11-4
「……」
「痛ったぁ……そりゃないっしょ、マジムカつくっしょ」
すぐに意識を取り戻したヘンリエッテとアーネ。レイスはすぐに距離を置き、どちらかというと守りに徹した構えをとっていた。相手を観察しなければ即死する危険もあったためだ。
「あーイライラしてきた。ふつー躊躇なしに頭を撃つかなぁ!? ありえないっしょ。そんなんで騎士名乗ってんのムカつくっしょ」
「……」
ヘンリエッテは、自分の腹部から湧き出た「蝶」に自分で驚いているようだ。ということは、これは彼女自身も知らない能力だということが分かる。かといって油断はできるものではないけれど。どうやら適合手術を受けた人間は、普通の致命傷程度では死なないらしい。
アーネは怒りのままに矢を幾本も射る。「花弁」がひらりとその周囲を覆い、先ほどよりも威力が数倍増したようであった。だが、その矢はどこを狙っているのか、誰もいない地面へ。そこからは急速に「花」が芽を伸ばし始め、レイスを追い詰めんと蠢いている。
「ッチ、ちょこまかと……」
「……?」
ヘンリエッテはそんなアーネの様子を不思議に思った。何故なら、レイスは先程から一歩も動いていないからだ。つまるところ、アーネは誰もいない虚無へ苛立っているのである。彼女が作り出した「花」も、何を狙っているのか分からない。それは滑稽にも見える光景。
「おい、指摘しなくていいのか?」
「……構いませんよ。ああなってしまったアーネさんは、正直、戦闘において足を引っ張るだけですから。私一人でお相手いたします」
「そうか」
レイスの能力、というより工夫して編み出された技は、水の屈折原理を用いた分身に魔力を含ませて「影分身」を作り出すもの。もっとうまくやれば、レイスの部下たちのテクスチャにすることも可能である。先のディアケイレス戦でも行ったように、「真実」の特殊魔力と合わせれば、本物のそれと同じような動きをさせることもできる。ジャンピエロとアーネはこれに踊らされているのだ。
このすべてではないが、今の一瞬の間に、ヘンリエッテは能力の概要に気付いていた。当たり判定を自由に操ることができるようなので、物理タイプの自分たちにとってはかなり不利な相手。どう切り抜けたものかとほんの少しだけ考えたのち、彼女は初めから決まっていた答えを採用した。
ぶわわわああ……。
彼女の腹部の傷から、おぞましいほど大量の「蟲」が出てきた。主に蜚蠊と百足、蜘蛛である。実際の生態系には存在しない、魔力によって作られた生命体。ダンジョンには人工生命体が「魔物」として存在することから、これらも「魔物」と呼べるのかもしれない。
これらは全て、1g以下が致死量の猛毒を持っている。無論、簡単に毒を打ち込める相手ではないのだが、その毒の仕組みに工夫を凝らした。魔力の融解……レイスの影分身が魔力を核とするものであるのは確かであるから、魔力を強制的に事象に変換してしまうような毒を作り出せば、影分身にも有効なものとなる。
「気持ち悪ぃな、おい」
「……」
蟲神ナシトマ、それが彼女の体に植え付けられた神霊種の名。あらゆる蟲を司るとされている神であり、見た目は美しくないものの、幅広い用途で扱える。こと戦闘においては、一対多の場合にその本領を発揮する。敵本拠地に送られたのはそういう面もあるのだが、どうやら今回はレイスが図らずも一対一に持ってきたらしい。もし仮に、部下たちと一緒に戦う選択を彼がしていたのなら、今頃は蟲を忍ばせて人質を取りゲームセットなのだが、なるほど運の良い男だ。
彼女は、まだ遠隔操作が上手くできない。元々リーチが短い拳での戦闘を主としていたため、感覚が上手くつかめずに、蟲を近くに置いての攻撃に落ち着いたのだ。それでも十分強かったのだが。
無数の蟲の突進。レイスは全身を駆け抜けようとする鳥肌を抑え、一つ一つを捌き切ることに集中する。剣と銃の攻撃は多数の敵には向いていないものの、彼自身の技術と「真実」によって、確実に蟲の核を破壊していく。決して動きは派手ではない。だが、その精密な動きは美しささえも感じさせた。
ヘンリエッテは蟲に紛れて攻撃を仕掛ける。無論、毒殺も考えてはいるが、どちらかと言えばこういう不意打ちの方がメインウェポンであったりもする。ただの拳ではない。その蜥蜴の鱗の腕からは、無数の「棘」が生えていた。蜂や蠍の毒針である。一撃食らわせれば勝利できる、恐怖の拳。
しかし、その拳は空を突くばかりであった。レイスが、まるで未来が見えているかのように動き続けるのだ。いや、実際に見えている。彼の特殊魔力は、そういう能力である。将棋で相手が逃げ回るように、完全に詰まさねば捉えることはできない。蟲の数が多くなればなるほど詰ませる確率は高くなるはずなのだが、彼の動きは針に糸を通すように精密。
ヘンリエッテの拳が決して遅いわけではない。そういう戦法を取る者たちの中ではかなり速い方である。リンゴが目の前にあって拳で潰すとき、凡人には、彼女が直立不動のまま勝手にリンゴが潰れたように見えるだろう。そのくらい高速なのだ。
ビュウウウウ、と風を切る鋭い音、そして蟲たちの気色悪い羽音。
聴衆は震えていた。それは恐怖でもあり高揚でもあり驚愕でもある。素人目に見ても、王国騎士が圧倒するはずだと確信していた。レイスを応援していた手前そんなことは言い出せなかったのだが、やはり、ジャンピエロの高濃度の酸、アーネの高速で多数の矢、ヘンリエッテの無数の蟲と鋼の拳の前には、どんな人間でも耐えられるはずがない。
なのに、それなのに。
ヘンリエッテの拳が空を突きに突き、千二百回。時間にして三十秒。全てレイスに致命傷を与えるべく放った拳、当たれば間違いなく殺せる拳、だが当たらない。フィジカルでは遥か上回っているはずの自分の拳が、ただの一般人ほどの筋力しかない男の体に当たらない。
周囲に響く音は、いつしか台風のそれに近しいものになっていた。
当たらない!
当たらない!
当たらない!
当たらないッ……!!
「なんなんですか……貴方はっ!?」
「もうちょっと考えて打てよ、メス蜥蜴。ジェラルドの方がまだ俺を追い詰められるぜ」
「……!??」
ヘンリエッテはレイスを確実に捉えているはずだったのだ。それが数百回はあった。しかし、拳をぶつけた瞬間に消える。蟲は確実に刺せる位置に居たはずだ。レイスの分身ならば、すぐさま魔力が解けてただの水になる! レイス本体ならば、すぐさま死に至る! そのどちらでもない。
彼女は思った。
ありえない、神霊種を味方にしている私だぞ。この無数の檻の中で、どうしてそこまで躱せる? どうしてこいつの体力は尽きないんだ? なぜ、こいつは息を一つも乱さないで居られるんだ!?
拳と蟲のノイズの中に、彼女の荒い息の音が混ざり始めた。