一○六話:悪夢に苛まれる君と
暗い、乙女チックな部屋にサブローはいた。同時にこれは夢だと認識する。なぜならこの部屋にいた半年間は過去のこと。もう二度と、戻らなくていい場所だったからだ。
しかし恐怖が刻まれた心は言うことを聞いてくれない。扉が開き、部屋の電気がついて主が帰ってきたことを知らせる。
――良い子にしていましたか?
壊れたブリキ人形のようにカクカクとぎこちなく首肯し、機嫌を損ねないように必死に身を縮めた。竜妃は一瞬だけ悲しそうな顔をしてから、すぐにどろりとした瞳を向けて微笑みへと変わった。
ゆっくりと両膝を折り、這いつくばっているサブローを見下したまま、いい匂いのする袋を眼前に差し出した。
――お食事の前にお勉強をしましょう。わたくしは旦那様の大事な人ですよね?
サブローは肯定をした。こうなる少し前なら、嘘偽りでない答えであったのに。
竜妃は確かめるように何度もまばたきをしてから、妖艶な唇を動かした。
――では、わたくし以外の大事なものを捨ててもよろしいですね?
サブローは真横に口を結んだ。勘弁してほしい。この言葉にうなずいた瞬間、彼女は嬉々として壊しに行く。大事な家族の顔と、逢魔で出会った仲間たちを思い浮かべて必死にうなずきたくなるのを我慢した。
熱を宿した爪を身体に押し当てられ、自らの肉の焼ける嫌な臭いを嗅ぎながら、許しを請い、早く終わってほしいと願い続けた。
「うわぁっ!!」
目を覚ましたサブローは周囲を見渡し、この場が病院の一室であることを思い出して安堵した。同時に吐き気を催す。自らの腕に針を突き刺している点滴を片手に、なるべく早足でトイレに駆け込んだ。
もはや胃液しか出せるものはない。なのにずっと気持ち悪く、起きてはトイレにかじりつく日々を過ごしていた。これが日本に戻り、病院に入院させられて点滴をつけられている理由だ。
竜妃と再会してから一週間、サブローは食べ物を受け付けない状態であった。下唇を噛み、頭を抱える。
色んな人に心配をかけているのに、一向に良くなる気配がない。見舞いに来たマリーを始めとした家族の痛々しそうな顔が忘れられない。母親のように慕っていた園長に恐怖心を抱いてショックを受けさせてしまった。
異世界の逢魔の方は兄と海老澤を中心に動くことになっていると聞かされている。肝心なときに力になれなくて、魔人であり、勇者でもあるのに、役立たずっぷりに申し訳なかった。
小さな吐き気を引きずりながら、サブローは自室に戻る。力の入らない身体をベッドに投げ出し、今度は悪夢を見ないように祈りながらまぶたを閉じた。
◆◆◆
フィリシアは日本に戻っていた。異世界であるはずなのに、もうすっかりこの施設を自分の帰る場所だと認識している。久々に家族と楽しく過ごした。それでも胸に空いた寂しさは埋められない。
自然とフィリシアは主が不在の部屋へと訪れていた。サブローの整頓された部屋は、相変わらず物が置かれていなかった。
基本、相部屋をあてられる施設において、彼は一人だけ個室を与えられていた。サブロー自身は昔のように相部屋でも構わないと主張していたのだが、年齢のため園長は気を遣って個室にしていた。一人暮らしの方は相変わらず許可が下りていない。
彼のベッドに腰を掛け、フィリシアは竜妃との戦いの後を回想し始めた。
サブローが倒されたと聞いて、水の国王もノアも最初は信じられなさそうにしていた。
なにしろ伝説の魔人を撃退した男だ。特に目の前で戦いを繰り広げられたノアの疑いようはすごかった。しかし目を覚ましたサブローの怯え、吐き続ける姿を見て、事の深刻さを実感していった。
「なにしろ、わたしと海老澤を合わせて子ども扱いにするような相手だ。サブローを責めないでやってほしい」
ナギの証言に水の王は言葉を失くした。魔人の問題が深刻さを増している状況だ。誰でもそうなるだろう。
とりあえずこの一件は口外無用となる。国を救った英雄をここまで無残な状況にする魔人の情報は、蹂躙を経験した民には酷であったからだ。
「ひとまず、転移系統を収めた魔導士を日本に送り込んでいる。戻ってくれば行き来がたやすくなるだろうから、勇者カイジン・サブローの代わりはできているわけだ。タイミングよく休みを与えられる」
パルミロの発言に長官が同意し、日本の病院へ連れていく手はずになった。サブローの代わりを用意できる、という部分にフィリシアは多少嫌な思いをしたが、彼のために受け入れないといけない話だった。
壊れた天使の輪を修理に出す必要もあったため、フィリシアとミコはサブローとともに日本へ一時帰宅することになった。ひとまず治療に入らないといけないサブローは先に行かせ、世話になった人たちに声をかけて回る。
「ふーん、それじゃ仕方ないわね。サブローが元気になったら、真っ先にわたくしのところに連れてくるのよ」
愚図るかもしれないと思っていたクルエはそう言いきり、照れたように顔をそらした。フィリシアは感謝を述べ、ミコとともに必ず元に戻ったサブローを連れてくることを約束する。
思わぬ彼女の成長を実感し、次の人物に報告しに行った。
続けて話をした相手は、ナギと親衛隊の二人、ゾウステ、そしてカスペルであった。事の成り行きを知ったゾウステは驚く。一方、エルフの翁の方はサブローの不吉を占っていたため、当たって欲しくなかったという落胆をしていた。
「……エルフの翁、お前さんの予言の存在は殺戮姫だ」
「殺戮姫…………竜の魔人の!? あやつ、生きておったじゃと?」
創星が忌々しげにその通りだと告げると、カスペルは弱々しく机に突っ伏した。ゾウステが戸惑いのまま尋ねる。
「な、なんだ。その物騒な名前の奴は?」
「五百年前、そう呼ばれていた竜の魔人がいるんだよ。魔王より強い、初代勇者のアネゴたちでも倒しきれなかった厄介な奴が」
「わたしたちも空中で戦っている姿を見ました。しかも後で話に聞いたところ、サブローさんどころか、エビサワさんとナギまで子ども扱いしたそうです」
「とても信じられない話ですが、事実です」
ディーナが恐怖に震え、セスが悔しそうにうつむく。ナギはただ黙って肯定した。
「しかし、魔人は人と寿命が変わらないはずじゃ。あやつはなんらかの長寿の種族だったということかの?」
「いや、事は単純。魔王から不老長寿の霊薬をもらったらしい。異世界に連れていくのを条件にな」
「抜け目のない……」
カスペルが絶望に長く息を吐いた。重苦しい空気が部屋に満ちる。しかし創星とナギは明るい話題も持っていた。
「しかし案ずるな。悪いことばかりではない」
「ナギの言う通りだな。まさかあの化け物と同等の強さを持つ味方がいるとは……」
「なに!? それは本当かの、創星様!!」
カスペルが驚愕に満ちた顔で創星に詰め寄った。タイミング良く話題の人物が現れる。
「ミコ、フィリシアちゃん、引継ぎで確認しておきたいことがあるけど……っと。話し中かな?」
「いや、お兄さんの話を今していたところだぜ」
「そうか、なら自己紹介をしないとな。俺はミコとサブの兄貴で、『魔人を殺す魔人』と呼ばれている明光寺一治郎だ。よろしく!」
さわやかにあいさつをされて、初対面のゾウステとカスペルが名乗り始める。一通り名乗りを終えた後、ゾウステがしげしげと顔を無遠慮に見ながら感心した。
「あんたがカイジンの旦那が言っていたお兄さんか。エビサワの旦那といい、とても魔人には見えないな」
「魔人っていうか……本来の使い道に近いんだよお兄さん。聖獣に近いものを宿している」
「そんな奇跡まで再現できるとは、とんでもないところじゃのう。ガーデンとやらは」
カスペルが髭を撫でて冷や汗を流した。長い年月を刻んだエルフの長でも理解が及ばないことに、フィリシアは改めてすごい組織だと思い知った。
対してイチジローは頬をかいて恐縮する。
「いや、うちでもたった一度の偶然だよ。俺以降に魔人を作るのは不可能になってしまったし」
「それも元になった技術力の賜物だって。アネゴ二号やミコの持つ天使の輪って武器とそろってとんでもない」
創星とイチジローが穏やかに会話を交える。すると、セスが不思議そうにナギへと質問をぶつけた。
「そういえばナギは彼と戦いたくないのか?」
「……胸を借りたい所ではある。だが、今はそれよりサブローのことが心配だ」
深刻な顔をするナギの言葉に、ゾウステがピンと来ない顔をする。
「いまいちカイジンの旦那が落ち込んでいる姿ってのは想像つかねーな―」
「……オレはちょっとアニキの精神の強靭さに驚いている」
「え? 今落ち込んでいるのにですかー?」
ディーナの発言はもっともだった。たしかにこのメンツはサブローの強さを知っている。しかしながら、創星の言動は今のサブローの状態から照らし合わせると不自然なように思えた。
「エルフの翁ならこれ聞いて驚くと思うぜ。アニキな、殺戮姫の元ペットだったみたいだ」
「なんじゃと!? そ、それであんなにマトモじゃったのか!? 信じられぬ……」
うろたえるカスペルにどういうことかとフィリシアが質問をした。一人と一振りは唸りだし、エルフの方は嫌悪感にシワだらけの顔をよりしかめていた。
「あの女、男だろうと女だろうと自分が気に入った相手を飼う趣味があったんだよ」
「は? 趣味って……」
「ゾウステ、悪趣味だろ。飽きっぽいからさらっては遊んで、数か月でポイ捨てしたんだぜ」
「二百年を生きたエルフの戦士が、たったひと月で壊されきったこともあったのじゃ。すでに帰ってこないご主人を待ち続ける犬のような姿を、いまだ思い出せるのう」
当事者たちが痛ましそうに嫌な真実を話した。その場にいる全員が呆気に取られ、かける言葉もなくしている。
ガン、と強く壁が叩かれた。イチジローが歯を食いしばり、息を乱した。
「サブが半年もそういう目に遭っていたのは聞いていた。元気そうな姿を見て、心の強いあいつのことだから乗り越えていたと思っていたんだ。いや、思いたかった」
「半年……アニキの傍にいきてー。理不尽すぎるわ」
口調と違ってそわそわと落ち着きない創星の様子が、本気で案じていることを示していた。主思いの聖剣だと仲間たちにはよくわかっている。元気づけたい気持ちなのは、フィリシアもミコも同じだった。
自然と部屋に沈黙が訪れる。誰もがこの場にいないサブローのことを思った。
意識を今に戻し、フィリシアは主を待つベッドの上で体育座りをし、顔を両膝の間に埋めた。
日本に帰って来てから、彼の残り香をわずかに残すこの部屋に、良く来るようになっていた。会いに行きたくても、最後に怯えたサブローの姿が脳裏によみがえる。自分が行くとまたああなるのではないか、怖くて仕方がなかった。
「会いたいなぁ……」
「会いに行けばいいじゃない」
返答があると思っていなかったフィリシアは、驚いて顔を上げる。視線の先で、親友であるタマコが優しく微笑んでいた。
「で、ですが……行ってサブローさんを苦しめることになったら…………いえ、違います。サブローさんにあんな目で見られるのが、私は怖いです」
再び顔を伏せると、タマコは優しくフィリシアの肩に手を置く。
「気持ちはわかるよ、フィリちゃん。家族のみんなだったら、サブお兄ちゃんに怖がられてショックを受けない人なんていない。園長先生だっておんなじだった」
タマコの言うことは本当だった。真っ先に見舞いに行った園長が怯えられ、落ち込んで帰ってきた。人を落ち着かせるギフトを使ってもサブローには効果が薄く、いまだ病院で苦しんでいる。
だというのにフィリシアは彼を案じているようで、嫌われるのが嫌だという自分勝手な理由から会うのを避けていた。つくづく自分が嫌になる。
そんな自己嫌悪に陥っているフィリシアに、親友である少女はそっと寄り添った。
「でもね、今が踏ん張りどころだと思う。結局サブお兄ちゃんを一番手助けできるのは、一緒に戦っていたフィリちゃんか、ミコお姉ちゃんだけだと思うから」
「……そうですね。怖がってばかりではいられません。私、サブローさんの力になりに行きます」
「そうこなくっちゃ。はあ、ミコお姉ちゃんもおんなじ状態だったし、二人とも手がかかるよー」
「苦労をかけます。……タマコはサブローさんにああいう目を向けられるのが、怖くありませんか?」
「え? わたしは見舞いに行ったけど、怖がられなかったよ」
フィリシアは驚愕に口が半開きになる。続けて理不尽から唇を尖らせ、恨みがましい目をタマコへと向けた。
「いや、そんな目を向けられてもどうしようもないし。けどさ、わたしが大丈夫でフィリちゃんがダメってのは、逆にチャンスだと思うんだけど」
「チャンス?」
「うん、チャンス。わたしと違ってミコお姉ちゃんやフィリちゃんは、家族以上に意識している部分があるんじゃないかな。だから今回みたいな反応をしちゃうのかも」
「家族以上……」
タマコの言葉をおうむ返しし続け、フィリシアはふつふつとやる気がわいてきたのを感じた。我ながら調子のいいことだが、本来なら願ってもない状況だ。
つくづく親友は自分をやる気にさせる言葉を心得ている。サブローが心配であるので、タマコのそういうところは非常にありがたかった。
「わかりました。お見舞いに行きます」
「うん。ミコお姉ちゃんとわたしもついていくから、がんばろー」
頼もしい親友の助力が本当にありがたい。フィリシアは感謝を述べ、サブローへの病室に向かうことになった。




