18.なんで……?
「ただいまー!」
千穂が帰ってきたのは、時計の針が午後九時を指そうとしていた頃だった。
千穂の指名の客が二三人立て続けに来て、しかもいずれの客にも時間がかかったので、いつもより若干遅くなっての帰宅だった。
「ごめんね~、今日遅くなっちゃって。ちゃんとご飯食べた?」
玄関からそう言いながら、スリッパをパタパタさせてリビングに入った。
いつもなら「おかえりなさい!」と言いながら、腕を身体に絡ませて抱きついてくるのに、なんの反応もない。
ソファーを見たら、娘が横たわっていた。
待ちくたびれて寝てしまったのだろうか。
「菜子。起きなさい。お母さん帰ってきたわよ。」
そう言って、菜子の身体を揺らせて起こそうとしたが、なんの反応もない。
起きなさいと、何度声かけしても駄目だった。
そうしてるうちに、千穂は娘がただ寝てるのではなく、何かただならぬ気配を感じて、顔をよく見てみた。
顔を見ると、何か薄目を開けてる様な感じだ。
こころなしか呼吸も浅い。
「菜子。起きて!お願い。起きて!」
いくら声をかけても、いくら体を揺すっても、菜子は起きなかった。
千穂は慌てて救急車を呼んだ。
KK新日病院にて処置を受けたが、特に目立った外傷は無かった。
脈拍も正常。脳波も正常。救急外来で出来る検査は他にもやったが、異常は見受けられなかった。
当直医は千穂に告げた。
「こちらで出来る検査は限りがあるので、入院して色々と検査してみましょう。入院手続きをお願いします。」
そうして翌日様々な検査を受けたが、検査で異常は見当たらなかった。
ただ、意識がなく食事が取れないので、点滴で栄養を送るしか方法は無かった。
職場の方には、子供が病気でしばらく休むと連絡を入れた後、病院に頼み込んで、娘の側にずっと付いていた。しかし、依然として菜子の意識が戻る様子はなかった。
その日。
結局千穂は娘に付いて病院に泊まり込むことにした。
いつ意識が戻ったときでも、自分が側にいることによって安心させてやりたいと思う一心からだった。
学校にどういう風に連絡するかは少し悩んだ。
どういう原因で意識が無くなったかも、まだ分からないのだ。
病院に入院してるなんて伝えたら、大事になってしまうかもしれない。案外すぐ退院する可能性も捨てきれないのだ。
結局学校には、体調が悪いのでしばらく休ませますとだけ連絡を入れた。
担任からは、どれくらい休むことになりそうですかと尋ねてきた。当然のことである。
担任には、しばらくの間休むことになるかもしれませんとだけしか言えなった。
本当にそれしか分からないのだ。
静かな病室に、フッフッフッという菜子の浅い呼吸の音だけが聞こえる。
窓の様子と娘の様子を交互に見ているうちに、千穂はウトウトしてきて、菜子の布団の上に頭を預ける感じでうたた寝をしてしまった。
そして、意識もなく寝てたかと思うと「お母さん…」と、自分を呼ぶ声がしたような気がして目を覚ました。
「な……菜子?」
目を覚まして思わず視線を左右に向ける。
ハッと気付いて菜子の方に視線を向けると、菜子は目を開けて千穂をじっと見ていた。
「菜子!あなた意識が戻ったのね。ああ、良かった。」
千穂はそう言って、菜子を抱きしめようとしたが、菜子は拒否するように、千穂の胸元に手を加え押し付けた。
「菜子…あなた一体どうしたの?」
菜子は物言わずじっと千穂を見ている。
「お母さん……分からない?僕だよ。亮太だよ。」
一瞬なんの事か千穂には分からなかった。
戸惑ったような表情で「菜子、何言ってるの?悪い冗談は止めなさい!」と言うと、菜子は抗議するような目をしてこう云った。
「お母さん、忘れちゃったの?僕を殺しておいて覚えてないの?」
その一言で、千穂の脳裏に、フラッシュバックのように一気に過去の記憶が甦ってきた。
それは昔の忌わしい記憶。
それは一刻も早く忘れたい記憶。
それは思い出したくない記憶として、奥底に仕舞い込んだ記憶だった。
思い出した記憶の奔流で、千穂は頭がクラクラとして倒れ込んでしまいそうだった。
「あなたは一体……」
千穂は怯えたようにそう言うと、急いで病室から出ようとした。
ガチャガチャとドアノブが空転する音だけが虚しく響く。
「無駄だよ。ドアは開かない。」
そう言って、千穂を見つめる菜子(の身体を乗っ取ったであろうと思われる亮太)の目は、赤味がかったとび色に怪しく光った。
思わず後ろを振り返ると、菜子は半身を起こして千穂をジッと見つめていた。
いくらドアノブを回しても、ドアは開かない。
そして、常に微かに聞こえてくるはずの、ナース達が働く喧騒も、今は全く聞こえない。
静かな空間に、見つめ合う二人が対峙しているだけだ。
千穂を見つめるその顔は、何処か悲しげだ。
「僕のこと……覚えてないの?」
そう聞かれても、千穂には全く身に覚えは無かった。あるたった一つのことを除いては。
「思い当たることなんて…何もないわ。昔に子供を下ろした事位しか。」
菜子の身体の中に居るであろうと思われる亮太は(いちいちこう書くのも煩わしいので、以降 この状態の菜子を亮太と呼ぶことにする)何処と無く縋るような目をして千穂に言った。
「それが僕だよ。お母さん。」
千穂は、そんなバカなという目で亮太を見つめた。
そう思うのも無理はない。
当時まだ若かった頃、望まぬ妊娠によって堕胎した男の子が、何故に自分と喋ることができるのか。
菜子の身体に、二重写しの様に、菜子が家で会った亮太の姿が浮かび上がって見える。
目を逸らそうとしても、逸らすことが出来ない。
菜子の身体から、まるで脱皮するが如くに、両手を伸ばして自分に迫ってくる。お母さんと呼びかけながら。
「イヤーッ!」
そう言いながら、千穂は頭を抱え込むようにして、しゃがみ込んでしまった。
「なんで……?なんで……?」
亮太の唇から声は聞こえなかったが、まるでそう言ってるように見えた。
しかし千穂はその事には気付かなかった。
しゃがみ込んですぐに気絶してしまったからである。
それから間もなく、千穂は菜子の様子を見に病室にやってきた看護師によって、倒れているのが発見された。