九話:星と月と泣く娘
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里を襲われてから三日目、遺跡を出てから一日目の夜。
エリックの意見を取り入れて、河原の近くを野営地とすることに決めた。
干し肉の食事をすませ、濡らした布で体をぬぐうと寝るのにちょうどいい時間となった。
それからしばらくして、フィリシアは二人で話したいという約束を果たすべく、見張りをしているサブローのもとへ向かった。
二つの月は煌々と輝き、すっかり更けてしまった夜の灯りとなる。
いつもは味方である風が冷たくて、思わず今日の寝床のことを考えてしまった。
今夜は遺跡のときと違って壁がないため、皆で固まって寝ることになった。
そのためすっかり抜け出すのが遅くなり、サブローを待たせてしまった。
特にマリーの反応は敏感で、寝入ったと油断しても少し距離をとるだけで目を覚まし、不安そうに手をつかんできた。
そして眠ったと思ったら今度はうなされて泣き出し、落ち着くまで抱いて慰めていた。
昼間はあんなに元気だったマリーの悲痛な姿に、フィリシアは衝撃を受ける。
妹が押しつぶされそうな不安に必死に抵抗し、姉に心配をかけまいと思った結果が、あのはしゃいでいる姿なのだとようやく理解した。
そして無理をしているのはマリーだけではない。
アレスは眠りながら恨み言をつぶやいていた。クレイは頭を抱えて震えながら毛布の中で小さくなっていた。
アイはマリーと並んで縋りついてきたため、一緒に慰めた。アリアはいつでも起きられるように浅い眠りで済ませている。
大人びているエリックでさえ両親をずっと呼んでいた。
無事な子どもは一人としていない。
誰もかれも故郷が滅ぼされた痛みと戦っている。彼女はその事実に途方に暮れた。
フィリシアは長くは歩かずにサブローを発見した。
そもそもサブローが距離を取っているのはエリックやアイが安心して眠れるようにするためだった。
たき火は皆の寝ている場所にあるのだが、魔人の身体能力で状態を把握しているのか、時折薪を追加しに来ている。
強い上に気の利く彼に、すっかり頼りきりになってしまった。
そのサブローの横顔から覗く瞳は星や月を見て輝いている。
思えば彼は魔人とは思えないほど――いや、人間でも珍しいくらい澄んだ目をしていた。
「今日でよかったのですか? 旅の疲れやマリーのこともありますし、本当に都合のいい日で構いませんよ?」
空を見たまま告げられたが、フィリシアは彼の感覚の鋭さに慣れたため動揺せずにうなずいた。
「あの子たちに聞かせたくない話なら、早いうちに知っておきたいです。……星が好きなんですか?」
「ああ、いや。鬼教官に叩き込まれた癖で、夜は星座や星を使って方角を確かめる癖があるんですよ。
まあ知っている星座は一つもないので意味がありませんが」
「星ですか。旅で方角を知るのに必要ですが、やはりそちらの世界とは違うものなんですか?」
「かなり違いますね。一番違うはやっぱり月でしょうか。昨日は三つ浮かんでいましたが、こちらでは一つしかありません」
「月が一つだけ……夜がとっても暗そうですね。こちらでも月が一つしかない夜は闇が深くて、とても苦労します」
「まあ意外とそこまで差はありません。それに僕らの世界は月が見えない日もありますよ」
「月が見えない日……雲で隠れた、とかではなく?」
「ええ、一ヶ月に一度、そういう日が来ます。こちらでは新月と呼んでいますね」
「……少し考えられません。月はいつも夜空に浮かんでいるものですから」
フィリシアは月のない夜を想像しようとするが、真っ暗すぎて形にならない。
やはり魔人の世界は全体的に暗いのだろうかと、少し失礼な考えを浮かべる。
「まあ三つも月があればどれかは空に浮かんでいますよね」
「一年に一度、月が四つ浮かぶ日があります」
「四つ!? 隠し玉がありましたか。しかも年一というプレミアム感」
「その日は王国にとっても私たちの里にとっても特別な日なんです。五百年前に勇者が魔王を倒したときも、精霊王が一族の前に現れたときも、月が四つの夜だと言われています。四聖月の日……王国中、私たちの里でも祭りが開かれる特別な日なんです。この日があるので四はこの国にとって縁起のいい数字だと言われています」
「さらっと話に出てきた魔王も気になりますが……四が縁起のいい数字ですか。なんかいいですね。逢魔に海外へ向かわされた時を思い出します」
「良い思い出は少ないのですが」と苦笑され、フィリシアは笑顔を返そうとして失敗した。
どうしても顔が強張ってしまう。サブローの前だけではなく、里を襲撃されてから妹や幼馴染たちに対してもそうだった。
もうすっかり見慣れたサブローの心配そうな顔を前に、深呼吸をして気持ちを切り替える。
「それで話したいこととはなんでしょうか?」
「正直フィリシアさんにも打ち明けるべきかどうか、いまだ判断がついていません。それでも……知らせないわけにはいかないでしょう」
今回の件を切り出したときと同じ、真剣な雰囲気のサブローがまっすぐ瞳を貫く。
フィリシアは生唾を飲み込んで、覚悟を決めた。
「あの夜、王国兵を倒すのと並行してあなた方の一族の生き残りも探していました。……王国側は徹底しているらしく、遺体しか見つけることができませんでした」
「どうして、そこまで……」
フィリシアは目の前が真っ暗になった気がした。
なぜこんな理不尽な目に遭わないといけないのか、怒りがわいてくる。
「王直々の命令だったようです。かなりの強権を発動したらしく、こんな小規模な作戦で将軍を向かわせて、首謀者である族長一族以外は誰一人生き残らせることを許さなかった。話を聞かせてくれた兵士はそう教えてくれました」
「あの優しい王が……」
父に連れられて初めて謁見した日を思い出す。まだ子どもで緊張してうまく口が回らないフィリシアを、慈悲深くフォローしてくれた姿が思い浮かんだ。
なぜ王はこんなひどいことをし始めたのか。絶望で頭の中がグルグル回る。
「そんな中、捕らえられている女性を発見しました。……先ほどの族長一族と判断されて」
フィリシアはぼうぜん自失となった。手が震えて歯の根が合わない。
「彼女は……あなたの母親は、衰弱した身体でずっとお二人の無事を祈っていました。間に合わなくて申し訳ありません」
ぐらりと景色が揺らぐ。膝から力が抜け落ち、崩れそうになるフィリシアをサブローが支えた。
「あ……あ……」
「フィリシアさん、気をたしかに」
「だ、大丈夫で、す。このくらい、お母さんと別れたときから、かく、ご、していましたから」
フィリシアの声は上ずっていたが、取り繕う余裕などない。
「私は、族長の娘で、みんなを元気づけないといけま、せん。こんなところで、挫けている、ひま、はありません!」
お腹に力を入れて、自分の身体に鞭を入れる。
だが、いつまで待とうともフィリシアの足に力は戻らず、サブローの胸に縋りつき、涙があふれた。
「涙、止まってくだ、さい。こんなところで、お母さんが死んだくらいで、泣く、わけには……」
「泣いてください。この体勢なら泣き顔を僕に見せることはありませんし」
優しくトントンと背中を叩かれ、いやいやと力なく頭を振る。
「だ、めです。そこま、で甘えていられま、せん」
「それは違います。甘えてほしいわけではありません」
突き放すかのような口調に、フィリシアは思わず顔を上げた。そこには寂しそうな、だけどとても優しい穏やかな顔があった。
「フィリシアさん、あなたのお母さんとは少ししか話すことができませんでしたが、それでも素晴らしい人だと思いました。僕を魔人だと教えても、感謝する、僕が守ってくれてよかった、と仰ってくださいました。そんな優しい人の娘さんが、辛いのを我慢するなんて僕は嫌です」
サブローの空いている手がフィリシアの頭を伏せさせてから、優しくなでてくる。
小さな子どもを慰めるような手つきだったが、嫌ではなかった。
「ですから、僕のわがままのために泣いてもらえませんか?」
そんな優しいわがままなんて、フィリシアは知らない。縋りつく手に力が入る。もう我慢なんてできなかった。
「ずっと、ずっと……里で暮らしたかった。お父さんもお母さんも死なないでほしかった。魔人なんて呼びたくなかった!」
本人を前に失礼なことを言ったはずだが、彼は「そうですよね」と穏やかに返す。
「友達もたくさん私を置いていなくなって寂しい。マリーが私に気を遣って無理をしているのがつらい!」
「マリーは僕も気を付けます」と優しく声をかけられる。
「兵隊に迫られるし怒鳴られるしでこわい。お腹蹴られて痛い。王様がなにを考えているかわからない。将軍が来るなんて信じられない」
「はい、理不尽です。許せません」と本気で怒ってくれた。
「なんで七人しか生き残らなかったの? なんで私が一番年上で、一番責任がある立場なの? みんな苦しんでいても、なにもできないのに!」
ポンポン、と優しく頭を叩かれ、「いっしょに皆さんを助けていきましょう」と安心させてくれる。
「一日中歩き続けるなんていや。外で寝ると寒い。お腹すいた。魔物や獣がこわい。夜は暗くて不気味」
我がままと変わらない弱音に、「わかりました。善処します」と真剣にうなずいてくれた。
「魔人を召喚した私はどうなるの? 捕まるの? 処刑されるの? 本当におばさまのところに行けるの? 地の一族でみんな生活できるの? 他の国に行けば本当に狙われないの? 迷惑だって追い出されないかな? もういやだ。疲れた、寂しい、痛い、怖い、つらい、死にたくない、逃げたい……」
ずっと相槌を打っていたサブローの襟を力いっぱい握りしめて引き寄せる。
「誰か……サブローさん……たすけて」
「指一本触れさせません。あなたのお母さんにもそう約束しました」
最後の矜持でどうにか泣き声だけは押さえたが、頬は濡れるままに任せる。
いつまでもサブローは子どもをあやすように背中を撫で続けた。
「あれ? おねえちゃんがマリーより起きるのおそくてめずらしー」
妹の無邪気な声にフィリシアは目を覚ました。
起き上がった姉の顔を見た瞬間、マリーが固まってしまった。
「おねえちゃん、悲しいことがあった?」
心配そうな声に、フィリシアは徐々に覚醒した頭で、自分が泣き腫らした顔をしていることに思い至った。
昨夜の出来事の後に眠った自分は、サブローにここまで運んでもらったのだろう。その姿を想像して少し恥ずかしくなった。
それにしても夜中に歳の近い男性を前にして泣き疲れて眠るなんて、成人少し前の女性の行動とは思えない。
今まで余裕がなくてそこまで考えることができなかった。これからは気をつけねばならない。
「ほんとうにだいじょうぶ? どこか痛いの?」
返事をしなかった姉を前に不安に思ったのだろう。マリーが焦り始める。
まだ幼いのに過酷な目に遭っても優しさは失っていない。
無意識にフィリシアはマリーに笑顔を向けた。
「大丈夫です、マリー。おはようございます」
マリーは挨拶も返さず、口を大きく開けてじろじろと姉を無遠慮に眺め始めた。
滅んだとはいえ風の族長の娘としてはよろしくない。フィリシアがいつも通り注意しようとしたとき、
「おねえちゃん、いいことあった?」
最初とは真逆の質問をされた。意味が分からず不審に思っているとマリーはさらに続ける。
「いま、ひさしぶりに笑ったよね? 里を出てからはじめてだよ」
「ああ、私は笑っていたのですか」
昨夜のことを思い出す。幼いころ以来に泣きじゃくり、マリーやアイのように慰められたことは恥ずかしい。
だけどもう鉛のように重かった心は嘘みたいに軽くなっていた。
不安の種は尽きないが、どうにかなると楽観的に考えられるようになっている。
フィリシアは立ち上がり、妹の手を取るともう一度笑みがこぼれた。
「そうですね、いいことならありましたよ。でも内緒です」
「えっ、なにそれ!? ずっこい!」
しつこく聞き出そうとする妹をのらりくらりとかわす。
とりあえずこのひどい状態の顔をどうにかするため、顔を洗いに川へと向かった。
背中を撫でる温かい手の感触をふと思い出し、また心が温かくなった。