5-3
エミーはその魔女帽をゆっくりと外した。
ぷるぷると音を立てて現れたのは、猫の耳。そう、紛れもない猫の耳。ここら辺では特に珍しくない、猫人と呼ばれる種族だ。よく見れば、瞳孔が、ディアと似た「スリット状」になっている。彼女が獣人であったことに驚いたが、特にそれまでだった。
机の上に広げられたチェス盤は、俺が元の世界で見たものと全く同じもの。駒もしっかりと造られている。元の世界で一番オーソドックスだった、白と黒のカラーリングであり、俺の手前には白の駒が並べられた。即ち、先手を譲ってくれるということだろう。
ルルに肩をたたかれた。例のごとく振り向いても何も言わなかったが、どうやら「助けようか?」と聞いているようだった。「いや、いいよ」と小さく答えて、俺は再びエミーの方を向いた。どうせ思考が読めたところで、勝てるわけが無かったし。
俺のチェス経験は、ただルールを知っているくらいだ。仕事仲間にボードゲームが趣味な奴がいて、そいつによく「奢るから」と相手を頼まれた。弱い俺なんかと勝負したって面白くないはずなのだが、なぜか俺がいつも誘われた。一度も勝てたことはない。そもそも俺はボードゲームが苦手だ、というか対人ゲームが苦手だ。やはりここでも、「競争したくない」という心理が働いてしまうから。単純に頭が悪いってのもあるがな。
「ん? 別に協力しても構わんのだぞ?」
「いえ、こいつは……異世界の生まれではないので」
「ふぅん。まぁ、いいわい。ささ、先手は譲ってやろう」
1. Nf3 Nf6
2. c4 g6
3. Nc3 Bg7
4. d4 O-O
5. Bf4 d5
6. Qb3 dxc4
この手のゲームは「一番強い駒」をどう使うかがカギだ。ひとまずナイト、ビショップ、クイーンを前に出して、牽制しよう。チェスは「交換」が良く起こるゲームだ。クイーンを安い駒で取られてしまわないように気を付けながら、ガンガン攻撃を仕掛けていこう。
エミーはなかなか場を広げなかった。前に出てきているのはポーンとナイトのみ。今はポーンで俺のクイーンの首を刺しに来ているが、特にこのポーンは守られているわけではない。
7. Qxc4 c6
何の疑いもなく俺はそのポーンを取った。これがどうつながるか、盤上を見ても予測できない。
8. e4 Nbd7
9. Rd1 Nb6
10. Qc5 Bg4
「お前さんの娘? は、アルビノっちゅうやつやろ?」
「ええ、まぁ」
11. Bg5 Na4
「皮膚癌には気をつけんといかんよ」
「はい」
12. Qa3 Nxc3
「あと、あんまし可愛すぎると、すぐ誘拐されてしまうからのう」
「ははは……たしかに」
13. bxc3 Nxe4
「しっかり守ってあげなさい」
「ええ」
14. Bxe7 Qb6
「いて、何だよルル?」
「……ほぉ、娘と言われたことが気にくわんみたいじゃ」
15. Bc4 Nxc3
ルルに突然叩かれた。顔を見れば、若干むすっとしている。
盤上では、エミーのナイトがこちら側に殴り込みに来ていた。彼女のクイーンは、一度俺のビショップの攻撃をかわしたきりで、動いていない。どちらかというと、俺が優勢であるように見えるが……。
とはいえ、すぐにでも王を殴り込みに行ける位置にいるのは間違いない。ここはビショップ、ルーク、クイーンで黒クイーンを仕留めに行くか。
16. Bc5 Rfe8+
17. Kf1 Be6
「……?」
チェックをして俺の手数を稼いだのはいいものの、彼女はクイーンを守らずに、ビショップを変なところに動かした。精々刺しているのは俺のビショップだけで、クイーンを守っているわけではない。
――18. Bxb6 Bxc4+
クイーンが、取れた……!?
代わりにビショップを取られてチェックされたが、特にこれといってデメリットはないようだった。普通に「交換」の法則に則って考えるならば、クイーンとビショップは天秤にかけるまでもない。クイーンを取らせてまでやりたかったことが、俺のチェックを取ることだったのだろうか? どう考えても、俺のメリットしかない、はず。
こっからクイーンで暴れていけば……勝ち筋はある。
ところが、エミーは「にやり」と微笑んだ。
しわくちゃなその笑顔に、なんだか不思議な感覚を覚えた。
19. Kg1 Ne2+
20. Kf1 Nxd4+
21. Kg1 Ne2+
22. Kf1 Nc3+
23. Kg1 axb6
「……!?」
「ふふふ」
ビショップの一本槍と、ナイトの奇妙な動きに翻弄され、俺はキングを左右に振ることしかできなくなっていた。そしていつの間にか、ビショップを取られてしまった。
24. Qb4 Ra4
25. Qxb6 Nxd1
いや、敵はナイトとビショップそれぞれ一体だ。こちらには、守備にルークが二体いる。今はまだ慌てる時間じゃない。そもそもあちら側は碌に自陣の整備もしていないから、クイーンで殴り込めばチェックは容易にとれる……
――――26. h3 Rxa2 27. Kh2 Nxf2 28. Re1 Rxe1 29. Qd8+ Bf8 30. Nxe1 Bd5 31. Nf3 Ne4 32. Qb8 b5 33. h4 h5 34. Ne5 Kg7 35. Kg1 Bc5+ 36. Kf1 Ng3+ 37. Ke1 Bb4+ 38. Kd1 Bb3+ 39.Kc1 Ne2+ 40. Kb1 Nc3+ 41. Kc1 Rc2#
「ほれ、チェックメイト」
「……」
……敗けた。
「お前さんは、力の強いものに執着しすぎておる。もう少し、小さな力にも目を配るべきじゃのう」
「まぁ、負け戦だとは分かっていましたが、これほどとは」
割としっかり手を読んでいたはずだったが、そもそもの相手の行動基準を「駒の強さ」に置いたのが間違いだったようだ。だから全く考えられなくなって、追い詰められた。
なるほど、柔軟かつダイナミックな思考……やはり「天才」なだけある。
「はっはっは、久しぶりに楽しかったぞ。さ、話ってなんじゃ?」