11.私立探偵膳場慎一
ドンドン!
ドンドン!
事務所に大きなノックの音が響き渡る。
中からの反応はない。
テナントビルの持ち主である大家のお婆さんはもう2分くらいドアを叩き続けている。
お婆さんは「ああもう!」と、癇癪を爆発させたように叫んだ。
「あの~」と、陽子は恐縮そうにお婆さんに声をかけた。
「お留守みたいなんで、また出直しますので。」
陽子と京一はそう言って、階段を降りて帰ろうとした。
「ちょっと待ちな!」
そう言って、お婆さんはポケットからマスター・キーを取り出し、鍵穴に突っ込んでガチャガチャと回し始めた。
「い、良いんですか?勝手に開けちゃって」
陽子は驚いたようにお婆さんに問いかけた。
「なあに、構いやしないさ。どうせ飲んだくれて奥のベッドで潰れてるに違いないんだ。」
そう言いながら、お婆さんはズンズンと奥へ進んでいく。
「慎一ぃ!仕事だよ!さっさと起きな!」
そう言って奥に引いてあるカーテンをシャッという音をさせながら開ける。
このカーテンは、事務所とベッドを簡易的に仕切ってるもので、本来仮眠用のベッドだ。
単に事務所の奥に置いてあり仕切ってあるだけで、寝室でも何でもないのでドアも何もない。
そのカーテンを開けて、お婆さんはギョッとなった。
慎一が寝ている事は予想が付いていたが、隣に若い女の子も一緒に寝ていたのだ。
しかも二人とも素っ裸と来ている。
前の晩、二人がこのベッドで一戦交えたことは間違いない。
お婆さんは何だか分からないが、グウグウとイビキをかいている慎一を見ているうちに段々腹が立ってきて、彼の頬に強烈にビンタを張り倒した。
「いってーっ!」と慎一は叫んで飛び起き、「な、なんだあ?」と言いながら周囲を見回した。
その声で女の子の方も目が覚め、お婆さんの存在に気付くと、キャッと声を上げて慌てて胸元を隠した。
慎一はお婆さんの存在に気が付くと、頬をさすりながら「何だ、ばあちゃんか。勝手に入ってきてんじゃねえよ。いきなり引っ叩くなんて酷えじゃないか。」と言った。
「ろくろく仕事もしないで女連れ込んで、いいご身分だね!」とお婆さんは慎一に毒づいた。
「いや、これには訳があってさ」と、慎一は言い訳をしようとしたが、お婆さんは「余計な御託は良いから、とっとと仕事しな。客だよ。」と言った。
「服を着るまで待っててやるから早くしな。」と言ってカーテンを閉めた。
お婆さんはドアの外で待っている陽子と京一に「寝てたよ。いま服を着てるから、もうちょっとだけ待っててやってもらえるかい?」と言った。
しばらくして「もう入って良いよ。待たせたな。」という声が、ドアの向こうから聞こえてきた。
扉を開けて中へ入ろうとすると、中から二十代前半と思われる、長い黒髪のワンピース姿の女の子が出てきた。
まるでこの場所から逃亡でもするかのように、小走りで階段を駆け下りていった。
その姿を見て二人は呆然としつつも、事務所の中へ入っていった。
二人に続いてお婆さんも入ってきた。
「お前の爺さんからの依頼だよ。そっちのスマホに電話をかけたけど埒が明かないから、こっちに連絡が来たのさ。ちゃんと仕事するんだよ。でないといい加減ここから追い出すからね!」
お婆さんはそう啖呵を切ると、ドアをバタンと勢いよく鳴らして出ていった。
陽子と京一は、そんなお婆さんを呆然と眺めていた。
「す……凄いお婆さんですね」
陽子がやっとの事でそう言うと、慎一は「ええまあ……」と、やれやれといった感じで答えた。
二日酔いで、まだ頭がガンガンする。
聞える音がグワングワンと頭に響く。
久しぶりの仕事だ。ちゃんとしなきゃ。
客を前にしてそう思うと、何だかやたらめったら喉が乾いてきた。
「ちょっとすいません。水飲んできて良いですか?」
二人が、ええどうぞと言うのを聞いて、慎一はシンクに置いてあるコップに水を注いで飲んだ。
ゴクゴクと一息で飲んでフーッとため息をつくと、そういえば昨日何があったんだっけ……と記憶を辿った。
そういえば昨日………。
慎一の脳裏には、昨日の晩の記憶がありありと蘇ってきた。
慎一は行きつけのバーで酒を飲んでいた。
ここは唯一ツケのきくバーだ。
以前慎一は、ここのバーの抱えていたトラブルを解決してやったことがあった。
詳しくは省くが、そのトラブルを解決してやった事にマスターは恩義を感じて、払いはいつでも良いからと、慎一にツケで好きなだけ酒を飲ませてくれていた。
「いつもいつもすまねえな。仕事が入って金が出来たらちゃんと払うからさ。」
慎一はそう言いながら、バーボンの水割りの残りをグイッと空けた。
「そんなこと気にするなよ。慎一ちゃんには助けて貰った恩がある。あの時よっぽど首を括ろうかってくらい思い詰めてたから、飲み代のツケくらい安いもんだよ。それに小耳に挟んだんだけど、慎一ちゃんの親父さんはチェーン店の社長で金持ちなんだろ?イザとなったらそこから取り立てるさ。」
マスターはそう言いながら、水割りのおかわりを作って慎一の前に差し出した。
「バカヤロー!俺は勘当されてる身だからそんなの当てにならねえよ」
そう言って、ガハハと笑った。
「でないとこんなスカンピンで、お前さんの所にツケなんて溜めるわけ無いだろ?当てにするだけ無駄だよ」
自嘲気味にそう言うと、マスターも「ちげえねえ!」と言ってガハハと笑った。
慎一にとって、ここは一番気楽に過ごせる場所だった。
取り扱った依頼の案件の解決のキッカケも、ここで掴んだことも数多いが、トラブルが向こうから飛び込んできたことも数しれない。
マスターもそれを間近で見てるので、二人は気心の知れた仲だ。
そんな話をしてる時に、キャーッという悲鳴が聞こえてきて、慎一は反射的に外へ飛び出した。
「あ~あ、トラブルなんて懲り懲りだとか何とか言って、自分から拾いに行っちゃうんだから」
マスターは呆れながら飛び出す姿を見送ると、慎一のボトルから自分のグラスに注いで水割りを作って飲んだ。
慎一が店を飛び出すと、男が二人がかりで女性を車に無理やり押し込もうとしている所だった。
慎一はいきなり男の背中に蹴りを入れた。
ギャッと言って、蹴られた男は倒れ込む。
もう一人の男は驚いて「何だてめえ!」と言いながら、車に置いてあったバットを手に取り、慎一に向かって振りかぶった。
慎一はそれをギリギリで避けて、股間を思い切り蹴り上げた。
「ギャーッ!」と叫んで男が倒れ込んで転げ回る。
背中を蹴られた男の方は復活して、へたり込んでる女性を人質にしようとして近づこうとしたが、後ろからのマスターのバットの一撃で事なきを得た。
「マスター、ナイス!」と慎一は叫んで、男二人をギロッと睨みつけた。
「お前ら、まだやるかっ!」と慎一が叫ぶと、男たちは「ちくしょう、覚えてろよ」と言いながら車に乗って逃走した。
しばらくして近辺に静寂が戻った。
「マスター、サンキュー。助かったよ。」と言うと、マスターは「やれやれ、高みの見物と洒落込もうとしたのに、ついつい助けちゃったじゃないのよ。あいつらがうちの店に仕返しにやってきたらどうしてくれんのよ」と、ちょっと不満げに慎一を見た。
「そんときゃあ連絡くれたらいつだって駆けつけるよ。普段の恩義もあるしな。」
慎一は、さも当然といった雰囲気でそう言った。
「そんなの間に合うわけ無いでしょ!ああ、ついついお節介を焼いてしまう自分が呪わしいわ!ただ見てるだけのつもりだったのに!」
慎一はそんなマスターの言葉をハイハイと受け流しながら、女性に声をかけた。
「おい、あんた立てるか?」
慎一は声をかけたが、反応らしい反応はない。
いきなり拐われそうになった出来事に、未だ呆然としているようだ。
「おい、あんた。」と言いながら肩に触れようとしたら、「イヤーッ!」と叫びながら、慎一の手を振り払い、両手で自分の肩を抱いてブルブルと震えている。
無理もない。
男に二人がかりでいきなり拐われそうになるなんて、トラウマ・レベルの出来事に違いない。
慎一とマスターは顔を見合わせて、どうしようかという表情をした。
ひとつ言えるのは、こうして関わってしまった以上このまま放ってはおけないということだ。
このまま再び放流してしまうと、また危険な目に遭いかねない。
「おい、あんた。」と慎一は三度目の声掛けをした。
女性はへたり込んだままで慎一を見上げた。
慎一は「やっとこっちに注意を向けてくれたな」と言ってニヤッと笑った。
服やズボンに付いた埃をパンパンと払いながら「危ないとこだったぜ。もう少し遅かったらヤバかった。」と言った。
「あんたも立ったらどうだ。いつまでもそこにへたり込んでる訳にも行かないだろう。それに埃だらけだから払ったらどうだい?」
慎一がそう言うと、女性は頷きながら立ち上がって、身体についた埃を払った。
「助けてくれてありがとう」
女性はそう言って頭を下げた。
別にお礼を言われたくて助けた訳ではないが、そう素直に礼を言われると悪い気はしない。
「あんたがどこへ行く気か分からないけど、あんな事があった直後だ。しばらくの間は一人で行動するのはお勧め出来ないな。誰かに迎えにでも来てもらったらどうだい?」
そう言うと、相手は「迎えに来てくれる人なんて誰も居ないわ」と言った。
それを聞いて、マスターと慎一は、また顔を見合わせた。
これはちょっと厄介なことに首を突っ込んじまったかなと思ったのだ。
「誰も居ないなんてことは無いだろう。あんたにだって家族は居るだろう?場合が場合だ。こんな時間に連絡するのは気が引けるかもしれんが迎えに来てもらったほうがいい。でないとまたかっ拐われるかもしれないぞ?」
慎一は何とか安全に帰そうと説得を試みたが、それも無駄に終わりそうだ。
「無理。親と喧嘩して家出してきたの。一人暮らしの友達の所に泊めてもらおうとしたんだけど、急に彼氏が来て追い出されちゃって……。」
慎一とマスターはそれを聞いて、三度顔を見合わせた。
いよいよ面倒臭いことに首を突っ込んでしまったという表情だ。
「慎一ちゃん、俺は知らないよ。そもそも首を突っ込んだのはあんたでしょ。そっちで何とかしてちょうだいよ。」
マスターはそう言ってにべもない。
慎一は参ったなあという顔でボリボリと頭を掻いた。
「それはいいけどさ……マスターも知っての通り、俺いまカラッケツなのよ。緊急事態なんで、いくらか貸してくんない?」
マスターは渋い顔をしながらも「今回だけ特別だからね」と言って一万円貸してくれた。
「なんだ、これだけ?」と言いながら万札をひらひらさせたが、マスターは「タクシー使っても慎一ちゃんの事務所までで充分お釣り来るでしょ?偉そうなこと言いたかったら、溜ってるツケを全部払ってからにしてちょうだいよ。」と、少しキレ気味に言った。
慎一としてはそう言われると一言もない。
「あんた、これからどうするつもりなんだ?」と聞いても、女性は「どこにも行き場がないから街なかで適当に時間を過ごすわ。」という返事である。
慎一は「あんた、せっかく助けてやったのに、その努力をふいにさせる気かよ!」と呆れたように言った。
マスターも「悪いことは言わないからやめときな。夜が明けるまで、この人の事務所に泊めてもらうといいよ。さっきあんなことがあったばかりなのにリスクが高すぎる。この人探偵やってて普通の男よりモラル高いから安心していいよ。もし何かあったら、言ってくれれば警察呼んであげるから。」と言いながら慎一のほうへ顔を向けてニヤリと笑った。
「マスター、勝手に決めんなよ!」と言ったりもしたが、慎一としてはこのまま放ってもおけない。
もしこの後で、彼女の身に何か起こったりしたのを知ったりしたら、一生悔いて生きていくことになるだろう。
「嫌でなければ」と、慎一は遠慮がちに言った。
「嫌でなければ明るくなる時間まであんたを事務所で保護させてくれ。でなけりゃあ、あんたの実家まで送ってく。それも嫌だってんなら、首に縄付けてでも警察まで連れてくまでだ。」
慎一がそう言うと、女性は素直に「分かったわ。」と言った。
「じゃあ、マスター帰るよ。悪いけど車呼んでくれるかい?」
歩いても戻れる距離だが、途中でまた何か面倒くさいことが起こるかもしれない。それを避けるための慎一の配慮だった。
「マスター、今日は色々すまなかったな。世話になった。」
迎えに来たタクシーに乗るときに、慎一はしみじみとした感じでマスターに礼を言った。
「なに言ってんの。以前あんたが身を挺して助けに来てくれた時、嬉しかった。それに比べたらどうってことないよ」
マスターはそう言って、最後に「襲っちゃだめだからね!」と言った。
「襲わねーよ!」と悪態をつくと、タクシーは走り出した。
タクシーの中で、慎一は女性に名前を聞いた。
女性は「万智子。友達からはチコって呼ばれてるわ。」と言った。
チコは清楚なワンピースを身に纏い、容貌にはまだあどけなさを残していた。年齢的にはまだ二十代前半に見えた。
「俺は膳場慎一。個人で探偵事務所をやってるよ。これから行くのは俺の事務所だ。最近は仕事が少ないがね。」
そう話してるうちに、タクシーは事務所に着いた。
事務所に入って電気をつけると「カーテンの向こうに仮眠用ベッドがあるから、そこで寝てくれ。」と言って、慎一は事務所の電気を切り、来客用のソファーに上着を脱いで寝転がった。
「シャワーは無いの?」と聞かれたので、仮眠ルームの隣のドアがそうだと伝えて眠りにつこうとした。
シャワーの音を聞きながら微睡んでいたが、やがてバタンとドアの閉まる音がして、慎一は上がったなと思った。
まあ、すぐに寝るだろうと思いながら寝返りを打った。
暗闇の中に人影が蠢く。
机の上に立ってるペン立てをガチャガチャと弄くる音がする。
ペン立てにあったのは何だろう。
ボールペン、サインペン、シャーペン、定規、カッター……
カッター!?
慎一は嫌な予感がして、ソファーから降りてチコに近付いた。
窓から薄っすらと入る街頭の光の中で、チコがブルブルと震えながら手首にカッターの刃を当てようとしているのが見えた。
「おい!あんた一体何をやっているんだ!」
慎一はそう叫んで、慌ててカッターを取り上げた。取り上げようとして少し抵抗してきたので、取り上げるのは少々骨が折れた。
「お願い、返してちょうだい!」
チコはそう言ったが、自殺しようとしてる人間に刃物など返せるはずもない。
「返せるわけないだろう!苦労して助け出したのに死なれて堪るかよ。探偵事務所で死人が出るなんて悪い冗談だ。」
そう言って慎一は溜め息をついた。
その時慎一は見たのだ。
窓から入り込む街灯の光に照らされた左腕に、いくつかのリストカットの跡があるのを。
これは面倒くさいのを拾ってきちまったなと思ったが、さりとて追い出してまた拐われるのも、自ら死を選んであの世に行かれても困る。
「まあ落ち着けよ。今日はもう遅いし一先ず寝ようぜ?な?」
慎一は何とかチコを落ち着かせようとした。
夜が明けたら彼女の友達とも連絡が取れるようになるだろう。そうしたら引き取ってもらおう。残った金を全部渡して、呼んだタクシーで帰ってもらったっていい。
「親は私なんか要らないんだって。事あるごとに、そう言われるから、もう耐えきれなくなっちゃって……。」
チコはそう言ってポロポロと涙を流し始めた。
「だから着の身着のままで家を出てきたの。」
そう言って、大粒の涙を流して泣くばかりである。
「あなたも私を要らないんでしょう?厄介者を抱え込んじゃったって……そう思ってるんでしょう?」
そう言われて慎一も困ってしまった。
下手なことを言って暴走されても厄介だ。
メンヘラ気質なのか、直情気質なのかは分からないが、ここは穏便に行きたいものだと思った。
「そんな事は無いさ。こうして見ると、あんたはすこぶる付きの美人だ。まるでグラビア・アイドルみたいだぜ。そんなあんたを助けられて嬉しく思ってるよ。」
実際これは本当だった。
清楚な柄のワンピースを着ていた彼女は、女性に関心のある男なら、すれ違った後で大半が振り返ることだろう。
「本当に?」
「ああ本当さ。どういう事情で家を出てきたか分からんが、そう自分を卑下したり悲観したりするもんじゃないよ。」
そう言うと、チコは慎一をしばらく見つめて、何かを決意したような表情をして、次にこう口を開いた。
「じゃあ私を抱いてみてよ。」
呆気に取られた慎一は、頭の中で色々な考えが駆け巡った。
ここで断ったら自分を否定されたと思って、またリストカットしかねない。
後々面倒くさい事が起きるかもしれないが、今は彼女のメンタルケアを優先させることにした。
「分かった。汗臭いから、一先ずシャワー浴びさせてくれ。」と言って、とりあえずシャワー室に逃げた。
身体を洗いながら、マスターの言葉を思い返す。
慎一ちゃん、襲っちゃだめだからね。
襲われそうになってるのは俺の方だっつーの!と思いながら、慎一は身体に付いた泡を流した。
その時に、女性がシャワー室に入ってきて、慎一に強引に唇を重ねてきた。
口の中で相手の舌が、生き物みたいにウネウネと蠢く。
「お願い。これ以上焦らさないで。」
これはもう逃げられないな、と覚悟した慎一は、女性を抱き上げてベッドへ運んだ。
身体を拭くのももどかしく、二人はベッドの上で絡み合った。
慎一は二度三度と果てたが、女性はもっともっとと、生きてる事を実感させてと言いながら、慎一に休む暇を与えず求め続けた。
もう余計な事を考えている余裕は無かった。
全てが終わったとき、二人は泥のように、眠りの世界に落ち込んでいった。