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いや、参上自体は既にしていたわけであるが、いよいよギルバードがやばくなってきたので、やっと行動に移したのだ。ギルバードの死に気を取られていたチェチーリアの首筋に咬みつき、バチバチと刺激的な血を飲んだ……実はこれが、彼女が血を飲んだ初めての経験である。
ボサボサの銀髪が逆立つと、チェチーリアの反撃を待たずして、彼女は跳んだ。恐ろしい跳躍であった。蚤、と表現したら蔑んでいるように聞こえるだろうが、しかしこの虫の脚力を侮ることはできない。人間大にすると、約250mほどの高さを一瞬で跳ぶのだ。
間一髪、ギルバードを救い出すことに成功。着地すると、彼女は恐怖のあまり腰を抜かしてしまった。
「ギギギギギルバードさああん、さん、さん、さんさんさんさん!! だいじょぶじょぶじょぶぶぶぶうう!!??」
「お前の方が大丈夫じゃねぇな……」
さっきまで死にかけていたギルバードよりも、呼吸が乱れていた。抱きかかえる腕から力が抜けていき、遂に彼女はへたり込む。
ギルバードは既に気が付いていた。状況は何も変わっていないと。確かに、イブの身体能力は目を引くものがあるが、今回は相手が悪すぎる。いくら血を飲んでドーピングしようが、チェチーリアらの圧倒的な力の前には無力であるのだ。どれだけ逃げようともすぐに追いつかれてしまう。先程の行動を分析するに、自分の命は相手にとってそこまで重要なものではない。確かにヴァンクールの重要人物であるのだが、人質にしようとして返り討ちにあうリスクがあるくらいなら殺してしまえ、相手はその程度の認識である。
結果として、余命が少し伸びただけ。
死なないように命乞いでもしてみるか? という考えが浮かぶくらいには、彼の体はもうどこも動かないのであった。
「んだぁ……? 痛ってえな」
イブの跳躍で、約200mの距離が開いていた。遠くに見える彼女らを眺めながら、チェチーリアは咬まれた首筋をさすっていた。
「イブ・ゲルシュターですね。六年前の吸血鬼掃討戦の生き残りです。現在はヴァンクールで諜報員をやっているとか。戦闘能力は無いと聞いていましたが……」
なるほど吸血鬼の牙は本物らしい、とディートリントは思った。
理由は、チェチーリアの首筋に空いた穴。彼女の肉体は基本傷つかない。自分が先ほど召喚したゴーレムで何とか打撲ができたり、ギルバードの高温の刃を目一杯食いこませてやっと火傷ができたりする程度なのだ。ところが、牙による穴が開き、血も出ている。相当な顎の力なのか、鋭さなのか。いずれにせよ、侮ることはできないだろうと結論付けた。
吸血鬼掃討戦という言葉を耳にしたチェチーリアは、少しだけ嫌な顔をした。無論、彼女も参加したものであるが、性質上気に食わぬのだろう。それは、裏で行われた国の闇業。移民である吸血鬼が人間と交わることができなかったために、近親交配などが進んだ結果、奇形や病気の個体が増加。それを人間に持ち込ませないようにするために行った……というのが、表向き(兵士たちにとって)の理由であり、障害児の数は全体の80%だと伝えられていた。だが、実はそういう障害が発生していたのは全体の約20%程(内6%が重度障害)であった。もちろん、人間と比べれば恐ろしく大きな数字であるのだが、だからと言って排除できるほどの理由にはならない。早い話、国は……というより国王イサークは、噓をついたのである。
ディートリントは、介護福祉及びそれに関連した医学と生物学の知識を少しだけ心得ていた。幼少期の想い人の足に障害があり、当時は医者になりたいと思っていたからだ。その知識と独自の調査とで、手前に示した情報を手に入れることができたのだが、ここで一つの疑問が浮かぶ。なぜ、彼は未だに騎士をやっているのか? 答えは簡単。王に忠誠を誓っているからだ。
「ああ、あのキチガイどもをぶっ殺したやつだろ!? 爽快だったなぁ」
そして、ここにバカが一人。
それなりにチェチーリアと仕事をしてきた割に、彼女のことをまるで何も分かっていない猫。虎であるディートリントには女心というものは何一つわからなかったが、しかし一つだけ、彼女について確信を得ているものがあった。
彼女は良い人である、と。
「……テメェ」
「チェチーリアさん、抑えてください。仲間割れしてる暇はありませんよ。我々の任務は、ギルバードを殺してでも戦闘不能にすることです」
「うるせえよ!!」
「ンだよ、急にでっけぇ声出すんじゃねえよ」
「今、テメェは許されないことを言った!!」
「あ? でっけぇ声出すなってやつか?」
「違え!!! ふざけんじゃねぇぞ!!」
「なになになに? そんなに怒ってどうしちゃったん?」
ああ、始まってしまった、とディートリントは思った。
しかし、残念ながら論理的にはパウルの方が正しい。チェチーリアのように、吸血鬼の隅々まで……もっと言えば、今まで生命税で犠牲になってきた人間たちの命まで尊重するならば、ここに居ることは矛盾している。今この場で「騎士」をやっているのは、自分のように王に忠誠を誓い続ける馬鹿か、パウルのように命に自己中心的な価値をつける悪人だけ。チェチーリアは前者に近いが、自分の中で確かな矛盾を抱えている。それが本人には、どうしたらいいのかがよく分かっていないのだ。
「え、え、え、もしかして、キチガイに情とか持ってる人? マジ? なんで騎士やってんの?」
「今はそういう話じゃねぇんだよ!!」
「いやいや、そういう話だよ。なんで騎士やってんのかって聞いてんだよ、コラ、メスゴリラ」
チェチーリアが思わず手を出しそうになるところで、パウルはさらに追い打ちをかける。
「今!! この場で!! 騎士やってる奴は!! キチガイ殺すのに!! 賛成の人間!! つまり!! お前は!! 俺と同類!! 俺と同じ思考!! どぅーゆーあんだすたん!??」
――――ゴスッ。
パウルの顎が殴られる、鈍い音。そのまま3mほど受け身も取れずに転がってしまう。彼女にしてはかなり抑えた方であるのだが、大の大人が毬のように転がる光景は恐ろしい。案の定、顎が外れてしまったらしく、パウルはしかめっ面で顎を元に戻すと、ガチガチと見せつけるように歯を嚙み合わせた。割れてなかっただけマシなのだろう。
「ほーら手が出た。バカはやっぱバカだな」
「命は……テメェが語っていいほど軽いもんじゃあねぇ」
「え? 僕じゃなくてチェチーリアさんならいいんですか? それは初耳だあ! 是非僕とチェチーリアさんの差異を詳しく教えてくださいよ」
「アタイがやってもいいなんて一言も言ってねぇ!」
「え? え? え? いやいや今おっしゃいましたよね? 『命はてめえが語っていいほど軽いものではない』と語りましたよね? おかしくないっすか?」
不毛。あまりにも不毛なやり取り。これに、ディートリントは焦りを感じ始めていた。ヴァンクールの人間が、こちらの神霊種戦士たちと戦いながら、じわじわとこちらに近づいてきているのである。きっとこれは偶然ではない。レイス・エクスダイアの指示であると断言できる。桁違いに大きな魔力を持った人間はいないが、全員集結されると少々厄介。特殊魔力持ちが多いから、手が読めずに、巧妙に逃げられる可能性がぐっと出てくる。
それに……既に三つ、神霊種の魔力が消えた。先代三銃士たちであり、レイスと対決することになっていたが、やられてしまった可能性が高い。それほどまで高火力を出せる人間がいたのか、それとも対策法を見つけられてしまったのか。
チェチーリアは、暫時、黙った。何かを言いたげな表情をして、しかし何も言えずに、地面とパウルを何度か交互に見た。感情を乱していたが、その様子は厳かであった。確かな強者。しかし不確かな信念。彼女は、今の時間で考えた答えを口に出した。
「……もし、テメェ言うように、騎士がはっきりきっぱりした人間だったなら、こんなにクソみてえな状況になってねぇんだよ」