プロローグ
この章は、ここで描かれるべき物語が全て終わった後日譚。とある日の日常のひとコマになります。
「お母さん!お花が咲いてるよ。」
学校から帰ってきた美祢がそう言って、庭から母親に声をかけた。
それは真っ赤なチューリップだった。
美祢は小学校の三年生。
彼女はこの花の種が植えられてから、帰宅後毎日のように庭に回って、いつ花が咲くのかと心待ちにしていたのだった。
何故なら、この花は彼女にとって…いや彼女を含む岩倉家全員にとって、忘れられない人物と一緒に蒔いた種が、花を咲かせたものだったからだ。
改めて花を見てみると…どうだろう。太陽に向かって、凛として誇らしげに咲いているではないか。
さぁ、私を見て!と言わんばかりに花ビラを一杯に開かせて咲いている。
それをしゃがんで見ながら、美祢はつい物思いに耽ってしまう。
そこへ、母の陽子が家事仕事に一段落付けて、やっと庭に回ってきた。
「あらあら、やっと咲いたのね。京一君と一緒に植えたお花。」
そう美祢に話しかけた陽子は、中学生と小学生の二人の娘を持つ母親とは思えないほど若々しい。
ショートカット・ヘアーの陽子は、出張の多い夫に代わって家を守っているので、常に動きやすいパンツルックで家を切り盛りしている。
例の流行り病のおかげで、陽子の勤めている会社もリモート・ワーク中心になったので、最近は美祢にも寂しい思いはあまりさせなくて済むようになったのが、こういう状況の中での唯一の収穫だった。
「ねえ、お母さん。」
美祢は物思いに耽りながら、陽子に声をかける。
「なあに?」
陽子には美祢が何を問いかけようとしてるのか、容易に想像がついた。
事あるごとに同じような事を聞かれるので、もうだいたい見当が付いてしまう。
「京一君…元気でやっているかなあ」
京一と言うのは、岩倉家にしばらくの間滞在していた青年だった。
美祢は彼を兄のように慕っていたのだ。
「大丈夫よ。京一君、旅に一段落したら必ず帰ってくるって言ってたじゃない。」
「うん」
そう言いながら、物憂げに花を見つめていた美祢は、「そうだよねえ」と言いながら立ち上がった。
そうやって過ごす内に、太陽は翳ってきて夕日になり、空に夕焼けを彩ろうとしていた。
「それよりあなた、もうそろそろお腹空いてきてるんじゃないの?ご飯の用意出来てるわよ」
陽子はそう言って、家の中に向かって踵を返す。
「ほんと?そういえば、そろそろお腹すいたぁ!」
美祢もそう言いながら、陽子に倣って踵を返して家に入っていく。
玄関で靴を脱ぎながら、美祢はまた言う。
「京一君、元気かなあ」
陽子は、しょうがないわねという風情で美祢を見ながら、心の中で呟く。
『京一君…いつ帰ってくるの?美祢が寂しがってるわよ』
「ただいまあ!」
二人で夕食を取ってる間に、上の娘の麗華が帰ってきた。
「おかえり。お腹空いちゃったんで、先に食べてたよ」
美祢が麗華にそう言うと、「私も今食べるから、用意しておいてー!」と言いながら、部屋着に着替えに自分の部屋へスタスタと向かっていった。
三人で夕食を取りながら、麗華が美祢に言う。
「あんた、また京一君の事言ってたんでしょう?お母さんに。」
からかう様にそう言われた美祢は、麗華に「お姉ちゃんは気にならないの?」と問いかける。
「そりゃあ…」と言いつつ美祢の方を見ながら「あたしだって気にはなるわよ」と、言葉を継いだ。
「でも、そのうち帰ってくるでしょ。京一君、そう約束したんだから」
それは美祢へと言うよりは、自分に言い聞かせているようだった。
「きっと帰ってくるわよ」
麗華は改めて自分に言い聞かせるようにそう言いながら、料理を口へ運んだ。
そうして、三人は各々同じことを心に思うのだ。
京一君。花……咲いたよ!!