第二十一話 狼と鴉
前回
岬守航は久住双葉救出に向かった雲野研究所で不思議な幼い双子と出会う。
この双子は「神為を他者に貸し与える。」「魂を知覚する。」という特殊能力により、久住双葉を囚われの身から解放しており、また、虻球磨新兒に家族との最後の会話を交わさせる。
航達はこの双子を新たに一向に加え、雲野研究所を後にした。
一方、狼ノ牙の本部から離脱した水徒端早辺子は皇道保守黨の上役から姉の捜索を中止するよう命令されてしまう。
最後の希望をかけて仁志旗蓮に連絡した彼女だったが、電話に出た屋渡倫駆郎から彼の粛清を告げられてしまう。
さらに屋渡は航達及び早辺子の抹殺を宣言し、電話を切った。
雲野研究所の一件から遡ること一日、屋渡倫駆郎に一本の電話が入った。
「もしもし?」
『酷いじゃないか、屋渡。僕を除け者にするなんて……。』
「八社女首領補佐……!」
武装戦隊・狼ノ牙、首領補佐・八社女征一千。
屋渡倫駆郎はこの男が苦手であった。
どう見ても十代にしか見えない若造が、わざわざ八卦衆と別枠を設けてまでナンバー2に重用されていることが気に食わない、という事もある。
だがそれ以上に、八社女という男は不気味なのだ。
どう見ても自分より若いのに、自分よりも狼ノ牙の古参であるということ。
そして、それに相応しい奇妙な威圧感を備えていることが気味悪くて仕方がない。
それはまるで、何百年も生きているかのような錯覚を起こさせるほどに。
「申し訳ございません。暫定でしたので最低限の相手だけに連絡先をお伝えしました。」
『ふーん、まあいいや。実は君に一つ頼みたいことがあるんだよ。』
「頼みたいこと?」
内心、迷惑だった。
彼は今、土生十司暁と梶ヶ谷群護の報告を待ち、気が気でないのだ。
それに、彼は基本的に面倒事が嫌いで、自分で動きたくない男である。
ただし、そこにはたった一つだけ例外となる仕事がある。
『この騒動でやっと炙り出されたんだけどね、どうやら八卦衆に裏切り者がいるみたいなんだ。』
「この騒動で発覚した、八卦衆の裏切り者……。」
こう言われれば余程勘が悪くなければ察するだろう。
「仁志旗……。」
『そう。そしてどうやら仁志旗の奴、最初から諜報員だったらしくてね。ちょっとまずいことを知り過ぎてしまったんだよ。』
屋渡は頭を掻き毟る。
許容量を超える不測の事態にストレスで頭がパンクしそうになっていた。
しかし、断るという選択肢は無い。
「大体わかりました。私に仁志旗を消せと仰りたいのでしょう。しかし、どうするのですか? あの男の消息も掴めないのに……。」
『それは心配いらない。そもそも、彼の現在地がわかってヤバいとなったわけだからね。そして場所的に、恐らく君にしか頼めない。』
「なるほど、何処です?」
上役の命令ならやるしかないだろう。
屋渡倫駆郎が組織を家族と見做すならば、首領Дは父、補佐は兄である。
その頼みを捨て置くことなど、屋渡の信条に反する。
それに、この内容ならば屋渡にとってそう悪くない仕事だった。
彼の本分とは、他ならぬ暴力であるからだ。
『北界道十四州最北は想谷州、武装戦隊・狼ノ牙旧本部。我々の始まりの地だ。』
「旧本部⁉」
屋渡は首を傾げた。
何故そんな場所にいるのか、不可解の極みであった。
「あそこは今無人の廃墟では? あんな場所に何があるというのです?」
『屋渡君、こればかりはいくら君でも教えられない。本当に極秘中の極秘なんだ。そこを汲み取って、ただ旧本部へ赴いて仁志旗の口を永遠に封じて貰いたい。』
今、屋渡の心は揺れている。
苦手だった男に、どういうわけか心を動かされようとしていた。
「私に頼んでいいのですか? 私は組織にとんでもない損害を与えた男ですよ?」
『何だ、自信を無くしているのかい? 君らしくもない。僕の君に対する信用は今回の件で微塵も揺らいでいない。君は本来純粋な戦士で、組織もそこを買って君を八卦衆に抜擢したのだから、他の原因で降ろすこと自体が間違っていると僕は思っている。だからこの仕事を成功させてくれたら、裏切り発覚の件も含めて手柄は君の総取りでいい。』
「総取り、ですと?」
屋渡は食い付いた。
「つまり、仁志旗の件は一から十まで私が成したことにして良いと?」
『そういうこと。君は確かに失態を犯した。だがそれにより仁志旗の裏切りという事実を突き止め、独自に迅速にこれを粛正することにより、結果的に奴を泳がせていた場合に生じ得た最悪の損害を防いだ、という形に収めていいと言っている。』
「では……!」
屋渡の声はあからさまに歓喜で震えていた。
期待に胸が膨らんでいる。
『勿論、首領には君の八卦衆残留を説得しよう。裏切り者の仁志旗を始末して最高機密の漏洩を防ぎ、後は脱走者共の始末を付けられれば首領もこの僕の口添えを|無下にすることは無いと思うよ。』
願ってもいない朗報、僥倖であった。
「畏まりました! では、直ちに向かいます!」
『君の移動速度なら仁志旗は今日中に、脱走者共も明日には片が付くだろう。この一件を早々に始末して、引き続き狼ノ牙という家族の夢の為にその力を振るってくれ給え。』
八社女の言葉で屋渡の心は完全に澄み渡っていた。
彼は深く謝意を述べて電話を切ると、高笑いと共に自身の腕から分かれた槍を伸ばし、遠くの山へと突き刺した。
そのまま槍を収縮させる速度を利用して、高速移動する。
この動きが、彼に依頼の遂行を可能とするのだ。
その速度、実に時速300粁超。
旧本部までの到達時間は、およそ5時間である。
『狼が、八咫の鴉を、食む悪夢。』
どこかで女が独り言を呟いて笑っていたことなど、彼は知る由も無い。
⦿⦿⦿
「何だ、これは……?」
根尾弓矢は栃樹州に向かう高速列車の中で受け取った仁志旗蓮からの不可解な画像データに首を傾げていた。
「このファイル名が写されている三人の詳細か。だが何故、この肩書の三人が一緒にいるんだ?」
メールには何一つメッセージが無い。
タイトルすら無い。
ただこの画像だけはどうしても送りたかった、という意志を感じる。
「仁志旗の奴、まさか……!」
何か重大な秘密を知って消されたのか。――その疑惑が胸の中で広がっていく。
根尾は席を立ち、後部座席の白蘭揚羽に声を掛けた。
「すまないが少し麗真君を見ていてくれ。電話を掛けてくる。」
「蓮君の件ですか?」
「ああ。ひょっとすると最悪の事態も考えねばならんかもしれん。」
根尾の言葉に、白蘭は一瞬目を見開いて息を呑み、顔を伏せた。
白蘭揚羽と仁志旗蓮は共に同じ児童養護施設で育った旧知の仲であり、歳も近いとあってそれなりに親しくしていた。
白蘭にとって仁志旗は自分にはない明晰な頭脳と確固たる信念を持つ頼れる男だった。
根尾は白蘭の普段とは違う様子に思うところがあったようで、言葉を加える。
「すまん、確証も無いまま言う事ではなかった。」
「いえ、大丈夫です。私達、その覚悟だけはいつもしていますから。」
そうか、と頷き、根尾は寝息を立てる麗真魅琴を白蘭に任せて車輛を出た。
⦿⦿
答えない電話を見つめては耳に当て、何度も繰り返す。
状況から言えば、仁志旗蓮は連絡の取れない状態になったと考える他ない。
「ここで仁志旗を失うのか……。」
電話を切り、根尾は頭を抱えた。
仁志旗は諜報員として非常に有能な男である。
彼から齎された皇國や狼ノ牙の情報は数多い。
根尾らが今こうして皇國で活動できているのは、六割方仁志旗蓮の功績だと言っていい。
「だとすれば、あいつが遺したこの情報は何としても解読せねばならん。今はそれどころではないが、取っ掛かりの様なものだけでも掴んでおくべきか……。」
写真に並んで何やら怪しげに会話している風に佇むのは女一人に男二人。
問題は、彼らが何者であるかという事だった。
「ファイル名に書いてあるのが彼らの詳細で、写真写りの順番に並べたのだとすると、まず一番左は奴らの首領補佐、八社女征一千。それと間に挟まれているのは…」
「おや、これは根尾殿!」
一人の壮年男が根尾の考察に水を差した。
その男とは面識があり、そして決して無碍には出来ない実力者だったので、一旦考察は後にして挨拶することにした。
「大河殿、お久しぶりです。」
大河正煕、大貴族甲夢黝の従弟であり、貴族院議員を務めている。
根尾はこの男と日本国の閣僚である皇奏手の秘書として何度か会っていた。
「珍しいですな、明治日本の方が統京から離れられるとは。」
「ええ。政治に携わる者として、少し地方にも足を運ばねばと思いましてね。中央ばかり眺めていては見えないものに気を配ってこそ大局がわかると考えています。」
「ほーう、結構な志ですな。それに、お若いにも拘らず中々の深謀遠慮でいらっしゃる。さすが、日本男児と言ったところでしょう。」
根尾の言葉はその場で考えた出まかせである。
狼ノ牙に拉致された自国民の救出に向かっているとは素直に言えない訳がある。
そもそもなぜ彼らが皇國の警察や軍を差し置いて動いているのかというと、今回の事件の発覚を皇國側が恐れていることにその理由の一端がある。
皇國政府は日本政府(皇國側呼称・明治政府)にこの件を極秘裏に処理するよう要望している。
彼らはある理由により、日本国民(皇國側呼称・明治の民)の感情悪化を何としても避けたかった。
そしてそれは、政権与党内や貴族院の非主流派、そして野党にとって格好の攻撃材料になる。
皇國政府が自国警察組織や軍を介さず、日本国側の人間だけを経由して円滑に国外へ拉致被害者を送還したがる理由も実はここにあった。
警察や軍から非主流派の有力者に情報が漏れることを恐れたのだ。
そしてその非主流派の最有力者こそ、この大河正煕の従兄、甲夢黝である。
それにしても毎度のこと、根尾は人間の長所や資質を「日本人だから」に回収してしまう皇國臣民の考え方に気味の悪いものを感じていた。
それは全てを個人の才覚や努力で結論付け、民族や国家国民の同胞意識による勇気付け、己の鼓舞を冷笑い一切の価値を認めないのと同様の悍ましさを覚えてしまう。
どちらも、丁度いい塩梅にならないものか……。――根尾は目を細めた。
彼は確かに、今の日本を憂いている。
特に国家への自信の無さ、国民としての同胞意識の欠如、民族の歴史への誇りの乏しさを改善したいと思っている。
そしてそのためには強い国力が必要であり、どうにか成長力、推進力を取り戻したいと日々頭を悩ませながら国政を学んでいる。
だが、その全てを備えたこの皇國のあり方が正しいとも思えない。
どうにもその自負、民族優越思想が仮初の繁栄に支えられた張りぼて、付け焼刃、砂上の楼閣、言ってしまえば虚勢であり、支えている強大な国家が崩れればあっさりと失われる脆く儚いもののように思えてならない。
自分の求めているものはこれではない。
だから、師である皇のあの方針が正しいか、そこには手放しで賛同しかねる。――根尾は揺れていた。
「……大河殿?」
ふと、根尾は大河が自分との距離を異様に詰めていると気になった。
この壮年の男の眼は、どこか奇妙な情熱が宿り潤んで煌めいている。
痩せた頬と唇は色艶を出し、異様な雰囲気を纏って根尾の分厚い筋肉の肩口、胸元に寄りかかってくる。
「大河殿、どうかされましたか?」
「根尾殿、内緒の話が御座いましてね。少々耳を貸していただけませんか?」
根尾はこの男の態度にかなり嫌な気分になったが、立場上断るわけにもいかず屈んで耳を預ける。
だがその瞬間、根尾は大河から明らかな殺気と神為の高まりを感知した。
咄嗟に大河の体を跳ね除け、二歩下がって距離を取る。
「大河殿、何をなさいますか!」
「若造が……。あと少しで耳から神為を送り込んで脳を破壊できたものを……。」
大河の目は焦点が合っておらず、口から涎を垂らし、明らかに正気を失っている。
「電話を寄越せ……。」
「電話?」
根尾は自身の手に握られた携帯電話に目をやった。
狙いがこれだとすると、彼の目的は……。――根尾は全てを察した。
「電話を寄越せえぇっ‼」
「断る!」
飛び掛かって来た大河の腕を取ると、彼は奇声を上げながら根尾に蹴りを入れようとする。
しかし、その蹴りは足を振り上げたところで止まった。
――術式神為――
大河の体は根尾に掴まれた腕から徐々に石に変わっていく。
「そんなに俺が受け取った写真が重要なのか。ならば誰の差し金か、ある程度の想像は付くな。」
根尾は石化していく大河を問い詰める。
大河はただ瞼と口角を痙攣させるばかりだった。
「裏に居るのは甲か? それとも会ってはならぬ人物との密会を写真に撮られた秘書の推城朔馬が勝手に動いているのか? その様子では聞けそうも無いし、どうせ黒幕もお前を生かしておくつもりは無いのだろうな。」
根尾が受け取った画像に写っていた人物の内、男二人は八社女ともう一人、甲の秘書で皇道保守黨青年部長、推城朔馬であった。
二人とも見た目うら若く、しかも滅多に表に出てこないので、説明が無ければ彼らが政治の有力者と叛逆者の首魁に連なる人物だとはわからなかっただろう。
「そしてお前が俺を殺しにきたことで確信した! 残念ながら、仁志旗はお前たちにとって都合の悪いことを知り、手に掛けられたのだな!」
すでに大河は鼻まで石化し、ただその両目を見開くことしかできない。
「安心しろ。俺がお前を殺すことは無いし、寧ろお前を依頼人に殺されないよう守ってやる。俺と一悶着あって、その直後にお前が死んだという事になっては困るからな。丁度俺の術式は精神操作を上書きできるから、自殺させられることも無くなるだろう。電車を降りたら術式を解除してやる。そうすれば俺と会ったことも、今からする命令を除いて忘れる。」
根尾は大河の腕から手を放し、指を彼の額に当てた。
「甲と推城からなるべく離れろ。そいつらはお前を殺そうとする。わかったな?」
根尾の言葉が終わってすぐ、大河は完全に石となった。
それを確認した根尾は踵を返し、席に戻った。
⦿⦿
難しい顔をして席に着いた根尾を見て、白蘭は概ね察したらしかった。
「蓮君、駄目ですか?」
「残念ながらな。それと、俺もあいつに託されたデータを狙って殺されかけたよ。」
「じゃあ……。」
「確定だろう。縮地の術式があるのだから、さっさと俺達と合流すればいいものを……。」
溜息を吐く根尾と、俯いて拳を握る白蘭。
幼い頃の知己であるから、覚悟しているとは言っても全く平気でいられるわけがない。
「白蘭、まずはこの仕事を何としても全うするぞ。仁志旗は奴らの組織に潜入し、今回の拉致を内側から止めていたが力及ばず申し訳ないと謝っていた。そして俺達が迅速に彼らを救出できるよう可能な限り動いてくれてもいた。この件が無ければ、もしかすると内通も露見しなかったかもしれないのにだ。その遺志を、絶対に無駄にするわけにはいかん。」
「はい。」
二人は窓際の席で寝息を立てる魅琴の顔を見た。
「彼女の心労は我々の比ではないだろう。ここ一カ月、ずっと幼い時分よりの大切な友人を始めとする知り合いの消息が掴めなかったんだ。気が気でなかっただろうな。それこそ、自ら皇國に乗り込もうとする程に……。」
「そうですね。それがやっと救出の目途が立ったわけですから、漸く一息付けたといったところでしょうか……。」
「そうだな。しかし……。」
高速列車はトンネルに入り、大きく警笛を鳴らした。
根尾はそれが止むのを待って、言葉を続ける。
「例えば今の様に、電車に乗っていれば当然に起こりうる大きな音などでは、彼女が目を覚ますことは無い。だが、これが敵意や害意であれば、たとえほんの僅か、例えば蚊が刺そうとする程度でも目を覚まし、即座に臨戦態勢となるだろう。」
「そこまでですか?」
「そこまでだ。彼女は、そういう訓練を受けて育っている。それが麗真家の宿命なのだ……。」
根尾は一つ懸念していた。
魅琴が皇國に乗り込むついでに、己の宿命、麗真家のある因縁と決着を付けようとするのではないかという懸案が常にあった。
だが彼女は、あくまで岬守航達を救出するために動いていた。
決して物事の優先順位を見失ったりはしなかったのだ。
「逆に仁志旗にとって、この件は己の生存よりも優先順位が高かったのかもしれんな……。」
で、ある以上、自分は何としても生きて日本に帰らなければならない。
絶対に仁志旗が遺した情報を握り潰されるわけにはいかない。
仁志旗、お前の死は決して無駄にはしない。
この写真にはお前が死の間際にこれを遺すことを選ぶほどの重大な何かがあるのだろう。
必ずそれを解読し、お前の遺志に報いる。――根尾はそう自分に強く言い聞かせる。
そして彼が命を賭けても果たせなかった仕事を全て成し遂げるために、根尾はまず拉致された国民を拾うべく目的地に向けて気を引き締めた。
⦿⦿⦿
東北神幹線、烏都宮駅。
三人はここでローカル線に乗り換え、目的の宿へと向かう。
恐らく到着は夜になるだろう。
「眠ってしまうとは、不覚だったわ。」
魅琴は大きく伸びをした。
二時間半の乗車時間、疲れ切った人間が眠りに落ちるには十分であろう。
彼女のそれは、間違いなく精神的なものである。
肉体的な疲労を感じたことは生まれて以来一度も無かった。
それ故、意図せず眠りに落ちてしまったこと自体に彼女は少し驚いていた。
「大分、気が緩んでしまっているわね。やはり……。」
「いや、ほんの一時くらい、ほんの少しくらいは緩めていいんだぞ? 君は気を張り過ぎる癖があるようだ。」
そのために自分達がいる、と根尾は彼女に言い聞かせた。
「ええ、そうですね……。ありがとうございます。」
わかったかわかっていないのか、どっちつかずの生返事だった。
根尾は溜息を吐き、二人を乗り換えの駅まで先導する。
「おっと、大河に掛けた術式を解いてやらねばな。」
「何かあったんですか?」
魅琴ははっと目を見開いて気を張り詰める。
彼女は根尾が襲われたことを知らない。
「大したことじゃない。もう済んだことだから一々気にするな。」
根尾はそう言うと、指を鳴らした。
これで大河に掛けられた石化は解かれ、彼は自身に何が起きたか一切覚えがないまま、ただ根尾がした一つの命令だけを脳内に反響させるだろう。
そして、しばらくの間は生きていられるはずだ。
根尾はそう思っていた。
⦿⦿⦿
烏都宮駅を通り過ぎた神幹線の車内で、大河正煕は突然倒れた。
彼は客室ではなく通話室にいたため発見はやや遅れたが、それでも長時間放置されたわけではない。
応急処置は迅速に施された。
しかし、彼の症状の悪化は異常に早かった。
そして成す術無く、救急隊員が駆け付けた頃には亡くなっていた。
死因は小細胞肺癌の進行に伴う呼吸困難による窒息死であった。
それは、まるで生死のサイクルを一気に早回しされたかのような、急激な悪化だった。
のみならず、彼の死体は見る見るうちに腐敗が進行し、ボロボロに崩れ落ちてしまった。
『生きとし生けるものは悉く死という絶対の王の支配下に有る。時が満ちれば彼は全ての者を娶り、永遠の花嫁とするでしょう。それはとてもとても、夢より素敵なことだとは思わないかしら?』
どこかで女が笑っている。
終焉に向かう三千世界の運命を嘲笑うかのように。
それを自分だけが理の外から見下ろしているかのように。
『さあ、樂園は直ぐ傍よぉ……。』
どこかで女が笑いながら夢を見ている。
とてもとても悍ましい夢を。
三千世界を畢らせる夢を。
まだ誰も知らない夢を。
⦿⦿⦿
麗真魅琴、根尾弓矢、白蘭揚羽は龍乃神深花に指定された宿で一夜を明かす。
即日動いたにもかかわらず既に話は通っていた。
いつ航達が辿り着いても良いように、交代で起きて番をしながら彼らを待つ。
実際のところ、航達が動くのは翌日の七月四日なので、これは骨折り損となったが。
しかし、この時点でこの宿は航達の明確なゴール地点となった。
そして七月三日の夜は更け、愈々運命の日の朝を迎えようとしていた。
・大河 正煕
皇紀2620年(西暦1960年) 4月11日
身長:170糎
体重:57瓩
血液型:O
次回更新は、11月14日㈯




