五十二話:お姉ちゃんと呼ばれたい
ミコは背中に背負ったリングを回転させ、空を飛ぶ速度を上げた。空から無数の空気の弾丸が飛んできて、訓練室の床を次々へこませていく。
避けきれずに二、三発届くが、その程度では全身を包む防護フィールドを破れない。天使の輪を使うもの全員が持つ基本的な力場だ。弱い攻撃なら簡単に無効化してしまう。
悔しそうな顔をするフィリシアを前に、ミコは背中と肘の部分から炎を噴出させて一気に近づく。空中での機動力は相手が優れているが、直線距離の加速と速度ならミコは負けない。
直前で制止し、機械で出来た巨大な手のひらを向ける。
「はい、そこまで」
「……まいりました」
渋々とフィリシアが負けの宣言をする。この三ヶ月の間、一本も取れていない彼女だが負けに慣れることはなかった。彼女の負けん気がミコとしては好ましい。フィリシアの場合、私情も混じっている気がするがそれはそれ。
「さて、休憩しよっか」
「……もう少しで私の世界に行かないといけないのに、一本も取れずに戦力になるのでしょうか?」
不安そうなフィリシアに頼られて、ミコは嬉しくなる。もともと一生懸命な人は好きだし、この子は家族でもあるのだ。
しかし、彼女が戦力になるかというと厳しいものがある。才能がないというわけではない。たった三ヶ月で天使の輪を扱いこなし、最近ではミコに攻撃を当てられるようになった。やる気があることもあり、素質は充分だ。
比較相手がミコや、化け物クラスに強い魔人二人なのが間違いなのだ。フィリシアは賞賛されていいレベルになっている。
「小娘は充分強くなっているし、後方で援護してくれるだけで戦力になるよ。あたしたちに誤射することはないほど、精密に風を操作できるし」
「ですが、ガーデンの作戦に参加したことも、実戦経験もありません。このまま、魔人を相手にして役に立てるかどうか……」
「それは無理」
ミコはくぎを刺しておくことにした。実際問題、魔人を相手取ろうなんて間違いだ。
「でも、逢魔を倒すには……」
「小娘がどうこうって問題じゃない。たった三ヶ月で……現地で訓練を続けるけど、そんな短期間であんな連中と戦えるはずがない。水族館で遭遇した魔人を覚えている?」
「もちろんです」
「あいつの資料はガーデンにもあるし、あたしも何度も頭に叩き込まれた。サブはあっさり倒したみたいだけど、小娘はあいつに勝つことはまだ無理だよ」
フィリシアは悔しそうに口を横一文字に結ぶ。例に出した魔人はさほど強い方ではない。それでもまだ早いのだ。
ミコも十七で天使の輪に選ばれてから、ずっと強くなるために自分を苛め抜いた。兄について回り、また未熟な時期でも実戦を経験し続けた。けれど、魔人とまともに戦えるようになるのに一年かかった。一人倒すのにそれからさらに八か月を要した。
現状もっとも性能のいい『パワーズ』に選ばれたミコでさえそうなのだ。現段階でのフィリシアの力は、あくまで自分の身を自分で守れる程度しか期待されていない。
「……せっかくこの子の力を使えるのに、私はまだ足手まといなんですね」
「そうでもないよ。異世界に送ることができるだけで価値がある。それができるフィリシアを守らずに済むってのは、すごく助かる」
ミコはポン、と軽く相手の頭に手を置いた。フィリシアが驚いた顔で見上げてくる。
「師匠さん、今名前……」
「約束したじゃない。使いこなせるようになったら、名前で呼ぶって」
「で、ですが、まだまともに戦えませんよ」
「後方から風をバシバシ撃ってくれるのも、まともに戦っている範疇だよ」
相手を抱き寄せて、耳元に口を寄せる。
「フィリシア、自分で思っているよりあんたは強い。自信を持っていいよ。あたしが保証する」
「し、師匠さん。なんだかおかしいですよ。熱がありますか!?」
「失礼な奴だなー。あたしは充分普通だよ。で、これからあたしをなんて呼ぶ?」
身体を離し、ミコは期待に満ちた顔で尋ねた。フィリシアはなにがなんだかわからない顔をしている。察しの悪い妹だ。
「いつまでも師匠なんて呼ばないでさ、気軽にお姉ちゃんって呼んで。さあ!」
「それは遠慮します……」
フィリシアに心底嫌そうな態度を取られたため、ミコは思った以上に落ち込んだ。これからも師匠と呼び続けると言われて、涙が出そうになる。
「自分から師匠さんと呼べって、おっしゃっていたではありませんか!」
「実際師匠だし。でも姉でもある!」
必死になって自分でもわけのわからない主張をすると、フィリシアはようやく折れてくれた。
「一度だけですよ。…………ミコ、おねえ、ちゃん……」
「ぎこちないのがいや」
フィリシアは耳まで真っ赤にして、歯を食いしばる。そんなに嫌なのだろうか。地味に衝撃的だ。
「ミコお姉ちゃん!!」
可愛らしい声で呼ばれ、ミコはまじまじとフィリシアを見つめる。見つめられている方は先ほどから火が付きそうなほど赤かった顔を覆い、地面に屈んだ。
「こ、ここ、これでいいですか?」
「うん、嬉しい」
嘘偽りもなくミコは喜んだ。
ミコがサブローやフィリシアとともに異世界に持ち込む荷物を相談していると、長官に声をかけられた。
「フィリシアくん、君に相談があるのだが……」
「はい、なんでしょうか」
緊張した面持ちのフィリシアが答え、長官は頷いた。
「君たちがまずあいさつに向かう地の一族の族長には、君の叔母が奥方を務めているという認識で間違いないな?」
「その通りです。叔母様は地の一族の族長、メダルドの正妻です」
「正妻?」
ミコが不穏な単語に首をかしげると、フィリシアは説明を始める。
「叔父には側室が二人います。精霊術一族で地位の高い職業に就く人は複数の妻を持つことを許されています。まあ、私の父は母を深く愛していましたから、他の女性を娶ることはありませんでしたが」
「よく我慢できるなー。あたしは独占したい」
「気が合いますね、師匠さん。私も仲のいい両親を見て憧れていますので、自分もそうなりたいと願っています」
ミコは気になってフィリシアの顔に注目するが、特に他意を感じられなかった。一度サブローに視線を移す。
まあ自分の想い人がハーレムを作るとか言い出すのを想像できないので、その点は安心した。ミコの場合はそれ以前の問題なのだが。
「まあそのあたりの文化はそれぞれだからな。こちらの世界でも一夫多妻制の国はあるわけだ」
「そうですね。私たちの世界では普通のことですし。それで、叔母様がどうかしましたか?」
「うむ。大事な姪御さんを預かっているから、それなりの物を贈ろうと思ってな」
そういって長官はフィリシアに反物を差し出した。ミコはまた実家の呉服屋か、とあたりを付けた。
「これ……正月に贈られた着物に使われた生地ですか? ……とても高級そうです」
「実際高いんじゃないかな」
フィリシアに耳打ちして、就職祝いに百万近くする着物を贈られた過去を教える。フィリシアは目を剥いて長官へと向き直った。
「あの、そんなにするものを本当に贈ってよろしいのですか?」
「命の危険がある仕事だ。本来なら真っ先に君の叔母に許可を取るべきだが、君の助けがなければ会うことすらかなわない。ならばせめて、こちらの誠意は見せたい。それにしても三人も奥方がいるというのなら、後二本選ぼう。フィリシアくん、どれがいいかね?」
いつも持ち歩いているのか、長官は着物の柄が記載されているカタログを見せて解説し始めた。視線で助けを求めるフィリシアに頑張れとだけ伝えた。ああなると長官は止まらない。満足いくまで相手してもらおうと決めて、ミコはコーヒーを飲んだ。
「俺も……異世界に行きたかった」
イチジローが赤くなった顔で心底残念そうにする。唐突に妹の部屋にビール持参でやってきて、遠慮なくがぶ飲みしてからこれである。数パーセントのアルコールでここまで酔えるのは感動的だ。弱いにもほどがある。
まだ未成年のミコはするめ足をかじる。グチグチうるさい兄の言葉を右から左に聞き流していると、玄関のチャイムが鳴った。飲む気だと察知して頼んだ助っ人が来たようだ。
「サブ、フィリシア、いらっしゃい」
挨拶する二人を部屋に招き入れる。酔ったイチジローに絡まれて、サブローが驚いた。
「え、兄さん酔っているんですか?」
「酔っていません―俺はふつうだー」
「えーいお約束の酔っぱらいのセリフが鬱陶しい。お酒弱いからね、兄貴」
「でも魔人ですよね。アルコール分解とかしないんですか?」
ミコは初耳だった。魔人と言えば兄とサブローを除けば、資料にある分しか把握していない。
「僕ら魔人は酔えないんですよ。海老澤さんがよく愚痴っていましたし、僕も無理やり飲まされましたが、アルコールの影響を受けたことはありません」
「じゃあ兄貴は……逢魔の魔人といろいろ違うからかな?」
サブローと二人でだらしない兄を見下ろした。『魔人を殺す魔人』が逢魔の魔人と仕様が違うのは確認されていたのだが、サブローが来てからどんどん浮き彫りになっていく。いったいガーデンはどこまで把握しているのだろうか。
まあとはいえ、今回の任務だとイチジローは留守番だ。存分にこの世界でグダってもらおう。
ミコがそう結論付けていると、サブローの持っていた買い物袋をフィリシアが奪って話しかけてくる。
「とりあえずなにか食べるものを作ります。師匠さん、台所をお借りしてもよろしいですか?」
「任せた。あたしの冷蔵庫に食材は期待しないでね。飲み物以外入っていないから」
「大丈夫です。サブローさんに聞いていましたから」
さすが付き合いが長いだけあって、サブローはミコのことを理解していた。調味料まで買ってきたらしい。準備万端である。
こと、ミコは料理に関して才能がまったくない。味付けは塩の袋一つ全部投入するくらい大雑把だし、レシピなんて見方すら知らない。変な切り方をするらしく、台所が悲惨なことになる。施設でも調理実習でもとにかくじっとしていろと言われ続けた女だ。
「手伝います」
ミコに対し、サブローはそこそこ料理ができるのでフィリシアに続いて台所に向かった。手伝いが好きだったこともあって、家事は鼻唄交じりでこなせる男だ。
ここ三ヶ月、ミコはそんな何気ないサブローを見かけては安心している。四年も離れていたから、どこか変わったのではないか、知っている幼馴染の姿はちゃんと残っているのか、不安だった。
拍子抜けするほどサブローは変らなくて、とにかくありがたかった。鼻の奥がツーンとしたので、するめをかじって誤魔化す。
しばらくそうして待っていると、簡単なつまみを作り終えたフィリシアたちが戻ってきた。
「するめ……イカですよね」
「そうだけど、なに?」
「そういえばフィリシアさん、イカはあんまり食べませんよね。嫌いなんですか?」
「味は美味しいと思います。ですが、どうにも……」
フィリシアは気まずそうにサブローに視線を向ける。ミコも察しがつき、彼女は真面目すぎると思った。まだわかっていないサブローのために解説する。
「サブを思い出しちゃうから食べたくないってことか」
「まあ、そうなります」
「いや、別にイカに同族意識はありませんよ!?」
そんなのはフィリシアも知っているだろう。サブローがイカの刺身やイカスミパスタを美味しそうに食していたときも同席していた。
「ちゃんと理解していますよ。ただ、何度もあの姿に助けられたので、申し訳ないと言いますか……すみません。上手く説明できないです」
それはそうだろう。こんな美味しいものに連想される人はそうそういない。ミコはお構いなしにどんどん食べていくが。
「……それに食べるより食べられる方が嬉しいですし」
「ちょっと待て」
サブローに聞こえないように声を押さえたフィリシアの呟きを、ミコは偶然耳に拾った。一度気まずそうに口元を押さえた彼女は、やがて腕を組んで挑戦するような目を向ける。
油断していた。ここのところすっかり可愛げが出てきたから、フィリシアがライバルであることをミコは忘れていた。
「二人とも、急にどうしたんですか?」
原因のサブローが焦るのだが、ミコにもどうしていいのかわからない。このニブチン次第であることにだんだん腹が立ってきた。
「だいたんだなー。いいぞーもっとがんばれー」
サブローが拾えなかった音をこの酔っぱらいは耳にしていたらしい。とりあえず叩いて酔いすぎなのを八つ当たり気味に注意する。
その夜は酔いつぶれたイチジローをサブローに運んでもらって、解散となった。




