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そのチェチーリアの言葉を合図に、ディートリントは巨人の拳をギルバードに振り下ろす。
突然暗くなった空に、ただでさえ気を失いそうになるくらいパニック状態のイブは絶句する。ギルバードは既に気絶していて、誰も頼れないこの状況。数十秒以内に解決する方法を見つけなければ、自分もろともゲームオーバー。
ガチガチガチガチ……とイブの歯が震え始める。いや、彼女自身が震えている。壊れたモーターのように。ルビーのような瞳はぐるりと上を向き、外界へ見えている部分は真っ白。顔はだんだん青ざめ、遂には泡を吹いて倒れてしまった。
ところが、巨人が殴ったのはただの地面であった。チェチーリア、ディートリント、パウルの三人が見たのは、倒れた直後に起き上がり、ギルバードを抱えて再び「跳躍」をするイブ。しかし、先程とは違って何か様子がおかしい。着地後も次々と地面を蹴りながら、こちらから距離を取っていくのだ。
チェチーリアは再び雷を呼び、彼女を追う。パウルも遅れて憤怒神を発動させ、彼女の後に続く。ディートリントは追撃の用意をした。
チェチーリアの斬撃。
それは、ただの閃光にすら見える芸術。彼女はこれに「断罪バサミ」という名前を付けていた。いつもならば叫びながら行うのだが、今は真剣かつ不機嫌なため、無言。文字通り二つの方向からおぞましい速さのそれが、イブもろともギルバードを両断したはずであった。
しかし、イブは器用に体をくねらせ、それを躱していた。チェチーリアはそれに驚かず、次なる連撃を仕掛ける。ビルギットを追い詰めた時と同じように、しかしそれよりも速く、四方八方からの乱打を浴びせた。遠くから見れば、水晶玉を太陽に透かしたときのように見えただろう。
だが、イブたちにダメージはなかった。
チェチーリアは信じられない光景を目の当たりにした。イブがギルバードを僅か後ろに投げたかと思うと、自分の剣の腹を指先で軽く押し始めた。精密かつ正確な動き。力の「線」に反さないような押され方であったため、剣の軌道はイブたちの胴体をすり抜けることはついにあり得なかった。自由落下する二人を追い詰めるように攻撃を続けるが、最後の最後、地面にぶつかるという瞬間に、攻撃の範囲から脱出されてしまったのである。
イブは、恐ろしい表情をしていた。血のように紅い瞳が、自分を釘で打ち付けるかのようににらみつけていたのだ。
パウルの追撃。しかし同様に受け流されている。そういえば、彼に宿っている神霊種は、憤怒神という名であった。だが、今、イブに宿っている「怒り」はそれを遥かに超越している。いや、もちろん魔力量ではこちらの方が上であったのだが、チェチーリアは何か圧倒的な差を感じてならなかった。
一体彼女はどうしてしまったのか? それは、彼女が解離性同一性障害であることに起因する。彼女には、三つの人格がある。
一つ、臆病かつ愚鈍な「主人格」。
一つ、冷静かつ沈着な「諜報員」。
一つ、憤激かつ不敵な「狂戦士」。
今は三つ目の人格。強いストレスや激しい怒りを覚えたときに現れるもので、六年前にレイスをボコボコにしたのもこの人格だ。レイスが自由に出し入れできるのは「諜報員」のみであり、なかなか扱いが難しい人格でもある。文字通り狂戦士になり、チェチーリアの速さに生身で対抗できるくらいの恐ろしい戦闘スキルを引き出す。
激痛。
イブとギルバードを追っていた三人に、それは同時に走った。その理由は、地面から突如として生えてきた「透明な槍」が胴を貫いたことにある。もがけばもがくほど槍の形は簡単に崩れ、破片は自分たちの体内へと大量に残ってしまった……つまり、動けば体内に残った破片がそこら中を切り裂く。
ジェラルド・オドンネル。レイス直属部下の一人であり、「金剛」の特殊魔力を持つ竜人。どうやら彼が一番乗りでここに来たようだ。彼は、攻撃が三人に命中したのを確認するや否やくるりと振り向くと、今度は後方に「壁」を作り出した。やはり美しい透明であり、太陽の光が分散して地面には七色の光が伸びていた。
次の瞬間に、ゴッ! と何かがその壁にぶつかった。蟷螂の騎士である。亜人より顕著にその形質が表れており、彼の腕が変形した真っ黒の鎌が、今の音を鳴らしたようであった。
チェチーリア達三人は、ジェラルドの対策をコンマ数秒だけ考えたが、奴がいるならば大丈夫だろうと、イブの相手に専念することを決めた。体に残った破片は確かに痛かったのだが、脳内麻薬ドバドバの状態ならば無理に動かすことも可能。体内を裂かれる痛みを押しつぶし、逃げるイブにさらなる追撃を。
戦いは加速し、加熱する。
「パウル、あの技をイブに撃てねぇのか!?」
再びイブを追いながら、チェチーリアは聞いた。
「できたらもうやってるっつーの。あんなに速く動かれたらハズす確率のがでかい。流石に何発も打てるほどの魔力はない! 身体強化ももうあんま長くはもたねぇし」
「ヘタレ野郎」
「ゴリラと一緒にすんじゃねぇよ! てめぇがその電気で何とかしてみろ!」
「通っているはずなのに効かねンだよ!」
「……?」
イブに魔法の才能はないが、戦いの才能はあった。通常、チェチーリアの剣には触れることすら許されないくらい強い電圧がかかっている。だが、直接触れなければ話は別。実は、先程の空中戦の時、彼女は極小の重力魔法で剣との距離を3cmほど取っていた。それを行ったのは、別に電気の知識があるからではなくて単に野生の勘であったのだが、結果的に功を奏していた。
だが、完全に効いていないかと言えばそうではない。ギルバードを抱える彼女の腕はひどく硬直し、限界まで力を引き出された体もあと少しで壊れてしまいそうだった。
イブへの攻撃までの刹那、続々と役者が揃い始めた。チェチーリアは数えるのが面倒だったから詳しく確認はしなかったが、どうやらこちらの神霊種騎士は全員到着。そうでないノーマルな騎士たちも数人いるようだ。彼らが追いかけてきたのは、合計で五百人ほどのヴァンクール兵たち。アンザール城前はだんだんと坩堝と化していた。
そんな中で追撃をしようとしても、同然防がれる。逃げるイブを庇ったのは、炎々とする魔法を使う狐の男。先程、パウルが「ギルバードの下位互換」と侮蔑した奴だ。肉体派のギルバードとは打って変わって、遠距離で膨大な炎を操ってくるタイプであり、接近型のチェチーリアとパウルは一瞬だけ戸惑った。
その一瞬が戦場では命取りである。先に作戦を聞いていた、主に遠距離攻撃を得意とするヴァンクール兵が、一斉に二人を射撃した。彼らに襲い掛かるのは、七色にも見える様々な属性の魔法。
実はこの作戦、全てではないが、その他の神霊種騎士にも行われていた。
動乱、波乱、混戦、乱闘……ぐちゃぐちゃに戦士たちが剣を交わしている。思想を叫ぶ暇もないハイスピードな死闘。刹那のひらめきと油断が勝敗を分ける激闘。正義と正義がぶつかり合う戦争。
その先に何があるのか分からないまま、がむしゃらに、ヴァンクール兵は、強大な力を持つ神霊種の騎士に攻撃を仕掛けた。
「うそだろ……」
炎を扱う狐は、小さく呟いた。
あれだけ膨大な量の攻撃を受けたにもかかわらず、チェチーリアとパウルが生きていたからだ。いや、彼らだけではない。その他の奴らも、全員奇麗なまま生き残っている。謎の風船のようなバリアに包まれて……。
悪夢の騎士、そして死の騎士の能力だった。
前者は、魔力を消費して、様々な奇々怪々なモンスターを生み出すことができる。能力も知能もランダム性が高いのでなかなか操るのは難しいのだが、一度出したら引っ込めることもできるので、リセマラが可能。今回引いたのは、魔法に対する防御結界を作ってくれる、おまけに知能が高くて従順な怪物。まるですべてを癒してくれそうな女神のような形をしているが、人間らしい凹凸がいくつかけていて、のっぺりしている。
後者は、対象を視界に入れただけで魔力を奪うことができる。吸収量は本人の容量に依存するが、高火力高消費の魔法と合わせれば最強。今回彼が使ったのは回復魔法であり、ヴァンクール遠距離部隊の魔力を奪い、現在戦っている神霊種騎士の体力と魔力を復活させた。
「神」と戦っている。
その事実を、ヴァンクール兵は受け入れざるを得なかった。
魔力を回復できたディートリントの巨人が、その拳を大きく振りかぶる。辺りは影となり、彼らの心にもまた、同様に影を差した。一帯を薙ぎ払う。そうすればひとたまりもない。その絶望的な攻撃を避けられたとしても、高火力な稲妻や憤怒、蟷螂などの攻撃をかいくぐることはできない。ヴァンクールの負け筋が、確かに見えていた。
レイスは馬鹿であると、少ないとは言い切れぬ人数がそう思った。作戦があると聞かされて、煽られるままに来てみれば神の前に伏して死んでいくだけ。誇り高き正義も希望も、今ここで命を救ってはくれぬのだ。
「――――……動か、ない……?」
ディートリントはぼそりと呟いた。何か、魔力とは違う絶対的な力で……。