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ルパート・ミラーは十歳(現在から約十年前)のときにエミーの病院にて保護された。両親の死亡から約一か月後のことであった。母親の仕事の同僚が、職場にやってこない彼女の身を案じて訪問した結果の出来事だ。ルパートはすっかり瘦せ細り、何が入っているのか分からない黒いビンを抱きしめながら眠っていたらしい。死体は腐乱し、暫くの間、彼の家族は悪臭と羽虫であったようだ。
当時の「エミーの病院」は、二代目エミーが経営しており、現在三代目が運営しているものより遥かに小さな施設(約16,000平米:日本国における小学校の平均敷地と同じくらい)である。このとき、三代目エミーは五歳、クロード・マスネは七歳であり、二人はまだお互いの顔も名前も知らない。ちなみに、既に三代目エミーは医学に関する修業を始めており、その小さな手でも盲腸くらいの手術はできるようになっていた。
ルパートはここで初めて、「自閉症スペクトラム障害」と診断される。もっとも大きな理由は「ビン」に対する異常な執着心だった。彼が唯一家から持ってきた黒いビンは、中身が何かは周囲に分からなかったが、彼はひたすらそれを手放そうとしなかった。誰かがそれを調べようと彼から奪えば、すぐに癇癪を起こし、顔を真っ赤にして泣き叫んだ。一日中ビンを眺めている日もあり、そんな日は食事の時間になってもそれを止めようとはしなかった。
他にも数人の知的障がいの子どもたちがこの病院には入院しており、彼らは一般の子よりもゆっくりとしたスピードで読み書きや四則演算の授業を受けていた。ルパートは読み書きこそは上手であったが、数字には弱かった。数字がだんだんと顔に見えてくるから、全然集中できない。集中できないならビンを眺めている方が有意義であった。そんな彼についた渾名は「ビンヤロー」。語学の成績は良かったものの、話したり反応したりが苦手な彼は、かなり最初の段階から周囲の子供たちから「異物」として見られていた。
だが、このときはまだ、彼は温厚な性格であり、癇癪の中に暴力が現れることはなかった。彼を変えることになってしまった一番のきっかけ、それは――――。
授業には、もう一つ大事な要素がある。それは、体を使った遊びである運動。知的障がいの子どもたちは運動が苦手であることが多いのだが、その中でもルパートは特段下手であった。健康な大人が見れば、何も問題がない環境のように思える。これが、子どもにとってどれほど大きな意味を持つのか、理解できる大人は少ない。
知的障がいの子どもたちの大きな特徴、それは「劣等感」である。彼らは勉学こそは理解できないものの、「自分がダメな奴」であるとはっきり理解している。ここで、彼らが本当にダメな奴であるかどうかは関係ない。そう思い込んでいる、そこが重要なのである。
運動は勝ち負けが分かりやすい。「勝つ」という現象が、劣等感に苛まれる彼らに何をもたらすか?
教育者は気を付けなければならない。「自信」と「傲慢」の違いに。
……残念ながら、ルパートの周りの人間に育ったのは後者の方であった。
「ビンヤロー! お前本当にヘタクソだな!」
「お前がこのボール片付けろ!」
入院から半年後には、ルパートの体は痣だらけになっていた。理由は、ともだちに力任せに投げつけられるボールや石だ。そう、ルパートはここでも、ここでさえも、虐げられるようになってしまったのだ。彼は何も言わなかった。ただ黙って、その暴力を受け取った。
ここの子どもたちに痣ができるのは珍しいことではない。無意味に手を打ち付けたり、転んだり、痛みを言い出せなかったりするから、ルパートの世話をしていた職員も特別心配することはなかった。しかし、表面に現れないだけで、彼の心境には大きな変化が訪れていた。
――――強い奴が正義だ。
ビンにいろいろな虫を詰めると、仲良くできずに殺し合う。これはずっと前から知っていたことだ。弱い奴は死ぬ。強い奴が生きる。実にシンプルな自然現象が、その箱庭で繰り広げられる。彼は気が付いてしまった。この戦いは、殺し合いは、ビンの中だけではない。ここでも起こっている。そして自分は、攻撃手段を持たない蝶である。鳥に見つかりやすい蝶である。あまりにも弱い存在である……と。
このころから、彼の癇癪には自傷行為が目立つようになった。噴火する怒りを、怒りに震える肉体を、肉体にぶつけて抑えなければ、爆発してしまいそうだった。だが、健気なことに、彼はまだその暴力を誰かに向けることはなかった。暴力を振るうことは悪いこと、そう教えられてきたからだ。だから、自分が悪いのだと、自分が悪いのだと、彼は、その無限の暗闇の中へ足を踏み入れ始めてしまった。
決定的な転機は三年後に訪れる。
――――その日は、穏やかな日だった。
まだ日の高い時間の出来事だった。いつもいじめてくる少年たちが、今日は外に遊びに来なかった。だから、ルパートは昔のように、虫や石や花を眺めて、触って、集めた。だけれど、寂しかった。ここに話を聞いてくれる母親はいない。どれだけ奇麗なモノを見つけても、それが美しいと共感してくれる人間はいない。
そうだ、母さんに会いに行こう。彼はそう思った。母さんはあのビンの中で、今も父さんたちと仲良くしているはずだから。目も見えなくて、喋ることもできないけれど、きっと、分かってくれるはずだ。
乾いた森の香りが吹き抜ける、春の終わりの日。踏みしめる土の音はいつもよりも軽快なリズムを奏でて、彼の後を追いかけた。心地の良い暖かさ。太陽が高い所から見守っている。彼はその手に一輪の花を持って、自分の部屋へと駆け出した。
子どもたちは基本大部屋で過ごすが、ある程度の精神成長を認められれば部屋が与えられることもある。もちろん一人部屋ではないのだが、当時彼には四人部屋が与えられ、彼一人だけの世界がそこにはあった。
だが、何やら騒ぎが起こっている。誰かが悲鳴にも似た大きな声で泣いている。自分の部屋からだ。彼は走った。何か嫌な予感がしたからだ。確か、両親が死んだ日も、こんな……こんな感じがした。
部屋に入って初めて感じたのは、生臭さ。何度も嗅いだことのある臭い。ビンを開けると大抵その匂いがした。しかし、それよりももっと、何か、錆びた鉄の臭いがした。
いじめっ子が三人、その場にいた。彼らは、ルパートのビン――――「母さんのビン」を持っていた。
――――割れている。
床に散らばっているのは、どうやら、中身のようだ。
何を入れたか、ルパートはよく覚えていない。とりあえず、切り取れそうなところを切り取って詰め込んだから。目と、耳と、指と……あともう少し入れた気がする。それらが、文字通り血塗られたビンの中で少しずつ腐っていたみたいだ。とても臭い。臭いはここから漂っていたようだ。
「おいっ、ビンヤロー! お前っ、これなんだよ……!?」
「……に」
「……おい!! 聞いてんのかよ!???」
「……母さんに」
「――――触れるな」
瞬間、一同が感じたのは、蛇のような捕食者の覇気。その一瞬の硬直の隙に、ルパートの拳が、始めに口を開いた少年の鳩尾に食い込む。鈍い音がした。彼はその一撃で数メートルほど飛び上がり、地に伏し、床にさっきの昼食をぶちまけた。
ルパートの父親が、彼に唯一教えたのは、暴力的な体術。人間の体を壊すことに特化した、自分の力を最大限相手に遠慮なしにぶつける、ただそれだけの技。彼はその技術を身をもって学んでいた。本人は気が付いていなかったが。
そのあとはよく覚えていない。ルパートは、ただただ滅茶苦茶に我武者羅に一心不乱に、その暴力的癇癪を、彼らにぶつけた。騒ぎを聞きつけて駆けつけた職員数名に取り押さえられて彼はようやくおとなしくなった。
彼にはもう一度精神鑑定が行われ、一人部屋と、厳重な教育体制がなされることに。そして、周囲の子どもたちは、ルパートにやられた三人を見て、彼を、「神」だと言い表すようになった。誰がそういい始めたのかは分からない。彼の暴力を振るう様が、神が宿ったように見えたからだろうか。それとも悪魔が宿ったように見えたが、自分が襲われることを避けて神と呼ぶことにしたのか。兎にも角にも、彼は孤立した。同時に、平穏を手に入れた。
彼は、箱庭の神となった。