帰還
永かった戦いが終わった。これで、私の仕事も一旦終わりだ。今回は存外、早く終えることができた。
命じられたことをただ為すのが私の仕事。
そうして得た報酬で愛しき者を生かすのが、私の生きる意味。
ああ、早く君に会いたいよ。
そのために、ここまで生き延びたのだから。
辛い目にだって、遭ったのかもしれない。無理な指示を受けたことはあった。死を隣に感じたこともあった。もう麻痺しきった感覚の中で、何が異常で何が誤りで何が非難されるのか、もう何も判らなくなった。何もかもが、その以前と後でおかしくなった。でも君を思うときだけ、その感情だけは、昔と今で変わらない気がしたんだ。それだけは、私の中で唯一の確実なものだった。
荒れた広野、乾いた砂の上、崩れそうな崖の陰に身を潜めて、男はここではないどこか、愛しき者の姿を見つめる。遠い向こうでは、かつて栄えていた都市の残骸が宵闇に呑み込まれようとしていた。
汚れきった襤褸布同然の上着を羽織り、ろくに洗っていない自身の体臭に顔をしかめる。充分に回復するだけの時間が与えられず応急的な処置のままで放置された傷口からは異臭がした。いつからそのままかも思い出せない包帯は既に鉄錆色に固まっている。
意識が不鮮明なのは、偏った不規則な食事すらまともに摂っていないせいか、緊張の緩みから疲れがでたのか。いや、血を流しすぎたか。そんなことはどうでもよかった。
現在、ここに、生きている。
それだけが重要だった。
生きてさえいるのなら。
さらには神経が血管が筋肉が繋がっていて、それを処理する脳が無事で。この視覚が聴覚が触覚が無事で。自分の足で歩くことができて。この手を自由に伸ばすことができて。こんなにいい状態でいるのなら、自力で帰ることができる。
君の元へ、また、逢いに行くことができる。
覚えているかな。
君と私が同じ場所で過ごした、最後の時間を。
あのとき私は、横にいる君の顔を盗み見たんだ。それがもしかすると最期になるかもしれないと思ったから、この二つの目に焼き付けておくために。
君は両手を後ろについて、雲に隠されて見えない太陽を探すように、顔を空へ向けていたね。もしかすると、君の想い人へ意識を向けていたのかもしれない。
私のことなんて、これっぽちも考えていなかったのかもしれない。
でもそれでよかった。
隣にいさせてもらえるだけで、私は幸運だったのだから。
男は宵に呑まれる前に、黄昏を睨んだ。
岩の陰からその影が離れる。何かに誘われるように、不安定な足取りで歩む。もう狂ってしまった感覚には、何も触れない。襲いかかるものも動かぬものもその歩みを妨げようとするものは皆等しく排除する。足下に続く紅い線も、縋りつく纏わりつく音も臭いも既に意識に上れない。
ああ、とその口から声が漏れる。
それを果たして、彼の耳は拾ったか。
私がこの仕事に出かけるとき、君は珍しく見送ってくれたね。普段どおりの顔で、「帰ってきて」と言ってくれた。だから私は帰るよ。どんな無様な格好でも、無駄だと解っても、足掻く。
意識はもうどこにあるのか、果たしてないのか。男自身にもわからない。
弱い風が男の歩みを止める。
もう見えているのか怪しい二つの瞳は、そっと瞼に隠される。
眦から貴重な水分が排出された。それを捉えようと伸ばされる手があった。
男を見上げる少女がいた。
「シィ兄」
愛しき者の声は、風に乗って確かに届いた。
膝を着いた男の額に、少女の顔が寄せられる。
「お帰りなさい」
それに返す言葉を、少女だけは聞き取る。
腕を伸ばして、大切な兄を抱き留める。
元より見ていた者などないが。ふたりの姿は風に乗って消え去った。