昭和四十六年の夏
この話は、今太閤と呼ばれた男が列島改造論を上梓し、都市と地方の距離が近付き始める前年のことだ。
当時、ようやく東北・上越新幹線が着工されたばかりだったので、帰省には今の倍以上の時間が掛かった。
また、この時は、まだ車の免許を取得する前だった。
国鉄の有人改札を抜け、チョークの粉が溝に溜まった伝言板の前に立つと、足元にトランクを置き、夜汽車でコチコチに凝った身体を解すべく、ウーンと深く息を吸いながら大きく伸びをした。
朝方の駅前は、埃っぽい東京とは違う、爽やかな夏の息吹に満ちていた。
思えば、ここに降り立つのは中学卒業以来のことだ。四年という月日の長さを感じた。
夕方四時に、大鳥居の前でお待ちしています。かしこ
実家の近所に住む一つ年下の幼馴染、菊子から届いた手紙の末尾は、そう結ばれていた。
この手紙が無かったら、わざわざ夏祭りに行こうという気を起こさなかっただろう。
紙面に流れるように書かれた嫋やかな文字に育ちの良さが滲み出ていて、実に菊子らしい。
夏祭りには、思い出に残ってる出来事がある。
言ってしまえば、なんてことはない話だ。下駄の鼻緒が切れた菊子に、自分が履いていた草履を貸したというだけのこと。
裸足で帰ってすぐは怒られたが、あとで菊子が小母さんと草履を返しに来た途端、手の平を返したように褒められたことだけは覚えている。
感傷に浸ってるうちに、実家の最寄りの停留所に着いた。
ボンネットバスの女性車掌に五百円紙幣を渡し、がま口ポーチから釣銭を受け取って降りた。
昼時で陽射しの強まりを感じ、同時に空腹を覚えた。
それから、日陰の無い道を額に汗して歩くこと四十分。ようやく、茅葺きの実家へ到着した。
蝉時雨をビージーエムにしながら素麺を啜っていると、ひっつめ髪で割烹着姿の母が、行李のカゴに入れた甚平を持って来た。
久々に夏祭りに行くという葉書を見て、さんざん長持や箪笥を探したらしい。お為ごかしに話す母の頭には、知らぬ間に白髪が増えていた。
庭の水やりだの、納屋の整理だのを手伝っていたら、いつの間にか蜩が鳴き始める時間になっていた。
麦藁帽と服を脱ぎ、汗を流して甚平に着替えると、仄かに樟脳の匂いが鼻をかすめた。
おかしな点が無いか鏡台で全身を検めたのだが、貫禄が無いせいか、どこか着られてる印象が否めなかった。
しばらく見ないあいだに、逞しくなりましたね、辰彦さん
鳥居の前で会った時に菊子が僕にいだいた第一印象は、そんなようなものだった。
就職先で理不尽な目に遭っているうちに、色々と鍛えられたのは事実だが、改めて言われると気恥ずかしいものだ。
照れた顔を隠そうと、ひょっとこの面でも買おうかと考えたくらいだ。
そのあと、参拝を済ませた僕らは、綿飴や舟入りのタコ焼きを買って小腹を満たしつつ、しばらく境内を回遊した。
相変わらず、菊子は金魚すくいの名人で、半分破れたポイで黒の出目金を掬い上げる技には、思わず溜め息が漏れた。
この時、手元ばかり注目していたのには、別の理由もある。
実は、菊子の浴衣姿に、大人の色香を感じていたのだ。
口に出しては言えなかったが、しばらく会わないあいだに綺麗になったものだと感心していた。
きっと三つ編みでセーラー服を着てた時の印象が残っていて、それとは、あまりにも差異が大きかったからだろう。もちろん、いい意味で。
盆踊りも終わり、すっかり空が宵闇に包まれたころ。
帰り道に川の畔を歩きながら、僕らは蛍狩りを楽しんでいた。
当時は、まだ宅地開発の魔の手が忍び寄る前で、当たり前のように蛍を観賞することが出来たのだ。
恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす
どちらからともなく、そんな都都逸が口を飛び出すほど、幻想的なムードだった。
だから、恋に盲目だった僕らは、お互いに甘い水を求め、静かに口付けを交わした。
その一部始終を、帰りの遅さを心配した菊子の親父さんが見てたとも知らないで。
その夏は、それ以上の進展は無かったのだが、ひとたび恋仲であるとバレてしまっては、周囲が放って置く筈が無い。
次の正月に帰省した頃には、田舎に蔓延るローカルネットワークによって外濠が埋められており、菊子が二十歳になったら結婚するということになった。
半ば強引にゴールインしたようのものだが、今日まで離婚の危機に陥ったことは無い。きっと、菊子の堪忍袋が丈夫なおかげだろう。
何をお読みなんですの、あなた。
おや、いけない。古い手帖を読み耽っている場合ではなかった。
早いところ、甚平に着替えよう。
それにしても、菊子の浴衣姿は、いくつになっても綺麗だなぁ。