一二一話:ピートの迷い、サブローの決意
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「くそっ、なんなんだあいつは!?」
イチジローがすぐに魔人へと変わり、ピートが駆け消えた石室の出口を睨みつけた。フィリシアは初めてイチジローの背中に恐怖を感じる。こんなに怖かったのかと青ざめてしまった。
今にも爆発しそうな激情に任せ、追いかけようとしたイチジローをイ・マッチが止める。
「お待ちください」
「そこをどけっ! 例えあなたでも、邪魔をするなら容赦はしない!!」
「いいえ、退きません。センチさんの言葉を覚えているでしょう。竜妃に渡す、と。このまま追いかけ、手を組んだ二人を前にすれば、あなたと言えど無事にはすまない」
「ふざけんな! 理屈じゃない!!」
「……そしていまだ毒針の影響を強く受けている」
イ・マッチは言い終えると同時にイチジローを組み伏せた。音もなく静かに行われた動きに、フィリシアは心底驚く。
勇者としての技量は見ての通りだが、力では大幅に劣るのに見事なものである。
「おま……えっ!」
「勇者で一番非力な私でさえ、今のあなたは抑え込まれます。それとも一日に一度しか使えない強化を、いまここで使いますか?」
通りたければその覚悟をしてもらうと、イ・マッチは暗に告げている。イチジローの声が一段と低くなった。
「上等だ……」
イチジローが器用にリストバンドを操作し、強化を始める電子音を鳴らす。イ・マッチも聖剣の柄に手を置いて、迎撃の用意を始めた。
フィリシアはただおたおたと戸惑うだけだ。サブローを助けに行きたい気持ちは確かにある。だけど、明らかに冷静さを失くしたイチジローを前に、それどころではなくなってしまった。
止めに入るべきだと立ち上がろうとしたとき、頭を優しくなでられる。その手の主のミコはそのままイチジローの前にしゃがみ込んで、頬を張った。
「なにをするんだ!」
「兄貴、落ち着いて」
魔人の硬い頬を叩いたため、ミコの右手は赤くなっている。けどそれ以上に、握りすぎて血が滴っている左拳の方が、フィリシアは気になった。
「悔しいけど、あのピートって魔人と、竜妃って化け物が相手だと戦力が足りない。ちゃんとイ・マッチさんと協力をして」
「……でも、サブが…………ようやく、帰ってきたサブが……」
「うん。あたしもすぐに追いかけたい。フィリシアだってそう。けど……あたしたちだけじゃ、兄貴とあたしたちだけじゃ、今はどうしようもない。みんなが傷ついて一番辛いのはサブだから、いったん体勢を立て直そう」
血を吐くような思いで、ミコは告げたはずだ。フィリシアも同じ気持ちであるためよくわかる。
イチジローは呻きながら地面を何度もたたき、やがて人へと戻る。イ・マッチはとっくに拘束を解いていた。
「アネゴ二号。ひとまず地上に出て、ガーデンと連絡を取ってから戦力を……」
「創星様、それには及びません。すでに連絡はつけております」
いつかドンモたちや、調査隊の面々が持っていた物に似た魔道具の鈴を、イ・マッチは手にしていた。穏やかそうに見えるが、瞳が怒りに燃えている。
「舐めた真似をしてくれましたね。私の国で、私に約束を反故にさせるなど……」
「お、おい。イ・マッチ、お前も落ち着け!」
「エンシェントドラゴン様が絡んでいる可能性は高いでしょう。タイミングが良すぎる。私はみなさんを地上に送った後、引き返して話を聞きに戻ります。この鈴を鳴らしたので、水の国で待機している勇者二人と、海老澤さんは間もなく駆けつけてくれるでしょう」
「用意周到だな……」
「創星様、竜妃は油断できない相手ですからね。これくらいの準備はしていないと、皆様方に申し訳ありません。……一番謝罪をしないといけない人を、助けないとなりませんし」
イ・マッチは帽子のツバで顔を隠したのだが、覗いた口元が牙を見せて怒りを隠せずにいる。あれは自身に腹を立てているように見えた。
フィリシアも連れていかれたサブローを思い、下唇を噛む。ピートが不審なのはうすうす勘付いていた。ミコとも相談し、二人で警戒することを決めていた。
だけどなにもできなかった。あれほど様子がおかしいのに、まったく警戒しないイチジローとサブローの責任もいくらかあるが、気づきながらも止められなかったのは純粋に弱いからだ。
力が欲しいと切実に思いながら創星を拾う。戻ってきた彼に返すために、今はフィリシアが持つことにした。
「サブローさん……絶対助けます」
無意識のつぶやきに創星がうなずくような動作をした。怒り心頭なのはイチジローとイ・マッチだけではなかった。
◆◆◆
サブローは首に刺さるラセツの針を追加されて、丸一日は動けない状態だと告げられた。地面に転がされ、口の周りの筋肉が正常に動くことにホッとする。
喋れないとなると困る。人気のない岩場で目線だけを動かし、事の原因であるピートを見つめる。
「これでよかったのですか?」
「……恨み言を言ってもよかったんだぞ」
サブローと視線を交わすのが怖いかのように、ピートは背を向けたまま問うた。思わずため息が出る。
「最初に会ったときからおかしかったのは気づいていました。ただ、兄さんがあの調子ですから、話せないのではないかと」
「…………他の魔人と同じく、俺を敵と見るだけでよかったんだ」
愚痴るようにピートはこぼす。
「ガーデンを裏切ったんだぞ、俺は。逢魔に所属して、『魔人を殺す魔人』と同格の、厄介な敵として生まれ変わった。なのになんで奴は態度を変えない?」
「兄さんは身内に甘い傾向があります。きっとピートさんもその認識から変わらないままなのでしょう。何度か兄さんを助けたり、他の魔人を止めたりしていましたから」
「だがそれも終わりだ。俺はお前に竜妃に引き渡す。これでようやく奴は殺しに来る」
「手間を取らせる兄で申し訳ありません」
「思ったより余裕だな。これからあの女に会うというのに」
サブローは意地でもにっこりと笑う。本当は泣きわめきたいし、吐き気を堪えている。胸のお守りがなければ会話すらままならなかっただろう。
だけど同時に竜妃に言いたいことがある。ずっと怯えずに向かい合い、決着をつけたいことがあった。
「本当はイ・マッチさんには期待していました。竜妃を倒す手助けをしてほしい、と頼まれることを。でも彼は事情を知りすぎていました。そのうえ、優しかった」
我ながら勝手なことを言っていると思う。まともに戦えるわけがないとわかっていながら、不満を抱いてしまった。
「ピートさんとはお互い様です。僕が竜妃に会うために利用しました。ですので、気に病むことはありません」
「……お前は相変わらず甘い」
ピートは呆れているのか、安心したのか、声音では判別がつかなかった。ただ会話を打ち切るかのように座ったまま腕を組み、目を閉じた。
サブローも動けぬ身体を休めて、竜妃と対峙する準備をすることにした。ただ心を落ち着かせ、備えるだけだがやらないよりはよかった。
竜妃が現れたとき、なるべく取り乱さないために。
丸一日が経ち、サブローは身体の自由が戻ってきた。各所の筋肉をほぐしながら、背を向けているピートを見つめる。
新たに拘束をしようという動きが見られないのは、逃がさないという自信からだろうか。いや、違う。
サブローとしては、いまだ彼が迷っているように見える。そうであって欲しいという自身の願望かもしれないが、こういう悪事に向いている人ではない。
無言でピートの隣に立ち、大人しく竜妃を待つ。首から下げたお守りを強く握りしめるが、手の震えが止まらない。
ピートに大口を叩いたというのに、魔道具というずるまでしているというのに、サブローは自分が情けなくて仕方がなかった。
「サブロー」
ようやくピートが話しかけ、その横顔を覗いた。彼は剣を生成し、剣先を折ってもぎ取った。そのままサブローに渡す。
「耐えられなかったら、そいつで喉元を突け。魔人でも死ぬことができる」
不器用な優しさだ。彼はサブローのことを甘いと評したが、自身もそうだと気付いていない。
サブローはもらった剣先を内ポケットに収めてから、冗談めかして笑った。
「いただきます。でも自殺なんてしませんよ。……すれば竜妃がなにをしでかすか、わかりませんから」
途端にピートは余計沈む。少々悪趣味な冗談だったと今更気づいて謝罪した。
「安心してください。ちゃんとこれは使わせてもらいますから」
「……逃げろ」
苦笑しつつ、サブローは欠片もその発言を不思議に思わなかった。青ざめた顔では格好がつかないだろうが、静かに首を横に振った。
ピートは珍しく大きく顔をしかめ、両肩を強くつかんで揺らす。
「あの女が来たらどんな目に遭うか、お前が一番分かっているはずだ。一目散に逃げろ」
「違います。僕は、僕自身のためにここで竜妃と再会することを望んでいます」
強い意思を両目に乗せて、相手を射抜いた。
「それに、確かにこんなことでもないと、あの兄さんがピートさんと本気で戦う機会はないと思います。正直そんな考えを改めて欲しい気持ちでいっぱいです。しかし叶わないことはわかっているので、いっそ気のすむまでやってきてください」
「……そうだな。俺はお前を犠牲にして、奴の本気を手に入れる外道を選んだ。今更なにを取り繕うと……」
「そのことはいいですよ。昨日言ったとおり、僕だって利用していますから」
ピートの気が晴れないことはわかっていても、言わずにいられない性分だった。二人して遠慮し合うような会話が途絶えると、扉が現れる。この世界に来て知った、竜妃の力だ。
徐々に開いていく様子に、サブローは息を飲んだ。これからが本番だと、萎えそうになる己の心に活を入れ、竜妃が現れるのを待った。