09.波に乗る
京一は病院に入ってから、さて……何号室だったろうかと考え込んだ。
自分が入院していた病室が何階だったかは覚えている。
ひとまずそこまで行ってから、ナース・ステーションで問い合わせようか、と考えた。
午前中の外来診療の待合ロビーは混んでいた。
無理もない。ここには色んな診療科があり、色んな疾患を持った人がこの病院に集まってくるのだ。
この病院は、この街の基幹病院として、個人医院や診療所からの紹介を受けた患者も多くやって来る。
この病院で手に負えない疾患があった場合には、別のエリアにある大学病院か、高度医療センターに送り込まれる選択肢しか残っていないだろう。
そういう意味では、地域住人にとっての砦的な役割を果たしている病院とも言える。
京一がこの病院へ運ばれた時には意識が無かったので、俯瞰して病院をしげしげと見るのは、これが初めての事だった。
エレベーターに乗り、自分が入院していた階へ向かう。
降りてデイルームへ顔を向けると、膳場会長が窓際の席に座り、外の景色を眺めているのが目に入った。
テーブルに近づき、会長さんと声をかけると「おう、一昨日ぶりだな」と言って、ニッと笑った。
「今日はどうした?診察か何かか?」と、会長は訊ねた。
「いえ、会長さんのお見舞いと、その後のご報告と思いまして。」と京一は、はにかんだような笑顔を見せた。
「ほう……お前さんでもそんな笑顔を見せることがあるんだな。先日ワシに見せていたお前さんの顔は、今にも屋上から飛び降りそうな顔をしておったがの。」
そう言ってガハハハと豪快に笑ったかと思うと、急にゴホンゴホンと立て続けに咳をした。
「だ、大丈夫ですか?」
京一はそう言いながら、慌てて会長の背後に回り、背中を擦ろうとした。
「大丈夫じゃ、大丈夫じゃあ!ちょっと咽ただけじゃから、余計な心配はせんでもいい。」と言って、京一の手を振り払った。
「でも、とても苦しそうでしたよ。本当に大丈夫ですか?」
京一は心配そうに会長に聞いた。
「なに、見かけほどでもない。本当にちょっと咽ただけじゃ。先日の検査も特に悪い所は無かったし、遅くとも明日にはわしも退院じゃよ。それよりも、ここへ来たということは、あの家へ厄介になることにしたんじゃな?」
会長がそう言うと、京一は頷いた。
「アドバイスに納得できる部分が多かったので、従うことにしました。これから恩返ししていこうと思ってます。」
「うんうん、それがええ。岩倉さん達にしても、あのまま君に消えられでもしたら、忸怩たる思いが残ったじゃろうて。今の所はそれでええんじゃよ。」と、会長は二度三度と頷きながら、納得したように言った。そして「現在はもう健康に問題はないようなら、仕事はどうするんじゃ?あの家でずっと遊んでいる訳にも行くまい?」と聞いてきた。
それは京一もずっと考えていた所だった。
陽一は、仕事の資料作成を当面の間手伝ってくれたらそれで問題ないとは言ってくれてはいたものの、それで岩倉家に充分貢献しているとは言い難い。やはりキチンと働いて、その稼ぎを入れてこそ、岩倉家の一員として貢献していると言えるだろう。現在京一にとっての、1番悩ましい問題がそれだった。
「ええ、確かにそうです。でも……」と、京一が言いかけると「面接を受けるために履歴書を書こうにも、書くべき履歴が頭に何も無い……じゃろ?」と、会長は京一の考えを見透かすように言ってきた。
「はい……その通りです。」と言って、京一は唇を噛み締めた。
「なら、うちの店で働かんか?」と、会長は京一へ訊ねた。
「経験が有るのか無いのか分からんから、最初は雑用や品出しからになると思うがの。」
それは京一にとっては、驚くと同時に何よりの申し出だった。
「い、良いんですか?僕記憶がなくて経歴も何も分からなくて、身元も不確かなんですが!」
京一は驚いて、ついつい早口気味に会長に聞いてしまっていた。
「君にはうちの社員の息子が死亡事故を起こしかねないところを、すんでのところで食い止めてもらった恩義があるしな。もし死亡事故なぞ起きておったら、うちの会社にもそれなりにイメージ・ダウンを被っておったかもしれん。それに丁度人員が足りてない店舗があってな。ほれ、この近辺にある店じゃ。」
京一にもし事故の前の記憶が残っていれば、訪ねた記憶もあったかもしれないが、現在のところ店に関する記憶はサッパリである。
だが記憶が無いながらも、ホームセンターがどういう種類の店かはイメージ出来た。
果たして自分に出来るだろうかと思ったが、現在のところ他に選択肢は無い。京一は頑張ってみようと思った。
「ありがとうございます。もし働かせて貰えるなら頑張ります!」と言って頭を下げた。
「うん、君がやる気なら、支店長にはわしから連絡しておこう。来てほしい日にちは、また改めて人事の方から連絡させることにするから。身元保証もわしが引き受けるから、恥をかかせるなよ」
そう言って、膳場会長はニヤリと笑った。
「はい、それはもう。でも……本当に良いんですか?会長さんにご迷惑をかけることになるんじゃ。」
京一は心配そうな声音でそう言った。
「心配せんでええ。君にやる気があるんなら余計な気を回す必要はない。」
会長はそう断言し、京一にそろそろ帰るように促した。
「少し疲れたんでな。わしは病室に戻って少し休むことにするよ。何かあったらまた訪ねてきなさい。」
京一は、分かりましたと言い何度も頭を下げて、会長の元を辞した。
岩倉家へ戻る道すがら、今日の出来事をどう報告しようかと考えた。
事故に遭って以来、話がトントン拍子に展開している。このまま上手く行き続けるものだろうかと、軽い疑念が脳裏をよぎるが、波が来てるなら一先ず乗ってみるべきという会長の言葉を胸に秘め、当面の間はこのまま頑張ろうと決意を新たにして家路を急いだ。
チャイムを押すと、おかえりなさいと言いながら陽子が出迎えてくれた。
ただいまです、と言いながら一緒にリビングに入っていくと、陽一がソファに座ってテレビのニュースを見ていた。
「ほらな?ちゃあんと帰ってきただろう?」と陽一は言った。
京一が不思議そうな、怪訝そうな顔をしていると、陽一が説明し始めた。
「いやね、京一君がもしこのまま戻ってこなかったらどうしようって、陽子さんがずっと心配してたものだからね。僕はそんなことは無いよって言ってたんだ。陽子さん、これで安心したろう?」と、陽子に顔を向けてニヤニヤしながら言った。
「もう……貴方ったら京一君にいちいちそんな事報告すること無いじゃないの!」と少しお冠気味に言った。
そして「で……京一君、会長さんはどうだったの?」と聞いてきた。
陽子は、京一が見舞いに行きたい人がいると言った時点で、誰に見舞いに行くのか見当が付いていた。
「はい、お元気そうでした。それから……あの……ご報告する事があるのですが。」
京一はおずおずとした感じでそう言った。
「ん?いったい何?記憶でも戻った?まさか、うちを出ていくとかじゃないでしょうね!」
陽子は京一に迫らんばかりの勢いで、そう確認してきた。
「いえ……僕……ホームワークに就職が決まってしまいました!」
京一がそう言うと、二人は顔を見合わせて、え~~~っ!?と叫んだ。