五十七話:温泉に湯こう
脱衣所で服を預けて、髪をまとめる用のゴムを片手にフィリシアは久しぶりの露天風呂へと出た。木造の壁で区切られ、天井がなく夜空が見える。ちょっとした池ほどの広さもある天然の湯船が中央に存在し、湧き出る湯がいっぱいに張られてあった。
フィリシアは壁を背に身体を隅々まで洗う。あちらの世界で何度も通った銭湯でのマナーが身体にしみついていた。
「こっちの世界でもお風呂のマナーは変らないの?」
「いえ、あちらの銭湯でのルールにすっかり慣れただけです」
入ってきたミコに答えフィリシアは相手の裸体を見上げた。相変わらず細身で手足が長く、スタイルがいい。胸とお尻が小さいものの、小顔なのもあってバランスが取れた美人だ。
彼女は銭湯でもそうだったが、同姓相手だと隠そうともせず堂々としている。武道を嗜んでいるのもあり、姿勢が良くて挙動の一つ一つにキレがあった。正直見惚れてしまう。
フィリシアが泡を流し終えると、ミコの視線を感じて振り返る。師匠と呼び慣れてしまった女性は、無遠慮に弟子の胸を眺めていた。同姓相手とはいえ、恥ずかしくなって腕で隠す。
「師匠さん、どうしたんですか?」
「あ、うん。羨ましい……」
フィリシアは呆れながら髪をまとめ上げて、湯船につかった。隣に並んだミコがお湯に浮かぶ二つの小山からまだ視線を離さない。
「……今日はどうしたんですか。銭湯に行ったときはあまりこの話題に触れないじゃないですか」
「だってそのときは悔しかったし。でもやっぱり湯船に浮かぶとかいいなー」
「そういわれましても……もっとすごい人もいますし」
ぼやきながらフィリシアが脱衣所の方を見ていると、話題の相手が現れた。近寄るインナはつややかな黒髪と成熟した大人のラインを描く肉体の持ち主だ。
白いなまめかしい肢体にお湯をかけ、身体を洗ってからフィリシアたち二人と並んだ。湯船に浮かぶ胸も巨山と言っていいレベルだった。
「フィリシアちゃん、ミコちゃん、なにを話していたの?」
「ちゃん付けか……気兼ねしなくていい。まあ、それについて」
ミコは遠慮なくインナの胸元を指してから、自分の胸をペタペタ触って情けない顔をした。クールぶっている上に美人な割には、けっこう愛嬌がある人だった。
「まあ人それぞれよ。ミコちゃんだって綺麗じゃない」
「そうですね。私は師匠さんの方が羨ましかったりします。背も高くて小顔ですし」
フィリシアは身長の低いことが悩みの一つであった。顔立ちがきつめなのは自覚しているので、もう少し背の高い方がつり合いが取れるのにままならない。
アリアに背丈を抜かれそうになっているため、今から伸びないか細かく身長を測っている。全く成果はないのでだんだん諦めかけていたが。
そんなことをぼんやり考えていると、ミコがむんずとフィリシアの二つのふくらみをつかんだ。唐突の出来事でしばらく思考が追い付かなかったが、事態を把握して慌てて無遠慮な手を払った。
「な、なにをするんですか!」
「むー、生意気なことを言うから揉んでみた。……よけい落ち込んできた」
「あっはっは、ミコちゃん可愛い子ねー」
インナがよしよし、とミコの頭を撫でる。彼女はショックが大きいのか、いつものお姉さん風を吹かせることはなく、撫でられるままに任せている。
「別にいいではありませんか。……サブローさんに意識されていないならともかく、くっつけばあの人顔を赤くしますし」
壁一枚しか隔てていないので、フィリシアは声を抑えながらそっぽを向く。
「たしかに昔に比べたら意識されるだけマシになったけど、フィリシアと違って二人きりでデートとかしたことないし……」
「え、なにそれなにそれ。フィリシアちゃん、デートしたの? それにミコちゃんもそうなの?」
小声ながらも、インナがやたらテンションをあげてくる。フィリシアは夜空の星々を見上げながら、ため息をついた。
「誕生日に水族館という海の生き物を見れる施設に連れて行ってもらいました。とても綺麗で楽しかったのですが……私ってサブローさんにとってはマリーみたいな存在なんだなって思い知らされました」
「途中で魔人が現れて台無しになったから、別の日に買い物に連れて行ってもらっていたでしょ」
「そのときはマリーとナナコも一緒でした。楽しかったですよ。でもやっぱり、妹二人の扱いと比べても大差なくて……」
果てがない気がしてフィリシアは気落ちする。ミコはお湯を手ですくい、肩にひっかけてから、複雑そうな顔をした。
「でもあたしはけっこうショックなんだけど。サブが鈍いのはあたしだけだと思っていたのに」
「そうなのミコちゃん?」
「うん。あいつ昔は施設でそこそこモテたし、基本ふる側だった」
え、とフィリシアが目を瞠ると、ミコは呆れたように肩をすくめた。
「施設のサブを思い出して。見た目はそれなりだけど、清潔だし面倒見がいいんだよ。好かれないと思う?」
「あ、いえ、まあ……」
納得したくない思いが、曖昧な返事をさせた。彼と付き合いの長い目の前の女性は、半眼のまま続けた。
「四年前までは子どもだからで済ませたし、気が利く上にフォローもするから尾を引かなかった。人の気持ちに敏感な奴だし。でもあたしのことだけは鈍くて、そのことはちょっとだけ嬉しかった。けど……同じくらい鈍感の対象になっている子がいるんだよね……」
どんよりしたミコが半ば愚痴るように話す。フィリシアも危機感を抱いているのは同じだったため、気持ちはよくわかった。とはいえ、なにもできないのであったが。
「同じ男を取り合っている間柄に見えないわね、二人とも」
「…………情けなくなってきました」
フィリシアにミコが同意の頷きを返した。言葉にする元気もないらしい。温泉の心地よさに疲労が癒されていくのに、気分はどんどん沈んでいく。
インナがフィリシアたちを引き寄せて、よしよしと慰めてくれた。
◆◆◆
「くしゅっ! うーん、風邪ですか?」
その割には体調が万全なので、サブローは不思議でたまらなかった。かけ湯を完璧に終えて、温泉に肩までつかって温まった。後に使う人のために身を清めるのは当然である。
イルンがその様子にすっかり感心している。
「温泉ってことで真っ先に入りに向かう人も多いのに、洗ってから入るんだな」
「後で使う人のことも考えないといけませんからね」
サブローがしたり顔で言うと、イルンはさわやかな笑顔を浮かべた。フィリシアの従兄なだけはあって、なかなかの美形である。
この温泉の所有者であるため、彼はもちろん身体を洗ってからサブローの隣に並ぶ。
「しかし男湯には久しぶりだ。いつもは妻と一緒に混浴の方に行っていたからな」
「妻……ご結婚していたのですか」
「おそらく次の族長はオレだからね。早いうちから婚約者を決められていたのさ。まあ気が合っているし、幸せなもんだよ」
サブローは納得してふと思った。
「となるとフィリシアさんも婚約者を決められていたりしたのでしょうか?」
「いや、あいつは風の族長が念入りに相手を厳選していたから、結局見つからなかった。本人も乗り気じゃなかったしな。安心したか?」
「どちらかというと心配ですね。フィリシアさん、男に対して無防備ですし」
どうにかならないだろうか、とサブローが続けると、イルンが時々エリックに向けられるのと同じ目をしていた。出会って間もないにもうその視線を向けられてしまった。なにか粗相をしたのではないかと不安になる。
「あの、どうしましたか?」
「いやいや、フィリシアは伯父に過剰なほど注意されていたから、ちゃんと警戒心を持っているぞ」
「えー本当ですかー?」
いまいち信じられず、サブローは問い返していた。何度もフィリシアに翻弄されていたから当然であるはずなのだが、イルンがだんだん残念なものを見る目つきに変っていった。
すっかり見慣れた表情だが、フィリシアと出会ってから色んな人に似たような顔をされている気がする。
「サブロー、もしフィリシアが他の男とくっついても、お前はそれでいいのか?」
「フィリシアさんが幸せなら、まあ。恩人ですし」
彼女の幸せを常に願っているサブローの答えだった。イルンがなぜか焦り始める。
「その、なんだ。お前はフィリシアと男女の関係になろうとか、そんな気はないのか? あ、それともあのミコとかいう綺麗な子と恋人関係だったりするのか?」
「二人とも家族ですよ。少なくとも同じ施設で過ごす以上、そうとしか考えられません。そんな関係にはなりえませんよ」
サブローの結論を受け、相手は顔にお湯をかけてから渋面を作った。
「……フィリシア、こいつ恐ろしいほど手ごわいぞ」
「フィリシアさんがどうしましたか?」
声が小さくて聞き取れなかったので、サブローが問うのだが、イルンは気にするなとだけ返事した。いまいち消化不良な結果で終わる。
「話は変るけど古傷だらけですごいな。まだ若いのに歴戦の戦士って感じだ」
「拷問傷のようなものですから、あまり格好いい理由でついていなかったりします」
「うへ、嫌なこと聞いて悪かった」
サブローは気にしないでくださいと、笑い飛ばした。傷がついた経緯は恐ろしかったが、二度と訪れない。平和なものである。
「そういえば宴の準備をすると言っていましたが、あれってゴブリンに勝ったお祝いですか?」
「その通り。主役はサブロー達だからな」
「僕なんかが顔を出して大丈夫でしょうか? ……あれ、イルンさんはここに居てよろしいのですか?」
「本当なら準備の指示をしないといけないんだろうけど、父さんや腹違いの弟たちに任せているよ。ぶっちゃけると君の監視もしないといけないからね」
「ああ、そういうことですか。お手間をとらせて申し訳ありません」
「え、そこで謝るか普通。オレ、殴られるのを覚悟で正直に言ったんだけど」
戸惑うイルンに、サブローは仕方がないですよ、と安心させにかかった。なのに相手は顔を曇らせたままである。
「やば、これ罪悪感がすごい」
「えーと、間違いがなければ僕が魔人だから警戒をしようってことですよね」
「その通りだな。信頼するとは決めているし、オレ個人は割とサブローを気に入ってる。ただ父さんもオレもこの里を守らないといけない。私情は抜きで、君の魔人部分を見極めようってことになったのさ」
まったくもって正しいので、サブローはそれでいいと伝えた。魔人相手にいくら警戒しても警戒し足りないということはないだろう。サブローが暴れる気はないが、他の魔人に油断してもらっては困る。これなら地の里は大丈夫だ。
「……だんだんサブローが心配になってきた。リンチされても無抵抗で受け入れそうで別の意味で怖い」
「いや、さすがに逃げますよ」
なぜか自分の身が勝手に心配されたので、あきれ顔でサブローはツッコんだ。イルンは不安そうな顔をその後も崩すことはなく、複雑な気持ちで温泉を後にすることになった。




