11.5 「霜天の誓い」
ルルンタースの、雪のように白い鼻から、苺をすりつぶしたような血が流れ落ちた。ノイズだらけの頭は、彼女の体を支えることはできず、そのまま地に伏そうとする。
一閃、何かが強く輝いた。
朦朧とする意識の中で微かに感じたのは、エミーの体温。どうやら自分は抱きかかえられているようだ。ということは、どうやら成功したらしい。その安心感と、自分の底から湧き上がってくる嫌悪感と虚無感と罪悪感で、ただでさえ白い肌は蒼白する。息がまともに吸えない。とても冷たいはずの霜天の空気が、熱くて沸騰しているようにさえ思えた。
「フフフ、流石なのさ。ウォルンタース」
もう一人、エミーに抱きかかえられた人間がいた。いや、人間と呼ぶにはあまりにも強すぎるのだが、しかし今は無防備にも寝ていて、彼女に命を握られているに等しい状態にある。その名を、混沌邪神龍ディアケイレス。彼女にとって最大にして最強の敵。
エミーは感じる。この少女から、人ならざるモノの力を。どこまでも深い海のような、どこまでも高い空のような、果てしない魔力。いや、海や空で形容はできまい。小さすぎるからだ。無限大、そう言っても過言ではないほどの、莫大で甚大で膨大な魔力。思わず身震いをした。恐ろしさと、圧倒的な勝利の愉悦に。
勝った。エミーは確信した。
もう一人、ヴァンクール側には強敵がいる。「太陽の魔力」とやらを持つギルバードだが、ディアケイレスに比べれば蟻も同然。それに、用意した兵隊たちでも十分に戦えるレベル。念のため、「三銃士」とか呼ばれているトップ三人を送り込んでおいたから、もうそろそろ決着がつくだろう。
ディアが消えたことに、周囲の仲間たちは困惑を示しているようだった。勘のいい奴らだ。ほんの一瞬だけ現れた魔力に気付き、ディアが「奪われた」と確信できるのだから。しかし、肝心の場所までは特定できていない。それもそのはず、今ここは上空600m地点。我々は空の塵にしか見えないであろう……と思ったが、エミーはさらに高度を上げておくことにした。亜人の目を侮ってはいけない。
ルルンタースの能力、それは、レンと同じ「識絶」。意識を絶つと書くこの能力は、意識の切断・結合、意識の世界への介入、記憶の入力・出力など、対象の意識を操ることができる。能力の発動には主に三つの方法があり、後半の番号ほど燃費が良い。
①見る
②触れる
③体液の交換
対象の魔力や精神力によっても使う体力の量は変化するが、彼女自身にはその辺の関係が良く分かっていない。また、③では「体液」と記したが、彼女は唾液以外試したことがない。
今、ディアケイレスには、「見て、意識を切断」した。意識の切断は、能力の中でも最も単純であり、「見る」という方法を選択しても、対象が凡人ならばほぼ無限に行うことができるのだが、ディアほどの者になると、活力を全てつぎ込んで倒れ込むほどでなければ切断できない。極太の鉄線を、ペーパーナイフで切るようなもの。それでも切れるだけ、恐ろしい能力であると言える。圧倒的な力を持った存在を、無力化できてしまうのだから。
「キミがまさか、モトユキを裏切るなんて……何があったのさ?」
上空でルルの鼻に綿を突っ込みながら、エミーは問う。彼女が相当疲弊しており、問答がままならないことは承知していた。故に、無理に答えが聞きたいわけではない。けれど、何故か聞かずにはいられなかったのだ。
見たところ自分と同い年くらいだったが、振る舞いは三歳くらいの幼児。モトユキにクロードの話をした時だけ、何か覚醒したように賢くなっていたが、あれからこの少女は自分に甘えるばかり。忠誠を示した騎士というよりは、屈服した犬。しかし、その中に確かに「慈悲」も感じていたのだ。
彼女は人の心が読める。そして、自分の心はどこまでもドス黒い。自分勝手なルールを押し付けている事なんて、自分でも分かっている。そして、それは「若気の至り」という言葉では済まされない行為。命の価値を偏見で決めつけ、苦しめてから殺している。何故、こんなどうしようもない事実を知りながら、自分についてきてくれるのか。
敬意。
小さく息をする、雪の精霊に、その魔法使いは最大の敬意を抱いていた。いや、魔法使いという言葉など恐れ多い。ただの殺人鬼。快楽殺人鬼。享楽主義者。サイコパス。
「……」
ルルは気絶していた。
ここは寒い。エミーは、上空に魔法で温室を作った。回復と攻撃魔法以外を使ったのは久しぶりだから、感覚が鈍い。それでも、中に入れば、きゅっと張り詰めた肌の細胞が解けていくような、暖かな感覚が包み込んでくれる。
「フフ、フフフフフ……」
悪役は悪役らしく、勝利の笑みをこぼすのだ。既に敵の切り札はこちらの手に移った。もう奴らは動けまい。勝利だ。圧倒的勝利だ。どうしようもないほどこちらの方が優勢だ。
なのに、どうしてか、悔しいのだ。
どうしようもなく悔しいのだ。
心に大きな穴が開いてしまっている。そこから、冬の凍てつく風が、ひゅうと通り抜ける音が聞こえる。どんどん空は明るくなるのに、暗くなっている。真っ暗だ。どうしようもなく真っ暗だ。どこまでもどこまでも真っ暗な闇だ。
「アハ、ハハハハハ……ハハハハ!」
笑っても笑っても、満たされることない「何か」。
もう、後戻りはできない。