15-3
「いってきます、母さん」
その言葉は、二人の少年が別々の場所で同時に発したものだったが、色は全く異なっていた。その不協和音に気が付いた人間は遂に現れることなく、無情に、時は流れゆく。
一人は、エミーの病院の神、ルパート・ミラー。神と呼ばれるようになってから、早四年が過ぎていた。彼は十七歳になり、あの頃の貧弱な体とは正反対の、とても大柄な男になっていた。誰も気づいてやれはしなかったが、この彫刻のように整った美しい肉体は、あの父親から受け継いだもの。きっと彼がこの箱庭に閉じ込められていなければ、彼の人生には華やかな未来が待っていただろう。しかし、現状は灰色。職業訓練なども行われていたが、やはり激しい癇癪と自傷が目立つため、未だ自立できずにいた。
彼は、例の「ビン」に向かってそう言った。七年という月日は長いものであったが、それに鼻を近づけると未だにツンと腐臭がする。結局母さんは、彼に返事をしてやることはなかった。
もう一人は、クロード・マスネ。十四歳。つい最近、エミーの病院のスタッフとして働くことになった少年だ。まだまだ経験を積まねばならない新人である。ルパートとは対照的に、細く、白く、しなやかな四肢をしている。最近になってようやく低くなり始めたその掠れた声で、彼は母親に対して言ったのだ。
すると、溶け切った蠟燭のような声だったが、確かに、人、もとい生き物から発せられた音が返ってきた。
「ぃ……て……しゃ……い」
彼の母親の声だ。クロードと同じく栗色の髪をしているが、重力に逆らえず眠るばかりの、生命力の無い毛。そこにある氷のような青白い顔は、もう、彼女の命が短いことを暗喩していた。
末期ガンに侵された母親に治療を受けさせるため、そして、何よりも自分が暮らしていくため、クロードは住み込みでエミーの病院にて働くことにしたのだ。何の資格もない、教養もない、体力もない子供だったが、エミー(二代目)に対して、頭を地面にこすりつけるように頼み込み、今に至る。
あの老婆には、彼よりもずっと低くしわがれた声で「もう助からない」と言われてしまったが、それでも、それでも彼は諦められなかった。希望の光が毛ほどの細さしかなかったとしても、彼は盲目的に機械的にその光を求め続ける勇者である。…………否、少し違うかもしれない。少なくとも周りにはそう思われているが、少年は既に母が近いうちに死んでしまうことを理解していた。ただし、覚悟ができていなかった。せめて、その覚悟をする短い間だけでも――――。
彼は生唾を飲み込んだ。今日、彼はやっと座学での研修を終え、いよいよ実務を行うことになっていた。しかし、その内容が問題なのである。
「神」……そう呼ばれる少年、いや、男の世話を任された。噂によれば彼は酷く暴力家で、故に誰も近寄らず、厳重な部屋で監視されているらしい。クロードは彼とは正反対の性質を持っている。この細い手足でそんな仕事が務まるのか。学ぶことが少なく、すぐに現場に入れる障がい者介助の仕事を自ら志願したものは良いものの……。
勿論、実務経験が無いわけではなかった。何度か先輩とともに現場の手伝いをしたことがある。しかし、相手は子供や年寄りだった。力の弱い彼らなら、まだクロードでも怪我をしないようにサポートしたり、仮に癇癪を起こしたとしてもすぐに止められたが、今回ばかりは自信がどうしても湧いてこない。
三度、乾いた音が響いた。それ以外はとても静かな空間だった。
「神」の部屋は廊下のつきあたりにあって、元々この辺は物置だった場所だから、隣人はいない。冷気が足元を優しく満たし、高く設置された東側の窓から白い光が差し込んでいた。朝早い時間であるが、普通の労働者が働き始める時間にしては少しだけ遅い。クロードの意識ははっきりしている。はっきりしているからこそ、鼓動が早くなる。
「ルパートくん……起きてる?」
「……」
ガン、という音が中から聞こえた。同時、クロードの体がびくりとする。
扉が小さく軋みながら開き、中から痣だらけのその顔が覗いてきた。クロードは全身に鳥肌が立つ。気持ち悪いとかそういう意味ではなくて、単に「神」と呼ばれる青年を目の当たりにしたことに、彼は動揺を隠せないのだ。
「な、何の音……?」
「足ぶつけた……机に」
「そ、そうなんだ」
「……誰、お前」
「えっと……えっと、僕はクロード・マスネ。今日から君のお手伝いをすることになってる……んだけど……」
「……だけど?」
「あっ、いや、なんでもないよ、うん」
沈黙。とある初春の穏やかな日。南から帰ってきた渡り鳥が、高い声でたまに鳴く声だけが聞こえる。
クロードはルパートの顔をじっくりと見た。何度も何度も殴ったであろう赤黒い痣がたくさんある。少し猫背気味なせいか、彼の眼は鋭い三白眼で、自分なんか一撃でやられてしまいそうな気迫を感じる。怒らせてはいけない、下手なことを言ってはいけない……もしそうでなくとも、この爆弾はいつ爆発するか分からない。恐ろしい生き物。
「なんさい?」
「えっと、十四歳」
世話係が自分よりも年下なことにルパートは少しだけ首をかしげたが、そんなに大した問題ではないと再び不気味な無表情になった。
「ま、まずは、君のお部屋を見せてね。それから一緒に朝ごはんに行こう」
「……」
「……」
ぎこちない微笑を口に含みながら、クロードはそう言ってみた。しかし、ルパートは一ミリメートルも動かずにじっとしている。しばらく沈黙が続き、そろそろ微笑も限界だという頃にやっと、ルパートはこう答えた。
「……だれと?」
「誰と……って? そりゃあ、みんなと……」
クロードは思い出した。そういえば彼だけは別で朝食をとっているのだと。緊張といつもの癖のせいでそう言ってしまったことに、肝をひやりとした悪寒が襲った。
「ああいや、ちっ、違うんだよ……? そういうわけじゃなくてさ……えと、たまにはみんなと一緒に食べない?」
「食べない」
今度は即答。そして、ルパートはその扉をバタンと閉めてしまった。消え入りそうなクロードの、あっ、という声がその音にかき消された。