14.彷徨
その男は、どことなく疲れた足取りで歩を進めていた。
バスを降りて歩き続けること15分。
三十五年ローンで買ったマイホームに、もう少しで到着するところだ。
帰りたくない。
帰りたくない。
呪文のように何度もその言葉だけがリフレインする。
会社だって行きたくなかった。
息子が起こしたあの事故以来、閑職に配置転換になって、毎日が針のむしろだ。みんな腫れ物に触るような扱いで、必要最低限以外、誰も何も話しかけて来やしない。
社内では会長の逆鱗に触れた男としてすっかり有名になってしまった。
息子が事故を起こしたばっかりに、自分にまで余計なトバッチリが来てしまった。
まだ保険をかけてないから、運転するのは保険をかけてからだぞと、何度も口を酸っぱくして言ったのに。それなのに黙って勝手に車を乗り回して、挙句の果てに事故だ。
少しでも賠償金を安く上げる為に交渉しようと、余計な事をしてしまった。
海外で買い付けをするときと同じ要領で、ついつい強気に出てしまった。弱みを見せたら後々祟ると思って、少しでもこちらに有利に運ぼうとしたのが裏目に出てしまってこのザマだ。日本ではこういう場合、低姿勢で行かなければならないのをすっかり忘れていた。
まさか会長があの病院に検査入院してるなんて思わなかった。なんて間の悪い……。
そんな事を色々と考えてるうちに、家に着いた。
入りたくないなあ。入ればまた辛気臭い妻の顔と向かい合い、いつ戻って来るかも判らない息子の帰宅を待たなければならない。いっその事蒸発でもしたい気分だった。
意を決して玄関のドアを開ける。
誰も出迎えには来ない。
靴を脱いで居間まで進むと、妻がボーッとした顔でソファーに座っていた。
「ただいま。孝は?」
「まだ帰ってきてないわ。数日前からずっと。」
妻は無気力な声でそう答えた。
「飯は?」
「作るの忘れてたわ。冷蔵庫に何か入ってるから、適当に何か食べてくれない?」
妻が相変わらず無気力な声でそう言うと、夫である篠原守の中で、何かがブチンと切れた。
「お前なあ!毎日毎日そんな様子でどうするんだよ!あれから何日経つと思ってるんだよ!専業主婦なんだから!主婦としての仕事をキチンとやってくれよ!針のむしろで疲れて腹減らして帰ってきた旦那の腹を満たしてやろうって気持ちはお前には無いのかよ!!」
守は一気に捲し立てた。
事故を起こしたその日に、孝は家を出ていった。
事故に関しての、守と孝との諍いが原因だった。
業を煮やして孝のスマホに電話をかけてみたが、何度鳴らしても出る様子もない。終いには着信拒否になってしまった。
仕事では針のむしろ。そして息子は何日も帰って来ない。腹を空かせて帰ってみると、妻は食事の用意を何一つしていない。何日もそういう状態が続き、この日守の堪忍袋の緒がとうとう切れてしまったと、そういう状態だった。
「そんなに私ばっかり責めないでよ!一番側に居て欲しい時には何時も居なかったくせに!あの子が引き籠り始めた時だって、仕事仕事ってロクに向き合おうともしなかったくせに!」
確かにそれは妻の美佐子の言う通りだった。
海外資材買い付けのセクションに回されたのをこれ幸いと、面倒臭いことを妻に押し付けて、仕事に逃げた事は否定できたものでは無い。
正直、美佐子から妊娠したと告げられた時にも、喜びよりは面倒臭さの気分のほうが先に立った。
仕事の忙しさを言い訳に、出産にも立ち合ってなかったし、育児も手伝おうとしなかった。
たまの休みに気紛れで孝と遊んでやったりすることもあったが、疲れたと言ってすぐ美佐子に押っつけて、風呂に入って夕飯も早々に寝室に入る事が多かった。
総じて良い夫とも父親とも言えなかったが、自分の中では、昔は家庭のことは全部妻に任せて男は仕事に専念してただろうと言い訳をしていた。
たまに美佐子の両親がやって来ては、コンコンと自分に説教していくのが、本当に本当に鬱陶しくて堪らなかった。
なので、本来は独身者を対象に募っていた海外への資材買い付けの仕事も、積極的に名乗りを上げた。
口煩い美佐子とも、美佐子の両親とも、当分の間距離を取りたかったのだ。
幸い仕事は順調に進んだ。
高く買うと口約束してライバル企業のバイヤーを押しのけては、いざ契約の段になると、強気の姿勢で安く買い叩く。そんな事を繰り返してるうちに、あっという間に数年が過ぎた。
現地企業から取引を拒否されたら、また似たような資材を扱ってる別の企業へ寝返れば良い。
まだインターネットも発達してないこの時代、情報拡散の心配なんて何一つする必要は無いと高を括っていた。
それが何を血迷ったのか、現地企業の人間が、あろう事か日本の本部へ国際電話でクレームを入れてきたのだ。
日本から、大切な話があるから急いで帰国して欲しいと連絡が入り、出世の辞令かなとウキウキ気分で帰ってきた守を待っていたのは、当時の社長、現在の会長からの強烈な叱責であった。
「お前は一体何をやっておるんだーっ!」という社長の怒声に守は震え上がった。
温厚で知られる人が本気で怒ると本当に怖いことを、守はこの時初めて知った。
そして保身の為に色々と言い訳をしようとしたが、その都度証拠を出され、論破され、ぐうの音も出ない程に徹底的に締め上げられた。
本来なら危うく解雇になりそうな所であったが、引き継ぎの人間と共にの海外企業へのお詫び行脚を受け入れるようならばとの条件付きで、一号店の店長補佐への配置転換を命じられた。これは膳場社長(現会長)の最大限の温情であったのだが、それが篠原守に伝わっていたかどうかは定かではない。
何故ならば、そのお詫び行脚は、守にとっては屈辱の日々であったろう事は確かだったからだ。
行く先々で頭を下げ、徹底的に罵倒され、同行した引き継ぎの社員からは嫌味を言われ、そんな日々が繰り返された。
二度と顔を出さないでくれ。現地の人間に決まってそう言われ、こちらこそ願い下げだと心の中で毒づいた。
日本へ戻ってからも、また大変だった。
店長補佐とはいえ、他の店員と仕事はさほど変わらなかった。給料も海外手当が無くなった分減って、以前のような多少の贅沢は出来なくなった。
そんな中、息子は引き籠りで妻は苦労していたみたいだが、仕事の残業を言い訳に、まともに対峙しようとはしなかった。
「あなた。たまにはあの子にキチンと向き合ってやってくれませんか?父親なんですから。」
美佐子がそう懇願するも、守にとっては面倒臭さしか無かった。
「何度も言ってるだろ?こっちは仕事で忙しいんだ。家庭はお前に任せてるじゃないか。一日中家に居るんだから、お前の方で何とかしてくれよ。」
妻に泣きつかれても、出てくる台詞は毎度毎度同じような内容だった。
『こっちはそれどころじゃないんだよ!』
守は社内で失われた信用を取り戻し、何とか再浮上しようと躍起だった。
何とか店長まで登って、その暁にはこいつらをアゴでこき使ってやる。その思いだけで何とか耐えてきた。
数年が経過した。
その間に社長は退任し会長に下がり、次代の経営を息子に任せることになり、守は泥水をすするような社内の立場から、少しずつ立場が好転していってるように感じてきた。
そうこうしているうちに、孝はよく電話をかけてくる友人のお陰なのか、少しずつ外に出るようになってきた。
ある日、珍しく夫婦二人で食事を取っていると、孝が部屋から出てきて、運転免許を取りたいという。
「お前……ちゃんと自動車学校に通えるのか?」
守は懐疑的だったが、妻の後押しにより通わせることにした。
就職に有利になるからと言われたのでは、反対しようもない。
守も一応人の親の端くれだ。
早く人並みに仕事に就いて一人前になって欲しいという思いは当然のようにある。
数週間後、見事免許取得が叶ったときには親子揃って大喜びだった。
免許が取れた以上、車も欲しいと言ってきた。
守はかなり難色を示した。
もし事故でも起こされたら責任など取り切れない。
それに現会長は、モラルを何よりも大事にする男だ。
今度何かやらかしてしまった場合、二度と浮上は叶わないだろう。
しかし、ペーパードライバーのまままでは、いざという時になんの役にも立たないと言われては、抗し切れるものでもなかった。
車が欲しいなら 働いて自分で買えと言うと、運転に関する仕事に就きたいが、その為には運転キャリアを積むことが必要だという。
ヘソを曲げて、また引きこもられても敵わない。
安物の中古車をあてがってやる事にした。
家に車が到着した日に、守は孝に言った。
「いいか。事故を起こしたら大変だから、保険に入るまではハンドルは握るなよ。」
口を酸っぱくしてそう言ったにも関わらず、孝は翌日守が仕事で留守の間に車に乗っていってしまった。
挙句の果てには、スマホに気を取られて人身事故だ。
事故の一報は自宅に入ったので、妻が大慌てで警察署に駆けつけた。
大した事故では無かったので、書類送検だけで済んで、聴取の上で自宅には返してもらうことが出来た。
守がこの事を知ったのは帰宅後の事だった。
事情を聞いて真っ青になった。
「バカ野郎!何でもっと早く知らせなかった!」
守はその時、初めて美佐子に手を上げた。
こんな事を会社に、ましてや会長なんかに知られた日には、二度と社内で浮上等は出来ない。
守は妻や息子の心情より、社内での自分のこれからの立場で頭が一杯になってしまった。
守は怒りに任せて息子の部屋のドアをドンドンと叩いて怒鳴りつけた。
「何ていうことをしてくれたんだ!親の顔に泥を塗りやがって!車なんて買ってやるんじゃなかった。車はもう処分するからな。いつまでもそうやって閉じこもっていいるといい!」
そう言うと、何だって!という声がしたかと思うと、ドアが勢いよく開いて孝が憤怒の形相で睨みつけてきた。
「都合の良いときだけ親みたいなこと言ってんじゃねえよ!居て欲しい時には何時も居なかったくせに!」
そう言って、守の胸を強く突き飛ばした。
「お前!親に向かって何てことするんだ!!」
守がヒステリックにそう怒鳴ると、孝は「うるせえ!」と言いながら、家の中で暴れまわった。
食器類や花瓶など陶器類は粉々に破壊され、ダイニングテーブルも蹴飛ばされて横倒しになった。その勢いで、テーブルにあったものも床に散乱した。
守は「やめろーっ!」と言って息子を押さえつけようとしたが、年齢と体力的な差で、止めるのは叶わなかった。
妻は隅でブルブルと震え、顔を手で覆いながら泣いていた。
「もう嫌よ、こんな生活!」
そんな言葉を何度も繰り返しながら。
一通り暴れたあと、孝は「もうこんな生活やってられっかよ!」、そう言って玄関前に止めてある車に乗って、どこかへ行ってしまった。
止めようとしたけど無駄だった。
追いかけようにも、車と人では勝負にならない。
守が家に戻ると、家の中は滅茶苦茶だった。
美佐子は呆然とした表情でへたり込んでいた。
あの様子では、声をかけるだけ無駄だろう。
とにかく家の中を片付けなければ。
割れた食器などを片付けながら、一体どうしてこんな事にとの思いが、頭の中でグルグルと回る。
「おい、お前も少しは手伝えよ。」
イライラした様子で、厭味ったらしい口調で妻にそう声をかける。
妻にはなんの反応もない。
駄目だコイツは。
そう思いながら、三時間ほどかけて、やっと大まかに片付けた。
とにかく会社に発覚する前に、穏便に話を片付けなければ。
そう思った守は、呆然としてる妻を放ったらかして、家を出て菓子折りを買い、タクシーを拾い病院へ駆けつけた。
まさかその病室に会長がやって来ようとは。
穏便に済ますつもりが、逆に被害者の感情を逆撫でし、あまつさえそれが会長の知るところとなり、会長の怒りまで買ってしまった。
その結果、やっと浮上しかけていた店頭での仕事を外され、社史編纂室という閑職に追いやられてしまった。
こうなってはもう、浮上の目は無い。
会社にも行きたくない。
家にも帰りたくない。
地獄にいるような気持ちを抱きながら、それでも収入の途だけは絶やす訳には行かないとの思いで、必死に日々を送っていた。
そんなある日、帰宅するとテーブルの上に書き置きと、記入済みの離婚届を置いてあるのを発見した。
書き置きには、こう書いてあった。
もう貴方には付いていけません。家を出ます。探さないでください。離婚届はあなたの方で役所に出しておいて下さい。
守はワナワナとした表情で「ふざけるなーーっ!!」と叫んで、離婚届と書き置きをビリビリに破いて、ダイニングテーブルをひっくり返した。
そんな事態が起きても、守は相変わらず妻の気持ちに迄は思い至らなかった。
穏便に済ませてくれなかった岩倉家への逆恨み、閑職へと追いやった膳場会長への恨みの念が、いや増すばかりであった。