三話:お願いされました
「フィリシア、私が囮になるわ」
急に母が提案し、フィリシアの顔が強張る。
言い出した母はいつものスカート姿ではなく、旅装束のズボンをはいて動かす足の速度を緩めないままだった。
フィリシアとマリーも逃げるために同じ格好をしている。
一昼夜逃げ回っていたため、三人とも薄汚れていた。
「で、でも……」
「王国兵はもうそこまで迫っています。私が精霊術で引きつけるから、その間にマリーと一緒に魔人を呼び出しなさい。……この荷物、落とさないでね。いつかあなたたちに必要なものが入っているから……」
そういって荷物を押し付けてきた。
フィリシアは嫌々と首を振るのだが、母は全く意に介さずに踵を返してしまった。
「フィリシア、マリーを連れて逃げなさい!」
母が叫び、精霊術を使いながら王国兵を引きつけて離れていった。
たしかに王国軍の動きは早く、風の一族が慣れた森の中でさえ追いつかれそうになったのだ。
「おかあさん!」
「マリー、だめです! 振り返っては追いつかれます!!」
「うう……おかあさん……」
兵士が威圧するように雄たけびをあげて迫ってくる。
立ち止まっている暇はない。母が無事に逃げ延びるよう祈りながら、姉妹は必死に駆ける。
風の精霊術を使う音がだんだん途切れ途切れになり、小さくなっていった。
フィリシアの歯の根が合わない。油断すると足が震えそうになる。
それでも、手を握る小さな妹の存在が挫けそうになる心を震え立たせていた。
「見えた……」
目的の洞窟を発見し、フィリシアは飛び入る。王国兵の靴音が聞こえるため振り返っている余裕はない。
暗い洞窟の中を転ばずに走り続けれたのは運がよかったのだろう。
行き止まりにしか見えない岩肌へとたどり着く。
「おねえちゃん、どこにも道がないよ!」
「ここで間違っていません、大丈夫です」
フィリシアは岩肌に触れ、術式を発動すると壁が二つに分かれて道ができる。
閉じ直している時間はないため、妹を引っ張って中へと入った。
古ぼけた神殿のような建物が目の前に鎮座し、中央には魔法陣が置かれていた。
転移や他の術式の魔法陣と違い、一目でまがまがしい物だとわかる。
本来ならば触れようと思わないだろう。
「ガキが、止まれ!」
荒々しい制止を振り切り、フィリシアは魔法陣の中央に触れた。
魔力を流し込み、淡く魔法陣が光る。詠唱が頭に流れ、口を勝手に動かし始めた。
「風の精霊王にお願い申し上げます。すべての神々よりも前に存在するお方に取り次ぎ、世界の門よりお招きください……」
「キサマ、やめろ!」
王国兵の一人が召喚を中断させようとフィリシアを吹き飛ばした。
はずみでフィリシアはマリーを手放してしまい、距離ができてしまう。
だが、やめたくても召喚の詠唱は止まらない。
「我らが白の世界に、青の世界より……魔人、召喚!」
言い終えると同時に兵士に組み伏せられ、フィリシアは逃れようと必死に抵抗した。
しかし成人少し前の少女では鍛えきった男の手から逃れられない。
一人取り残された妹に視線で逃げろと訴えるが、マリーは一歩も動かない。
「こ、このガキ!」
王国兵に腹をけられて息が詰まる。もう召喚は完了してしまったためただの八つ当たりに過ぎないが、この状況はフィリシアにとってもまずかった。
魔法陣の発する光が薄暗い堂口に満ちて視界が真っ白になる。
「おい、殺すな! 族長一族の娘は捕まえろって命令だろ」
「で、でもよ……くそっ」
精霊が騒ぎ、洞窟内が濃厚な魔力に満ちた。
マリーと距離が離れるのに、魔人を召喚してしまった。
光が徐々に収まりつつある魔法陣を、フィリシアは凝視する。
誰もいなかったはずの魔法陣には、異形の存在が現れていた。
三角に尖った頭頂部。身体と頭の大きさはほぼ同等。何本か千切れているがいくつもの触手を持つ。不気味に光を反射する堅そうな皮膚。
まさに魔人と呼ぶにふさわしい化け物だった。あんなに高圧的だった王国兵も言葉を失っている。
「魔人さん!」
よりにもよって、一番最初に言葉を発したのは妹だった。
フィリシアはマリーに逃げてと言いたいが、伸し掛かれて言葉にできない。
魔人が大事な妹へと視線を向けている。
「お願い、おねえちゃんを助けて!」
フィリシアを助けてほしいと妹が願っていた。
思わず涙が出そうになる。怖いだろうに、逃げ出したいだろうに、それでもフィリシアを想ってくれたのだ。
魔人は一度こちらを見て、再び妹へと視線を戻した。
フィリシアは心の中で必死に叫ぶ。なんでもするから妹だけは手出ししないでくれと。
「ええ、僕に任せてください」
魔人がうなずき、穏やかな声で答えた。フィリシアの思考が一瞬停止する。
すると魔人の姿は消え、次の瞬間にはフィリシアの目の前に現れて王国兵をあっさりとなぎ倒した。
吹き飛ばされた仲間を抱えて、王国兵が槍を魔人へと向ける。
「今ここで逃げるのであれば追いません。やり合うなら容赦はしませんよ?」
魔人は警告し、岩を砕いて王国兵を追い払った。妹だけでなく、王国兵にまで死者が出ずに終わりフィリシアは戸惑う。
とはいえ気にしている余裕はない。すぐに妹に近づいて抱き上げる。
「おねえちゃん! よかった……よかったよ~」
「マリー、ごめんなさい、ごめんなさい!」
自分でも何を謝っているかわからないが、妹が無事でいてうれしい。
お互いの無事を痛いほど確かめたとき、視界の端で魔人が人へと変化して倒れた。
驚いて振り返ると、魔人だった男の腹部から血が流れている。
王国兵相手にはほぼ無傷で対応したため、なぜ怪我をしているのかわからずフィリシアは混乱した。
「あ、魔人さん!」
マリーが姉の手を逃れて魔人に近寄り、風の回復術を発動した。
フィリシアも遅れて回復術を風の精霊に頼んで使う。
事情は全く分からないのだが、魔人にはまだ生きてもらわなければ困るのだ。
正直風は精霊術の中で回復術を一番苦手とする属性なのだが、使えないわけではない。
妹と力を合わせて、魔人の傷を癒すのに力を注いだ。
あまり長い時間は経たなかった。
魔人が目を開いてこちらをじろじろ興味深そうに見た後、勢いよく上半身を起こした。
フィリシアは思わず身体が強張り、心臓が早鐘のように鳴った。
すると魔人は視線を精霊に移し、きらきらと好奇心に目を輝かせる。
視線がそがれたことでようやく、フィリシアは魔人らしき人物を観察できた。
見た目だけなら黒髪黒目の冴えない顔立ちだった。
着心地のよさそうな服を上下紺色で統一している。上着の中身は白い簡素な服だった。
年齢は十四のフィリシアとそう離れていないように見える。垂れ下がった目が声と同じく温和な印象を与えた。
「魔人さん、けがはもういいの?」
妹が声をかけると、魔人は急いで姿勢を正して頭を下げた。
「助けていただきありがとうございます。僕はカイジン・サブローと申します」
「カイジン? サブロー?」
「カイジンが姓でサブローが名前です。気軽にサブローとお呼びください」
「サブロー? 魔人さんはサブロー……サブロー……」
妹が名前を何度も繰り返すが、おそらく精霊術一族に存在しない姓が珍しかったのだろう。
フィリシアは王都や魔法大国に行ったことがあるため、姓の存在は知っていた。
魔人のように姓の後に名前が来る国は珍しかったが。
「本当に助けていただいて……どれだけ感謝をしたらいいのか。僕に出来ることがありましたらなんでもおっしゃってください」
最後の言葉に、フィリシアの心の均衡が崩れた。
「力になりま……」
「なんでも……本当になんでも聞いてくれますか……?」
目の前の相手が魔人だという恐怖すら忘れ、フィリシアは詰め寄った。
おかげで引き気味にうなずく魔人という珍しいものを見れたのだが、構っている暇はない。
「お願いします……魔人サブロー様。私たちを……風の精霊術一族を王国軍の虐殺から助けてください!」
助けを求めたきっかけに、フィリシアは胸にたまったものをサブローにぶつけ始めた。