6-5
日の暮れ。空が暗い紫色に染まり始める。
ダラムクスの大人たちは昼間に飲んだのにも関わらずさらに夜でも飲むつもりのようで、町中はがやがやとした声でにぎわっている。
ガスの言う通り、警備はほとんど置かれていなかった。置かれていたとしても、やる気のない銅級の冒険者だから簡単にすり抜けることができた。
ダラムクス南西の郊外、ビルギットの家までの道のり。ルベル自身はここに立ち寄ったことがあるが、ここまでどきどきしながら来たのは初めてだった。
悪いことをするのは慣れていたつもりだったが、「恐怖」の対象を相手に平常ではいられない。
……怖がってる? まさか。
滲み出る冷汗は、きっと暑いからだ。
そう自分に言い聞かせ、ビルギットなんて怖いわけがないと強引に自分に信じ込ませる。大丈夫、何も起こらない。ばれたとしても、大人たちに怒られるだけで終わりなのだから。
「ルベルっち、ちゃんと僕ちんを守ってくださいね」
「……」
ニタニタと笑いながらそういう彼に、ひしひしと怒りが募っていくのを感じるが、今、この状況においては心強い味方だ。我慢するしかなかった。
森を進み、抜けた先にあったのは、水平線。
橙色に燃える太陽が残した残光が、きらきら海に残っている。
「しー、あそこ」
「……あれが?」
彼らが見たのは、素朴な家。
ダラムクスにある家よりもこじんまりとしていて、ルベルはなんだか寂しい感じがした。ロボットなのだから、もう少し無機質な、それでいて冷たい家に住んでいると思っていたが、意外だった。
「窓から様子を見てみましょうよ」
「……分かった」
物音を立てないように、姿が見えないように、慎重に進み、壁に張り付くような形で彼らは窓を覗き込んだ。
――――目が合った。
ルベルは驚き、すぐさま隠れた。そして、あれが「目が合っているように見えた」のだと、数秒後に理解することができた。大きく息を吐いてから、不思議そうな顔をしているガスの方へ視線を向ける。
「何があったんですか?」
「別に、ちょっとびっくりしただけ」
目が合っているように見えた。その理由は、ビルギットが目を見開いて正面を見ていたからである。どこか一点に集中している目ではなく、どこも見ていない目。つまるところそれは、「焦点の分からない目」。
ルベルはどこからか湧いてくる寒気に身震いした。
「……何をやってるんですかねぇ」
ガスが目を細めながら窓を覗き込んだ。
よくもまぁ彼は堂々と見れるもんだ、とルベルは思う。命の欠片も何も感じない、ただの目。人形よりもたちが悪い。狂気と言わずしてなんと言う?
「右手にあるのは、カード?」
ビルギットは椅子に腰かけ、テーブルに置かれたカードに手をかざしていた。そこからは青白い光がぼんやりと漏れている。依然として視線は正面にあり、何をにらみつけるわけでもないのに見開いていた。
彼らにはその光景がいったい何なのかは分からなかったが、しかし、その「カード」がビルギットにとって大切なものであることを直感的に理解した。大切、というのは人間に対して使うそれとはニュアンスが少し違う。言ってしまえば大黒柱のような、機械の中枢をなす何かだと思ったのである。
ルベルはもう帰りたかった。仕返しも何もしなくていい。ただ、もう、あいつと関わりたくない。何か黒く悍ましい……虚無、それが辺りを包み込んでいるように感じるからだ。これ以上ここに居れば、自分が凍てついてしまいそうだった。
「あれ、ぶっ壊しましょうよ」
いつも気持ち悪いが、今日は特に気持ち悪い声で彼はそういった。
「でも、大事そう? に、持ってるから……」
「ロボットだから大切なものなんてないでしょうよ」
「で、でも」
「んんー? ここで引き返すのですか? 臆病ですねぇルベルっち」
「違う、そうじゃなくて」
「そうじゃなかったらなんでしょう? 僕ちん言いましたよね、ロボットだから大切なものなんてない。ロボットだから、大切なものかどうかも判別できないんですよ」
「……そう、だけど」
「……あ、あいつどっか行きましたよ? やるなら今のうちです」
「……」
ビルギットが奥の部屋に入っていったのを見て、ルベルの意見を待たずして、ガスは家の中に入った。ルベルも仕方なく家の中に上がり込む。
「……変なカードですねぇ。別に魔力がこもってるってわけじゃないし」
「ねぇ、やめようよ」
「うるさいです。静かにしないと、あなたが仮面をつけてる理由、バラしますよ?」
ルベルが次の言葉を発するまでにそんなに間は空かなかったのだが、彼女自身は自分が随分と黙り込んだように思えた。時が止まったような感覚。今彼が何を言ったのか、理解を拒んだのである。
「……!? し、知ったかだろ?」
「違いますよ、僕ちん、見ちゃったんです。ルベルっちが、いつもお弁当をたった一人で食べるのが気になって、こっそりつけてったら、まぁ、びっくりしました」
「……」
嫌な予感がした。
ただ、それを感じた時には、もう戻れないことも理解した。
「――――あんなに『汚い顔』、初めて見ましたよぉ」
「……」
「おや? 泣きますか? 泣いちゃいますか?」
「……」
ルベルは顔の傷が痛むのを感じた。
もうすでに塞がって全く痛くなかったのに、歪んでいる今の表情で皮が引っ張られているのか、焼けるような、切られるような、そんな痛みがする。
「みんなが知ったら、どう思いますかねぇ」
「……」
「ねぇ、バラされたくなかったら、これ、壊してみてくださいよ」
ガスがカードを手渡してきた。
そしてもう一言付け加えた。
「……あいつの目の前で、ね」
恐怖。
今度はビルギットに対してではなく、彼に対して。
「ねぇ、ルベルっち、僕ちんの奴隷になってよ。僕ちんの言うことを全部聞く代わりに、君の秘密は守ってあげます」
「……い、いや……」
「んんー?」
「……わ、分かった」
「じゃ、はじめのお願い。それを、あいつの目の前で破壊してください。そして帰るときに町の人にばれたら、僕ちんのせいではなくルベルっちが全責任を負うということで。僕ちんは脅されて、ここまで来た。おーけー?」
泣きそうになるが、皮膚が引っ張られて顔をゆがめることができない。
しゃくりあげる声を殺し、彼女はゆっくり頷いた。
「こんにちは。ホルガーさんに用ですか?」
無機質なその声の方を向けば、やはりあいつだった。奴が持つ銀の盆の上には、コーヒーカップが置いてある。既に冷め切っているようだ。誰が飲むのかは知らなかったが、そんなこと彼らにはどうでもよかった。
「ビ、ビルギットさん! こいつ、このカードを壊してやるって!」
ガスはルベルを指さしてそう言った。あたかも自分は善人であるかのように、ビルギットに対して振舞っているのである。直後にルベルの方を向いて、「やれ」と口だけを動かした。
やらなければ、自分がどうなってしまうか。
やったとしたら、自分がどうなってしまうか。
どうあがいても、逃げ道はない。ガスという人物に騙された自分を、深く憎んだ。
……あぁ、もう、最悪だ。
ルベルはそのカードを地面にたたきつけ、思いきり踏んだ。
――――ダン、ダン、とブーツの音が響いた。
足を上げれば、そこにはいくつもの亀裂が入ったカードがあった。
ビルギットはその光景を笑顔のまま見ていた。
だが、しばらくすると銀の盆が滑り落ち、耳障りな高い音ともにコーヒーカップが割れ、床には冷めてしまったコーヒーが飛び散った。尚も彼女は姿勢と表情とを崩さなかったが、しかしその瞳から何か、不気味な何かを二人は感じ取った。ルベルは腹の底を蠢く罪悪感と恐怖を、ガスは背筋をいやらしく撫でる悪寒を。
「……ッ」
ルベルは一目散にそこから逃げた。
「まてー!」というわざとらしいガスの声も、後ろから聞こえてくる。
そのあと、ルベルはビルギットがどうしたかは知らない。
ただ、ダラムクスに帰るまでの森の道は、ガスの気持ち悪い笑い声が木霊していた。