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17.異変

  「お恥ずかしい話なんですけれども」

  千穂はそう前置きをして、事情を話し始めた。

  ここではそれを、菜子側からの情景も交えて描いていこう。

  千穂の夫はもう長いこと自宅に帰ってこないで、千穂と菜子との二人暮らしを強いられていた。

  原因は夫の浮気である。

  同じ会社の後輩である女性と不倫関係に陥るようになり、千穂が何度頼んでも、一向に戻ってこようとはしなかった。

  生活費を入れてくれれば、まだ幾分マシではあったが、それさえも入れてくれなくなった。

  給与振込先の口座を新しく作り、給与はそこに振り込まれるようにしてしまったのだ。

  どうやら夫は後輩の女性に対して完全にのめり込んでいるらしかった。

  この期に及んでは、千穂がフルタイムで働くしかなく、結婚前に勤めていた美容室に頼み込んで復帰させてもらうことになった。

  出勤前に、朝食と一緒に夕食の分も作ってはおくが、千穂と菜子とが一緒に夕食を取ることは、千穂の仕事の休みくらいしか無くなり、必然的に菜子は一人で夕食を取ることが多くなった。

  当然菜子の孤独は募っていったが、母親思いの彼女は、千穂に心配をかけまいと、気丈に振る舞っていた。

  千穂は菜子に対して、寂しい思いをさせて申し訳ないと言う気持ちもありつつも、仕事をしなければ食べていけないというジレンマも抱えていた。

  元々は腕の良い美容師であった彼女は、徐々に仕事の勘を取り戻すにつれ、指名も増えていった。

  千穂の勤める店では、指名を受けたらいくらかのインセンティブが付く仕組みになっていた。

  大した額ではないが、指名を受けたらやり甲斐も出てくる。

  そうしたら、終わる時間も必然的に、いくらか遅くなってしまう。

  千穂は心のなかでは菜子に詫びながらも、食べていく為、生活の為に、ある程度遅い時間まで働かざるを得なくなった。

  そういう生活が続くうちに、春が過ぎ夏が過ぎて行った。

  一方菜子の方はというと、孤独な留守番生活を強いられたツケが、段々と精神面に現れるようになっていった。

  美祢と一緒に遊んでいるときは、そんな事はおくびにも出さないが、家の鍵を自分で開けて、薄暗くなった部屋に入ると、途端に寂寥感に囚われてしまう。

  お母さんだって頑張っているんだからと自分に言い聞かせても、寂しいものは寂しいのだ。

  そんな日々を続けているうちに、菜子は部屋の中で、自分だけの友達を作るようになった。

  いわゆるイマジナリーフレンドというやつだ。

  その友達は、菜子がテレビを見ているときに現れた。

  その日もいつものように、菜子は千穂が作っておいてくれた夕食をレンジで温めて一人で食べた後に、テレビでバラエティ番組を見ていた。

  しかしそんな番組は、一人で見ていても、ちっとも面白くは無かった。

  一緒に見ながら好き勝手な意見を言い合う、そんな相手が居ないと面白さも半減だ。

  他にチャンネルを回すも、どれも似たような番組ばかり。

  あれこれチャンネルのボタンを押している菜子に話しかける声がした。

  「そんなに色々替えたって、面白い番組なんてやっていやしないよ!」

  その声に驚いて、菜子が横を向くと、菜子と同じように、ソファの上で体育座りをしている男の子が居た。

  歳は菜子と同じくらいに見える。

  格好は、体育帽に体操服だ。

  顔立ちは、何となく菜子に似ているような気がしないでもない。

  菜子はとても驚いたが、不思議と恐怖心は無かった。

  何だかずっと以前から見知っているような感覚を覚えたからだ。

  「君だあれ?どっから入ってきたの?」

  菜子は不思議そうに少年に訊ねた。

  「僕は亮太。どっから入ってきた訳でも無いよ。」

  亮太と名乗る少年は、はにかむようにそう言った。

  「君がいつも寂しそうにしていたから君の前に現れたんだ。」

  そう言って亮太と名乗る少年は、菜子に微笑んだ。

  二人は色々と話した。

  と言っても、主に話していたのは菜子の方で、少年はうんうんと話を聞いている方だったが。

  学校のこと。美祢のこと。家族で行って楽しく過ごした遊園地のこと。

  そこまで話した時に、菜子の目から大粒の涙がポロポロと流れ出た。

  「どうしたの?」と、亮太は聞いてきた。

  「ううん、何でもないよ。」

  菜子は(かぶり)を振って話を打ち消した。

  「そう?それならいいけど。大丈夫?君が泣いてると、とても心配だよ。元気出してね。」

  亮太は心配そうな顔で菜子にそう言った。

  そこへ、ただいまという千穂の声がした。

  「あ!お母さんが帰ってきた。亮太君、ちょっと待っててね。お母さんに紹介するから。」

  菜子はそう言って、亮太を置いて、玄関先まで千穂を出迎えに行った。

  「お母さん、お帰りなさい!」

  菜子は千穂にそう声をかけた。

  「ただいま。ご飯はもう食べた?」

  千穂は心配げにそう訊ねた。

  いつも一人で留守番させて、心配な気持ちと申し訳ない気持ちがない混ぜになったような気持ちで毎晩帰宅するのだが、菜子はいつも明るく出迎えた。

  しかし、いつも心の底では寂しさが(おり)のように溜まってるだろうことを感じていた。

  菜子がどんなにそれを隠そうとしても、親子だけにそれが判ってしまう。

  しかしその日は違った。

  何だか心の底から明るい様子だ。

  「あのねえお母さん。今友達が来てるんだよ。お母さんにも紹介してあげるね。亮太君ていうの。」

  あらあら、こんな遅い時間まで、その子の親御さんはどうしているのかしら。もしかしたら帰宅があまりに遅くて心配しているかもしれない。連絡先を聞いて電話して、お詫びしてから迎えに来てもらうようにしなければ。

  「菜子、こんな遅い時間までお友達を引き止めちゃ駄目じゃない!その子に挨拶したら、亮太君の親御さんに電話するようにしないと。」

  リビングに入るまでの時間に、二人はこんな会話をしていた。

  「亮太君!うちのお母さんだよ。」

  菜子はそう言いながらリビングの扉を開けたが、そこには誰も居なかった。

  「あれ?おかしいなあ。ついさっきまで一緒にお話ししてたのに。」

  菜子は困惑したようにそう言ったが、千穂は幼少期によくある一人遊びの延長だろうと考えていた。

  だが、頭から否定するようなこともせず「きっともう遅いから帰ったのよ。また遊びに来るわ。その時に紹介してちょうだい。」と調子を合わせた。

  その夜は、千穂の買ってきたスナック菓子などを二人で食べながら、寝るまでテレビを見て過ごした。

  その日の夜。

「菜子。お母さんいつも帰るの遅くなってごめんね。」

  寝室で二人で枕を並べて寝てる時に千穂は言った。

  「大丈夫だよ。お母さん仕事頑張ってるのは分かってるから。いつもありがとう。」

  娘にそう言われると、なんとも言えない気持ちになってしまう。

  「ねえ、お母さん。今日一緒のお布団で寝てもいい?」

  「いいわよ。いらっしゃい。」

  千穂はそう言うと、掛け布団を捲って促した。

  布団に入ると、菜子は千穂に体を向けて、腕を身体に回してきた。

  千穂はそれに応えて抱きしめてやる。

  千穂はその小さくて華奢な身体を抱きしめてるうちに、何としてもこの子は守っていかなければという決意を思ってるうちに、眠りの世界に入っていった。

  菜子も母親の体温の温もりを感じてるうちに安心したのか、すぐに寝入ってしまった。


  翌日の放課後。


  公園には美祢と菜子が遊ぶ姿があった。

  ブランコに乗りながら美祢は言った。

  「ねえ、菜子ちゃん。今日この後うちに来て遊ばない?」

  「うん、いいよ。」

  そうして二人は美祢の家で、トランプやらテレビゲームやらをして過ごした。


  やがて外に夕闇が迫る頃。


  「ねえ、菜子ちゃん。今日はお母さんに連絡しておいてあげるから、お迎え来るまでうちで過ごさない?」

  陽子がそういう提案をしても、菜子は「ううん。大丈夫だよ。」と言って(かぶり)を振った。

  「お母さんが作っておいてくれたご飯があるし、家で帰るのを待っててあげたいから。」

  そう言って玄関で靴を履き始めた。

  陽子が車で送ろうかと申し出てみても、歩いて帰れるからと言って外に出た。

  菜子を見送る為に、美祢と陽子も外へ出た。

  「帰り気をつけてね。」と二人が言うと「うん、ありがとう。」菜子はそう言って、家へ向かってかけ出した。

  明かりの点いてない家に帰ってきて、鍵を開けて家に入り、明かりをつけて手を洗う。そうして冷蔵庫から料理を取り出し、電子レンジに入れて温めて、その間にテレビをつけて、時間が来たのでレンジから取り出して食べ始める。

  千穂が仕事に通うようになってから始まった、菜子のいつものルーティンだ。

  テレビを見ながら食べていると「ご飯美味しい?」という声が背後から聞こえた。

  「亮太くん!」

  菜子は驚いて、思わず大声で叫んでしまった。

  菜子が振り返ったその先には、亮太が穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。

  「いつ来たの?」

  菜子は思わず亮太にそう聞いた。

  「たった今だよ。電気点いてるの見かけたんで、驚かそうと思って黙って入ってきちゃった。ごめんね。」

  亮太はそう言って、ペコリと頭を下げた。

  「ううん、別にいいよぉ。ところで、何で昨日居なくなっちゃったの?」

  「ああ…昨日のことはごめん。

  怒られると嫌だなと思って、黙って帰っちゃったんだ。ホントにごめんよ。」

  亮太はそう言って、ペコリと頭を下げた。

  菜子は苦笑いしながら「それも別にいいよぉ。でも、お母さん帰ってきたら、私の友達だよって紹介したいんだけどな。」と言うと、亮太は「嫌だ!」と叫ぶように言った。

  菜子が、どうして?と聞くと、僕は大人が苦手だという。

  「僕は菜子ちゃんとだけ友達になりたいんだ。他の誰とも会いたくないんだ。だめ?」

  聞いてると変な話だが、菜子にとっては孤独を癒やしてくれる良い相手だとしか思えなかったから、「嫌ならいいよ」と言ってしまった。

  亮太はホッとした顔で「ありがとう。」と言った。

  菜子は「亮太くんはお腹空いてる?少し分けてあげようか?」と聞いたが、亮太は食べてきたと言って食べようとはしなかった。飲み物を聞いても同様の返事だった。

  「気にしないで食べちゃってよ。それまで待ってるからさ。」

  亮太はそう言ったが、見られながらだと食べづらいったらない。結局半分も食べないで残してしまった。

  「もう食べないの?」

  亮太はそう聞いてきたが、菜子は「うん、今日はもうお腹いっぱい。後でお腹減ったらまた食べるよ。」と言うのが精一杯だった。

  残った夕飯にラップをかけて冷蔵庫に入れると、何をして遊ぶ?と亮太に聞いた。

  「僕はまた菜子ちゃんとお話したいな。僕が来るまでにあったこと、教えてよ。」

  そうして菜子はまた亮太に、昨日同様色々な話をした。

  学校での勉強のこと、苦手な教科のこと。一番の友達である美祢の事、母親の千穂の事、帰ってこない父親のことなど。

  「お父さんが帰ってきてくれれば、こんな寂しい思いはしなくて済むんだけどな。」

  色々と話した最後に、菜子はポツリとそう言った。

  話しながら菜子は思った。

  まだ知り合って二回目の男の子に、私は何でこんなに自分の事を色々と喋っているのだろう。あんまり余計な事を言い過ぎると、お母さんに怒られちゃうかもしれないな。これ以上あんまり余計な事を喋るのはやめるようにしなきゃ。

  「ねえ、菜子ちゃん。」

  亮太は菜子の顔の正面に回って、菜子の目を見つめるようにして話しかけてきた。

  「僕がいつも一緒にいてあげるよ。そうしたら寂しくないよ。君さえウンと言ってくれれば、僕は君の中でいつも一緒にいてあげる。」

  亮太は菜子の目を凝視しながら、そんなことを言ってきた。菜子は何だか少し怖いような気がしてきた。

  「大丈夫だよ。もうこんな生活慣れてきてるし。心配してくれてありがとう。」

  亮太の期限を損ねず、場の空気を読んだ菜子にとっては、それが精一杯の言葉だった。

  「大丈夫じゃないよ!」

  亮太が強い声音で言ったその言葉は、菜子をびくっとさせるのに十分なものだった。

  「あ、ごめん。急に大きな声出してびっくりさせちゃったね。そんなつもりじゃ無かったんだ。でも、さっき菜子ちゃんは寂しいって言ってたじゃないか。菜子ちゃんがうんと言ってくれれば、僕はずっと側に居てあげるよ。」

  菜子はチラッと壁の掛け時計を見た。

  もう少ししたら千穂の帰ってくる時間になる。

  また紹介しようとして、急に居なくなられて、千穂を心配させるのも気が引ける。

  今日は相手の機嫌を損ねないように、適当に返事して、早目に帰ってもらおう。

  「わかった?菜子ちゃん。」

  菜子は自分の考えに囚われて、亮太の話を上の空で聞いていたので、いきなり問われても何の事やら戸惑ってしまった。

  「え?何だっけ。」

  思わず反射的にそう答えた菜子に、亮太は少しイライラした様子で「だからあ。いつも一緒に居てあげるよ。そうしたら菜子ちゃんも寂しくないじゃん。」

  とりあえず今日はもう早く帰って欲しい。そんな思いの一心で、菜子は答えてしまった。


  菜子は答えてしまった。

  答えてしまった……………。


  「うん。良いよ。今日お母さん帰ったら聞いてみるよ。」


  そう菜子が答えた時。

  亮太はニタッと笑った。

  笑って言った。

  「菜子ちゃん。

  良いって言ったね?言ったね?

  じゃあこれからはずっと一緒だよ。」

  そう言って、亮太の身体は徐々にボヤケたようになっていった。

  さっきまで実体を伴ってそこに存在していたと思われたものは、段々とその実態が薄まっていって、終いには身体を通して向こう側が見えるくらいになってきた。

  そうして最後には空中にかき消えるようにして、そこには菜子一人だけの姿があった。

  時間にしてホンの数秒。

  菜子には何が起こったか認識する間もなく、その感覚はやってきた。

  自分の全細胞を侵食されるかのような異物感。

  何とも言えないような、脳をかき回されるかの様な感覚。

  まるで自分の身体であって自分の身体じゃないような。

  菜子は自分の身体に何が起こったのか訳が分からなかった。ただ、誰かに助けてほしかった。


  「菜子ちゃん。これからは僕たちはずっとずーっと一緒だよ。」


  頭の中で、亮太の、まるでエコーをかけたような、ウキウキしたような声が響く。


  「これからは何も考えなくていいんだ。

  僕と二人だけの世界の中で過ごしていけば、寂しい事なんて何も無いのさ。」



  やがて強烈な異物感の感覚は薄まっていった。

  その感覚の衝撃に、床に倒れ込んでしまったけれど、倒れた衝撃は感じることは出来た。

  床のヒンヤリした感覚も感じる事が出来る。

  しかし、自分の身体が自分の身体じゃないような感覚を拭うことは出来なかった。

  こんな所に倒れてたら、お母さんが心配しちゃう。

  菜子は必死にソファーにずり上がり、そこで意識を失ってしまった。

 

 

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