一六九話:抱いた中で一、二を争うイイ女
嵐のような拳の乱打に対応しながら、海老澤はオンゾクに対する評価をいくつか上げた。
あのバカにするような挑発に対しても、相手は苦笑一つ漏らすだけであった。普通なら怒ると思うのだが。
「恐怖心がないのか?」
オンゾクに尋ねられ、海老澤は首をかしげた。
「あるに決まっているだろ。お前さんの攻撃がかするたびにビビっているわ」
黒い魔人の外装はところどころ傷が生まれていた。丸太並みに太い腕が風を切り裂いて迫ってくるのだ。かすっただけで傷を与えてくるのは、道理であった。
スリリングだ。サブローと二人がかりで倒した魔人と同じ力が、理性を持って振るわれている。命を狩りとろうとしてくる。
海老澤は笑い、胸板を打つ。かすかに敵を揺らがせただけで、効果は薄い。反撃を受け、身体が大きく吹き飛んだ。
「エビサワさん!」
ディーナが涙声で叫んでくる。海老澤は内心呆れつつ指摘した。
「俺に、構うな。後ろから魔物がきているぞ」
声がかすれてしまった。痛みがあるから仕方ない。
「ヒト、を、救済するには、死、しかない。死こそ救済。神のくびきを断つものなり!」
オンゾクが苦しそうに、だがしっかりと己を保って歩み寄ってくる。それに気づいた他の魔人が、あの変化をもたらせた針と次々と準備し始めた。
「オンゾク様があれなら……俺たちだって……」
「強くなれるんだよな。あんな風に」
どうも針のデメリットは聞かされていないらしい。オンゾクが理性を保っていることが例外であるというのに。
ナギがそうはさせないと聖剣を振るう。魔人を二体切り裂いたが、他のものが針を打ちこむのは防げなかった。
「ぐああああぁ!」「げぇ、ぎゅ、ぶぇぇ!!」「話が、話がちがああぁぁぁぁ!」
残りの魔人が変貌していく。肉が盛り上がって知能のない化け物と化していった。
「厄介だな。エビサワ、わたしがあれらを倒しきるまで耐えられるか?」
「助けなんていらねえよ。倒したらよそに行きな。たぶん、他の魔人も同じことをしている」
「この状況でそこまで言えるかねぇ、普通。エビサワの旦那も頭おかしいわ」
引き気味のゾウステを捨て置き、海老澤は右拳を固めた。足に力を込めて跳び、敵の懐に潜り込む。
剛腕が振るわれるが、タイミングを合わせて手のひらで弾いて逸らした。もっともそれだけで済むわけがなく、打突の嵐が巻き起こる。
圧倒的な力に身体を流されながらも、一つ一つ丁寧に対処をした。
「サブローみたいな動きだな」
こちらをチラ見したナギが嬉しそうに感想を漏らした。肉塊と戦いながらも、大した余裕である。
それにしても的確な感想だ。これは、海老澤を相手にしたサブローの動きを真似たものだからだ。
あのとき力に翻弄されていたのは相手だった。ずっと身近で見て、尊敬した捌き方だから脳裏に焼き付いた。
半分でも再現できれば儲けものだ。拳の一撃を大きく上に跳ね、敵の隙を作る。引き絞った拳を矢のように放ち、敵の頬を打つ。
オンゾクがぐらりとよろめき、たたらを踏んだ。どうやら水の国の七難や、後ろの雑魚魔人と違い、針を打ちこんでも痛覚は残っているようだ。光明が見えた。
海老澤は追撃を開始し、自らの脇腹を殴られたのも構わず、カウンター気味の一撃を与えた。
夢の中だと海老澤は思った。
『エビサワは半分、あっち側ヨ』
いつかの過去、ベッドの上で惜しみなく褐色の素肌を晒していたイイ女――洗脳組のサンゴは笑ってそう言った。
彼女は同僚でもある。もちろん出会ったときに口説いたのだが、玉砕したので関係はそのままだ。
ただまんざらでもない様子だったので、たまに飲みに行ったり、寝室に誘ったりもした。彼女の興が乗れば夜の相手もしてくれており、セフレに近い間柄になった。
外国人なのは知っていたが、東南アジアのどこかとしか彼女は教えない。
喋りたくないのなら仕方ないと、当時の仲間たちは掘り下げようとしなかった。
『あっち側ってなんだ?』
『んー、なんというか、魔人側ってことかナァ?』
海老澤は少し嫌がる。思い返すのは、あの傍若無人な魔人連中だ。
『たぶん、エビサワが考えていることは違うヨォ。魔人のほとんどは、結局人間であることから逃れられていないネ。アタシも、あのむかつく魔人どもも、アンタの半分も』
『そんなもんかね? 俺はどこまで言っても自分が人間だと思うわ。じゃあその魔人って、誰が対象なんだ?』
『ん。鰐頭やあのむかつく竜妃……そしてサブローかな。アンタの半分も、そっち側ネ』
ピートは話したことがないからわからない、とサンゴは言いながら海老澤の胸に額を押し付けてきた。
『なんだそりゃ?』
『魔人の中には心まで超人になっている人がいるネ。鰐頭とサブローは、多分最初から。あの二人は強靭すぎるヨ』
海老澤はおおむね同意であった。洗脳に抵抗できるほど頑固であり、逢魔にいるにもかかわらず善良さを保てているサブローは人から外れた精神力を持っていた。
鰐頭は人どころか魔人でさえ挫けるような苦行を自らに課し、半年で竜妃並の戦闘力を手に入れたと聞いていた。事実かどうかは海老澤にはわからないが、あの力を得るまで鍛えきった精神は並外れている。
『竜妃は……自然にそうなった感じがするネ。ずっと昔は普通に人間だったかもしれないけど』
『サンゴちゃん、勘が良いもんな。んで、俺はなんで半分そっちなのさ』
『ソウ……エビサワは普段楽しければそれで良くて、デモむかつく魔人連中みたいに人を傷つけるのは楽しいと思えない。アタシからすればずっと好ましい方のフツウ』
『褒められてんのかな? まあそりゃそうだろ。無抵抗な相手を嬲ったところで楽しくともなんともねえ。だって失うものがねえし』
『ソレネ』
サンゴが海老澤の鼻の頭をチョンとつついた。会心の笑顔である。
『エビサワは失うことを怖がらない。むしろ望んでいる節がある。イヤ、違うネ。失うか失わないかのギリギリを楽しんでいる』
『賭けをする以上、そんなもんだろ。それ以外に楽しめる部分ってあるんかね?』
『エビサワ。普通の人は得るために賭けをするヨ。まあお金をどぶに捨てて楽しむってセレブもいるんだろうけど、アンタはちがうヨ。エビサワは失うために得ている。手に入れた物に興味ない辺りは、サブローに似てるネ』
海老澤は不意を突かれてしまった。サンゴが指摘した点は、サブローで不満を抱いている部分だ。よりにもよってそこが似ていると言われてしまった。
海老澤が押し黙ったのを、ふて腐れたと思ったのか、サンゴは優しく頭を撫でてくれたのだった。
「エビサワの旦那ぁ!!」
ゾウステのだみ声で正気を取り戻し、正面を向いた。今一瞬、意識が吹っ飛んでいた。このままでは危ないところだ。
しっかりと足を踏みしめ、四肢に力を入れる。目の前にはまだふらついているオンゾクがいた。
「しゃぁっ! ゾウステ、助かった!!」
海老澤は敵の胸板を蹴り、間合いを広げた。追撃をする前に、息を整える。
「けど惜しいわ。もうちょい夢を見ていたかったぜ」
「なんでだよ。そんなにいい夢だったんか?」
「あれは俺が抱いた中で一、二を争ういい女だからな。羨ましいだろ」
ゾウステに軽口を叩くと、呆れた視線を集中された。笑っているのはナギくらいである。
剣を振る手を緩めず、セスが責めるように言う。
「こんなときに女性を抱いている夢ですか……」
「図太すぎてビビるわ、エビサワの旦那」
「おう。オンゾクつったか? お前、自慢していいぜ。戦闘中に俺に夢を見せた奴は、今まで三人しかいなかったからな」
竜妃、鰐頭、サブローの顔を浮かべて笑う。「けっこう多いのね」とかいうベティの疑問は無視しておく。
だいたい親衛隊が多すぎる。ちんちくりんであるナギのどこがいいのか、本気で分からない。
なおナギ本人は「ならあとでわたしも挑戦してみるか」と物騒なことを呟いていた。
「そうか。あの世で自慢しよう。しかし、我が身体はもはや猶予がない。この戦いは……」
「ああ、次の一撃で終わろうぜ」
一瞬の停滞。
二人は機運を高め、同時に地面を蹴った。百メートルは離れていた間合いが、一気にゼロになる。
先に仕掛けたのはオンゾクだ。
唸る剛腕は弾くのも捌くのも許さない。ただ一直線に命を奪い取る、愚直なまでの意思を乗せていた。
海老澤は受けとめ、その勢いのまま地面へと倒れこんだ。ただ、オンゾクの身体を巻き込むのは忘れなかった。
オンゾクが息を飲む。巴投げの要領で巻き込まれた身体の胸板に、両足が添えられた。
黒い魔人は限界まで身を縮めて力を溜めこみ、そのままエビを模している特性を持ち、全身のバネを活かして天高くオンゾクを打ち上げた。
海老澤は起き上がり小法師に似た動きで地面に立ち、再び力を溜める。ブチブチと身体の中の筋線維が千切れたかのような音が聞こえてきたが、構わず飛び跳ねた。
落下の勢いのまま両手を組んで振り下ろそうとするオンゾクに向かい、音速に近い速度で海老澤は突撃した。
宙で激突した魔人は衝撃を生み、雷鳴のごとき轟音を響かせる。
空気が震える中、決着がついたのだった。