう言うわけなんです」

  そう言ったかと思うと、男性はいきなり土下座をし始めた。

  「本っ当に申し訳ございません!本来は直接の加害者たる息子を連れてくるのが筋なことは重々承知しているのですが、現在無理に外に連れ出そうとすると暴れてしまう状況なんです。どうかご容赦下さい!」

  いきなり土下座を始められて、こんなことを言われて……陽子は一体どうしたら良いのか、すぐには思いつかなかった。

  「これ以上事が大きくなると、ただでさえ引きこもりの息子がいつ部屋から出てくるか分からなくなってしまいます。この件はこれ限りにして、どうか穏便にお願いいたします。」と、畳み掛けてきた。

  「やめてください!土下座なんて。」

  陽子は反射的に、相手にそう言って、相手の身体を起こそうとした。

  「いいえ!いいえ!!何とか息子の事故を穏便に済ませてもらえるまでは、ここで引き下がるわけには行きませんっ!」

  そう言いながら篠原は土下座のまま何度も床に頭を擦り付けんばかりだった。

  何て虫のいい話だろうと陽子は思った。

  自分の息子が、下手をしたら人を死なせたかもしれないのに、穏便に事を収めてくれと一方的に要求してくる。

  陽子たちに土下座をしていて、知らない人間が見たら、どっちが悪いのか、まるで分からない構図である。

  下手をしたら陽子たちが悪者にも見えかねない。

  陽子は何かを言おうと思ったが、怒りが先に立って、すぐに言葉が出て来ない。

  そこへコンコンというノックの音がして「もしもし、ちょっとよろしいですか?。」

  そう言って、病室に入ってきた人物があった。

  その人物は入院中らしく、病院着を着た白髪頭の70代くらいと思われる男性だった。

  「か……会長!」

  篠原と名乗る男は、腰を抜かさんばかりに驚いた。

  そこに現れたのは、篠原の勤めている会社の会長らしかった。

  「やはりお前か。病室の前を通りかかったら、聞き覚えのある声がしたので、様子を見にお邪魔させてもらったんだが。」

  そう言って、会長と呼ばれた老人は、篠原の方に顔を向けて「お前、この人達に一体何をしたんだ?」と聞いてきた。

  篠原は「な、な、何でもないですよ!ただのお見舞いです。」と言って、矛先をかわそうとした。

  「それより会長、会長こそ何でこの病院に?」

  「お前には関係ない話だ。それよりもドアの外から、土下座なんてやめてくださいという声が漏れていたぞ!ただの見舞いなら、何でお前が土下座なんてする必要がある?実際ワシが入ってきた時に、お前は土下座の真っ最中だったじゃないか。」

  老人はそう言って、篠原を厳しい目で見つめた。

  「あのう…お話中にすみませんが…貴方は一体……。」

  陽子は二人のやり取りに呆れながら、老人にそう尋ねた。

  「ああ…大変申し訳ありません。私はホームワークという小さなチェーン店を経営しております会社の会長をやっております。膳場紀世彦と言います。」

  そう聞かされて、陽子は大変驚いた。

  ホームワークと言えば、陽子たちが買い物へ行こうとしてたホームセンターの名前である。

  しかも小さなと言う老人の言葉には多分の謙遜が混じっている。

  ホームワークは陽子たちが住んでいる周辺だけでも5店舗は展開し、全国レベルでは、全部で50店舗以上は展開している一大チェーン店だからである。

  篠原はそれをずっと黙ったまま、陽子たちから穏便に事を収めようとしていた。

  「ホームワーク、美祢知ってるよ?今日そこへお母さんとお買い物に行こうとしてたんだもん!」

  でも、事故に遭っちゃったから、行けなくなっちゃったと、老人へ不満げに口を尖らせた。

  事故と聞いて、膳場会長の眉がピクッとなって「事故?」と、確認するように呟いた。

  「この男は私の部下です。その部下が一体何をやらかしたのか、よかったら事情をお聞かせ願ってもよろしいですかな?」

  京一へ事情を説明して良いかどうか確認を取った上で、陽子は詳しいあらましを膳場会長に説明した。そうして、名刺一枚貰ったわけでもないことも付け加えた。

  傍らでそれを聞いていた篠原の顔色は真っ青だ。

  「事情はよく分かりました。お前……自分の息子がそれだけの事をしでかしておいて……自分の身分もまだ明かしてなかったのか!」

  膳場会長はそう言いながら、篠原を目が充血しそうなほどに睨みつけた。

  「い、いえ…あの…その…交渉事は最初が肝心でして…足元見られちゃいけないと思いまして……。」

  篠原は保身の一心で、余計なことまで言ってしまった。

  そこには演技のために貼り付けていた表情は既に無かった。

  それを聞いた膳場会長は、烈火の如くといった感じで顔を紅潮させて、「この馬鹿者がーーっ!」と怒鳴りつけた。

  それを聞いた美祢が「シーーーッ!」と指を口に当てて「おじいちゃん、ここ病院だよ?静かにしようよ」と膳場会長を諭した。

  膳場会長は美祢の前でしゃがみこんで「お嬢ちゃん、大きい声で驚かせて済まなかったね。気を付けるね。ごめんよ。」と、申し訳無さげに話した。

  「そして岩倉さん、加賀美さん、この度はうちの社員が大変すまないことをした。結果的に大したことは無く済んだとはいえ、当たりどころが悪くて、下手したら誰かが亡くなっていたかもしれない。そうならなかったのは、単に運が良かったからだ。この償いに、うちの方で、できる限りの補償と償いをさせてもらいます。」

  そう言った後に「良かったら、連絡先の交換をさせてもらえませんかな?先々の償いや補償の話などもありますし。いや、ぜひお願いします。」

  篠原はとても驚いた。

  会長の直接の連絡先は、会長の側近…秘書や家族などの極一部の人間しか知らないからだ。

  「か、会長!何もこの人達にわざわざ連絡先を教えなくても!後の交渉は私がやりますので!!」

  篠原は慌てた様子でそれを止めようとした。

  社内の人間でもごく一部しか知らず、自分でさえ知らない。そんな自分さえも知らない会長の連絡先をこんな連中に……そう思うと篠原は堪らない気持ちになった。恥をかかされたのと似たような気分になったくらいだ。

  「いいか?篠原!」

  会長はそう言いながら、篠原の胸ぐらをグイッと自分の鼻先に引き寄せて「お前の不味い対応のせいで、うちの会社のイメージを下げかねない行為に対する処分は、追ってその沙汰が通達されるから覚悟しておけ。それと、この方達に対する補償は単にお前の肩代わりをするだけの事だ。かかった分は後で全額請求するから覚悟しておけ!」

  そう言って手を離された篠原は、ヘタヘタとその場にへたり込んだ。

  「そういう訳で、岩倉さん、ぜひ連絡先の交換をお願いします。」

  そう言われては陽子も断りようがない。

  互いに電話番号を交換した後、会長は「長々とお邪魔してしまいました。それではこれで一旦失礼します」と言って、篠原と共に病室から出ようとした。

  「そういえば…」と膳場会長は陽子の方へ向き直り「そちらの加賀美さんという青年は、今記憶を失ってるんでしたな?」と陽子に尋ねた。

  陽子が事故のあらましを説明する時に、京一の現状についても話したのだった。

  陽子がそれを肯定すると、膳場会長は「分かりました」と答え、また後ほどお会いしましょうと言って、頭を下げてからドアを閉めた。

  会長が去ったあと、部屋の中は毒気が抜けたように、しばらく静かな空気が流れた。

  そんな中、陽子が何かを言おうとした瞬間、スマートフォンの着信音が鳴り出した。

  病院により規定はまちまちだが、この病院に関しては、個室に限りスマートフォンの電源は入れていても大丈夫なことになっている。

  表示を見ると麗華からだった。

  電話に出ると、麗華の待ちくたびれたような声が聞こえてきた。

  「あ……お母さん?んもう、一体どこまで買い物に出てるのよ。帰ってきたら家の中は電気は点いてないし、誰もいないし。ご飯も出来てないし。私のお腹ペコペコになっちゃったんですけどぉ!」

  陽子はそう捲し立てられて、今日起こった出来事のあらましを説明した。

  「ええっ!?やばいじゃん。

  それで……美祢は無事なの?」と焦った様子で聞いてきた。

  「それは大丈夫だから。さっき説明したように、危ない所を助けてくれた人が居てね。その人のことは家に帰ったらゆっくり話すから。」

  そう言われては、麗華も流石にそれ以上は電話では聞きようが無い。

  「もう少ししたら帰るから。うん。うん。じゃあね。後は帰ってから詳しく話すから。じゃあね。」

  陽子はそう言って電話を切った。

  時計の針は午後8時近くになっていた。

  そろそろ帰らなければならない。

  「京一君。」

  陽子は京一に、真剣な顔で話しかけた。

  「今日は美祢を助けてくれてありがとう。何度でも言うわ。助けてくれて本当にありがとう。」

  「やめてくださいよ。そんなに恩義に感じることは無いです。ああいった状況なら、誰でもがそうしてたでしょう。それがたまたま僕だったというだけのことです」

  京一は事も無げにそう言った。

  「幸い身体も何も異常がないみたいですし、明日には退院出来るでしょう。でも、そちらに病院代の負担をかけさせてしまったみたいで、それを申し訳なく思ってます」と、京一はどこまでも控えめで遠慮深かった。

  「ううん、それはいいの。全然気にすることないの。あなたのお陰で美祢は無事だったんだから。それに…その事は何とかなるかもしれないわ」

  陽子はそう言いながら、膳場会長が残した連絡先のメモに目を落とした。

  「だから……だから急に姿を消すようなことはしないでね。決してしないでね。そんな事になったら、私も美祢も酷く落ち込んでしまうわ。

  時間になるから私達はもう帰るけど、どうかどうか明日迎えに来るまでここに居てね」

  それはまるで懇願に近いものであった。

  京一もその真剣さに打たれたのか「分かりました」と言って、陽子の目を見つめた。

  「お兄ちゃん。明日も会えるよね?どこにも行かないよね!」と、美祢も真剣な面持ちで聞いてきた。

  「行かないよ、美祢ちゃん。どこにも行かないよ。明日また君達が来るまではね。」

  そう言って京一はニコッと笑った。それは京一が見せた初めての笑顔だった。

  「良かったー!」

  そう言って、美祢は京一に抱きついた。

  京一はそんな美祢の頭を何度か優しく撫でた。

  それではそろそろ帰ろうかという段になって、「そういえば、京一君おなか空いてない?」と陽子は聞いた。

  「そう言われれば……少し空いてるような気がします。」と、可笑しいような、困ったような苦笑いを浮かべた。

  それは先程までの、絶望を含んだような、苦さを込めた笑いとは明らかに違っていた。丁度その話をし始めたときに、全員のお腹がグ~と鳴り出したからだ。

  思わず皆でクスクスと笑った。

  京一も、これ以上の迷惑をかけてはと思い、夜のうちに病院を抜け出そうかと内心思っていたが、まだこの人たちとお別れしたくないという気持ちが勝っていった。

  こんな物しかないけど、と言いながら京一の前に、エコバッグから取り出したパック牛乳とサンドイッチを置いた。

  「ありがとう。ありがたくいただきます。」

  京一はそう言って、ペコリと頭を下げた。

  「じゃあ私達はひとまず家に戻るわね。明日午前中には来るから、それまでしっかり休んで。それからこれからの事を考えましょう。出来るだけの協力はするから。」

  陽子がそう言うと、京一は「何だか本当にすみません」と、また頭を下げた。

  「いいの。いいのよ、もうそういうのは。今度は私達が返す番なんだから」

  陽子は笑顔でそう言いながらドアを開けた。

  「お兄ちゃん、バイバイ。また明日ね。」

  美祢も名残惜しそうな顔をしながら陽子に続いた。

  パタンとドアが閉まり、病室の中には静寂が訪れた。

  さっきまでの騒ぎが嘘のようだ。

  京一は一旦ベッドから降り、背もたれの角度を元に戻した。

  そうして、貰ったサンドイッチをデイルームで食べようと、病室の外へ出た。

  時計は8時半を過ぎていたろうか。

  ナース・ステーションは異変に備えてこうこうと灯りがついていたが、少し離れたデイルームは既にメインの明かりは消灯されて、小さな補助灯だけが点いていた。

  そこに何脚かあるテーブルに着いてサンドイッチを食べようとした時に、人影があることに気が付いた。

  それは先程病室にやってきた膳場会長だった。

  デイルームの窓際の隅にある席に座った膳場会長は、窓の外に展開する明かりを眺めながら、タバコを吸っていた。

  そういえば、この人も入院してたんだった。

  京一はそう思いながら、膳場会長に近づいて行った。

  「ここは禁煙ではないですか?」

  そう声をかけると、膳場会長は「あ…こりゃどうも」と言いながら、慌ててタバコを携帯灰皿に突っ込んだ。

  そして「おお!君は!」と言いながら、京一を見上げた。

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