八十五話:空も歩けるはずさ
ようやくお仕置きの音が鳴りやみ、しゃくりあげるクルエの手を引いてノアは必死に頭を下げてきた。サブローとしては気にしていないと言うしかない。むしろ許してあげてほしい。
「おひい様も頭を下げてください!」
「……やだ」
涙目で尻を痛そうに両手で抑えながらもクルエはぷいっとそっぽを向く。おかげでノアが般若のごとき顔になった。
これは意固地になって引くに引けない状態ではなかろうか。強がってもノアの形相に怯えている姿が見て取れる。サブローははあ、とため息をついてから間に入った。
「まあまあ。あんまり強制するのもかわいそうですし、僕は気にしていませんから」
「おひい様を甘やかさないでください。彼女の教育は私に一任されています」
この件に関してはご意見無用と彼女は強気に出た。先ほど見せていた魔人に対するわずかな怯えも感じない。クルエのことを思って一生懸命になっているからだろう。
サブローは甘い方だと自覚があるが、やりすぎていない以上普段なら今回のことに口を出す必要もなかった。ただ、今回の原因は自身にあるため、解決に動かなければまたクルエのお尻が腫れるだけで終わる。
それは少し不憫に思った。
「まあ……勝手を知るフィリシアさんもいますし、僕が原因のようですから……」
「知りませんよ。おひい様はこのことで恩を感じるようなお人ではありませんし」
「そこは期待していません。よくあることですし」
朗らかに返すとノアは怪訝そうな顔をした。子どもが大人にとって都合が悪いことはよくあることだ。特にフィリシアを巡って対抗心を持たれているのなら、サブローに対する心証は良くなる可能性は低い。施設でも見る可愛い独占欲という奴だ。
そのサブローの対応に思い当たることがあったのか、ゾウステが会話に加わった。
「マリーの嬢ちゃんとかカイジンの旦那によく構われに行っていたな。状況が状況だから独り占めは我慢していたみたいだけど」
「妹さん、アニキの実家だと遠慮なく膝を独占していたなー。あぁ、あんな感じか」
創星が納得したかのように何度もうなずく。剣が中空でそれをやるのはどうにもシュールだ。
ノアがあいまいにうなずいてとりあえず了承の形をとる。後ろに控えているクルエがマリーの名前を聞いてますます機嫌を悪くしていた。
「フィリシア、一緒に行かないの?」
「申し訳ありません。やはり仕事もありますから」
フィリシアが謝るとクルエは「じゃあ」と続ける。
「わたくしも船に泊まる」
「…………あと二日、我慢できるわけないでしょう。ペガサスの足だから今日中に行って戻れるのですよ」
「やだ! 今日はフィリシアと一緒にいる!」
クルエは再びフィリシアに抱き着いて腕に力を込めた。テコでも動かないという覚悟を感じる。
「わがままを仰らないでください。乗船の許可を取っただけで部屋も予約しておりません。それにとても優秀な船ではありますが、海を速く進めることを重視されていますので、おひい様が満足するような部屋はございません。絶対我慢できませんからね」
「知らない知らない! フィリシアといるもん!」
しばらくの間、ノアとクルエの押し問答が続く。エグリアからの客とサブローたちは戸惑っていたが、水の国エナリア出身の船員や客はまたかという態度になっていた。
彼女はそんなに問題行動を起こす娘なのだろうか。少し将来が心配になる。
「……船長さん、私の部屋にクルエ様を置いてもらえないでしょうか?」
「私どもは構いませんがよろしいのですか? 正直王女殿下が一緒ですとお客様に快適な旅を提供できないと思われますが……」
「こうなったのも私を思ってくれたからですし、無事を喜んでもらって嬉しい気持ちもあります。サブローさんたちを置いてい一人で先に行くわけにもいきませんから、許可をいただけると助かります」
「かしこまりました。残り二日の旅ですが、クルエ様との相部屋をお願いします。ノア様もよろしいですか?」
「…………仕方ありません。フィリシア様、ご迷惑をおかけします。船長、私が廊下に待機することを許してくださ……」
「いや、女性一人を廊下で寝泊まりさせるのはまずいでしょう。僕の部屋を使ってください」
サブローがそう提案するとノアが「とんでもない!」と否定する。しかしここはお節介をするべきところだ。
「二日くらい寝なくても問題はありません。フィリシアさん、僕の荷物を預かってください。まさかここにきて僕にこの事態を見過ごせと言いませんよね?」
「……わかりました。ノアさん、こういうときのサブローさんは強情ですからなにを言っても無駄です」
「で、ですが……カイジン様は正規の料金をお支払いになってこの船に乗りこんでいます。おひい様のわがままで二日も不眠を強いるなど……」
「大丈夫です。ご存じだと思いますが僕は魔人です。ですので一ヶ月は寝なくても活動できます」
むしろ毎日眠れるここ最近が違和感あった。逢魔にいるころは限界まで酷使されることも多く、睡眠をとる周期も不安定だった。
「ノアさん、遠慮しないでください。よろしいですね」
満面の笑顔でサブローが念を押して話が決着する。船の反対側にいたミコたちが駆けつけ、事情を話すためにいったんは解散となった。
あの後ノアはペガサスに手紙を添えて国へ返した。乗騎のみでも国へ戻るように調教されていると説明を受け、サブローは大いに感心した。
そして一同食堂へと行きミコとナギ一同に今回の顛末をすべて話す。するとナギがとんでもない提案を始めた。
「いっそわたしの部屋で寝るか?」
「あなたの貞操の危機ですので丁重にお断ります」
ナギに返答しながら、これで「処女ではない」と返されたらどうしようかとサブローは今更心配になった。
幸いにも話題はそうならず彼女は残念とつぶやくだけで終わる。
「だいたい魔人の特性のおかげで寝なくてもいいと説明をしたはずですが」
「そういやカイジンの旦那、山小屋で治療を受けているときに言っていたな。フィリシアの嬢ちゃんとオコーに説教食らっていたけど」
ゾウステが懐かしい話をする。その時のサブローは昼間に身体を休めたので、せめて夜は見張りを任せてほしいと主張したのだ。結果激怒するフィリシアとインナを前にすることになった。
「説教……ですか? フィリシア様、その、よくできましたね」
「全身大やけど状態で見張りをしようなんてバカなことを言い出すからです。まったく、今思い出してもむかむかします」
戸惑うノアにフィリシアが当時を思い出して声を荒げた。ミコも同意の頷きをしている。
ひとり肩身狭いサブローはフィリシアの胸に顔を押し付けているクルエの横顔を覗いた。慕う相手の口から見知らぬ男との思い出が語られて不満そうである。
「それにしても……おひい様、いい加減ご自分から名乗られたらどうですか?」
「ノア嫌い」
クルエはますます頑なになる。ノアはこめかみに人差し指を当てながら主の不始末を謝罪した。
「ふむ、クルエ様は以前あった時より子どもじみている気がするぞ、ノア」
「オーエン様、本当に申し訳ありません。おひい様はフィリシア様と一緒にいるとタガが外れてしまう傾向にあります」
「かわいいものだな。しかしわたしのことは名前、かつ呼び捨てで構わないのだが?」
「お戯れを。勇者様相手に恐れ多いことです」
ノアは淡々と返した。サブローのときはあれほどしつこかったナギもそのとりつく島のない様子に沈黙した。納得はしていない様子だが。
「でも本当に可愛い。なんか妹たちを思い出すなー」
ミコが頭を撫でるのをクルエは素直に受け入れた。むしろ嬉しそうでさえあるので、彼女と同姓である幼なじみを少し羨ましく思う。
ひとまずサブローが出る幕はないため流れに任せることにした。時々訪れる同業者に対応するナギを見つめながら緩く雑談を続ける。
途中、一同に近づく者がいた。
「オーエン様、カイジン様、ご相談があります」
不意に訪れた船長はそう切り出した。詳しいことは甲板でということなので船長の案内に従う。クルエもさすがに移動しづらいと思ったのか、ついていこうとするフィリシアから身体を離して手をつないだ。
再び甲板に出ると船員がせわしなく行き来している。
「巨大な魔物が船の進路をふさいでいます。お客様であるお二方に助力を頼むのは筋違いだと重々承知していますが……この船の装備ではシーサーペントに対抗は難しく……」
「構いませんよ」
サブローが短く告げて話題の魔物が見える場所まで誘導してもらう。今度冒険者ギルドを通し討伐の報酬を振り込むことを伝えられながら船の端にたどり着いた。
船長の指先に視線を向けると蛇を思わせる細長い生物が大口を開いていた。
「サブロー、いいな」
短く告げるナギに頷き返す。返す刀で船長に魔人の許可をもらい準備を整えた。
次の刹那、魔物の喉奥から噴水のように潮が吐き出された。直撃すれば船に大穴を開ける一撃をナギは剣を振る剣圧で、サブローは一部変化で呼び出した四本の触手を束ね振る風圧で叩き曲げた。
眼前でその技を目にした船長が喉を鳴らして呻く。
「さ、さすが勇者に選ばれた二人……」
「あたしが炎の壁を出す必要はなかったか」
天使の輪を展開していたミコが悔しそうに呟く。準備の良い幼なじみだ。サブローが敵を確認すると、怯えている様子が見て取れた。
「ああいうデカ物にも魔人の気配は有効みたいですね」
「とはいえ放っておけばほかの船を襲いかねない。どうする?」
「僕が行きます。海中での戦闘は得意分野です。ラムカナさんや兄さんにも負けませんよ」
「ほう、控えめなサブローが珍しいな。ならばお手並み拝見といこうか」
剣を鞘に納めながらうずうずしているナギが言い放った。フィリシアとミコに船を守るように頼み、縁に足をかける。
「創星さん、ついでに話をしていたあれを試しますよ」
「あーあれか。よく思いつくな」
笑いかけてからサブローは海へと落下した。海面に接する直前に身を変えて潜り込み、海中を自由自在に泳ぐ。
シーサーペントが慌てて海中に姿を現して水を吐き出した。船に当たらないよう誘導しながらサブローはいとも簡単に避ける。うろたえ弾に当たるほど魔人は甘くない。
海中で加速して勢いをつけて真下から腹を殴り飛ばす。近くで見るとその巨体が際立った。いま乗り込んでいる船より二回り小さいくらいだろうか、十数メートルくらいの大きさはある。身体を割こうと襲ってくるヒレをかわし、再び激突する。
身体を押し上げられたシーサーペントの腹に十本の触手を次々叩きこんで海面から空へと吹き飛ばした。サブローは続いて宙へと飛び出し、触手に携えた創星へと声をかける。
「使いますよ」
「おうよ!」
サブローは創星の光で足を刹那の間固定し、続けて自由な片足を前に踏み出してから固定した。その動作を繰り返してシーサーペントの上空まで駆け抜ける。
施設で創星の光を家族に見せていた時、サブローは固定する時間を短くすると次の使用までのタイムラグも短くなる発見をした。創星にこの特性を利用して今のように宙を走れないか相談したところ、感心されてこっそり訓練をしていたのだ。
実験は上々、足を止めれば真っ逆さまだが体力の続く限り空を走り続けられる。シーサーペントの頭部に降り立って角を砕き折った。魔物は激しく首を振ってサブローを落とそうとしたが、すでに宙を走り逃げている。今度は顎に潜り込んで走る勢いそのままに蹴り上げた。
サブローは骨が折れかねないほど首をのけぞらせたシーサーペントを哀れに思ってとどめに移る。魔物の背中に聖剣を突き立てて、ひれのあたりから触手の大ぶりで身を切り開いた。技術もなにもない、力任せに無理やりだ。獣の咆哮があがって心の中で謝り、傷に触手をすべて潜り込ませた。
「苦しめて申し訳ありません。これでお終いにします」
ひとりごち、触手を目いっぱい左右に広げた。シーサーペントの身体が二つに分かれ、魔物の瞳から光が消える。同時に波しぶきをあげて海面に到着し、力なく沈んでいった。サブローは宙を歩き続けてその様を見届ける。
「戻りますか」
「おう。しかし海の大型魔物ってかなり厄介なのに相手にならないな……」
「海のプロですからね。水中で負けた相手は鰐頭さんと海老澤さんくらいです」
「……多くね?」
サブローは創星になごやかに笑って誤魔化し、人の姿に戻りながら船へと帰還した。




