十一話:少年に頼もう
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エリックが顔を洗いに川へ向かうと、今いちばん会いたくない相手と遭遇してしまった。
「エリックさん、おはようございます」
そう先に挨拶をしたサブローは先端に細かい毛を付けた棒を手にしている。
口や棒の先が泡立っており、手のひらにすくった水を含んでから洗い流していた。
エリックにはまだ知るよしもないが、歯ブラシを使って歯を磨いていたのだ。
きちんと教育を受けた少年は挨拶を無視できる性分ではないため、「おはよう」とそっけなく返す。
すると予想通り気を良くしたサブローが明るく話しかけてきた。
「いやはやエリックさん。昨夜はよく眠れましたか? お腹は空きませんか? どこか痛くはありませんか? なにかあればすぐに言ってくださいよ。僕にできることがあればなんでもしますから」
「べ、別にいいよ」
しどろもどろに答えながらエリックはうんざりしていた。この魔人は出会ってから毎日似たような質問をしてくる。
何度もすげなく返したはずなのだが、日に日に懐いてきているようでよくわからなかった。
そして昨日までは断れば「そうですか」と肩を落としながら去っていったのだが、今回は反応が違った。
「エリックさん、一つ相談があるのですが……」
拒絶の意志を視線に乗せるが、沈黙を肯定と受け取ったのか続きを語り始めた。
サブローは魔人のくせに人の悪意に極端に鈍い。
「フィリシアさんがよく笑うようになったこと、どう思いますか?」
嫌味だろうか、とエリックは腹を立てた。
幼馴染にして、年上の高根の花である族長の娘フィリシアは一時期見るのも痛々しかった。
もともとは穏やかに笑い、生真面目で面倒見がよく優秀な少女であったのだが、見る影もなく憔悴していたのだ。
それもそうだろう。故郷が焼かれ、一族は七人しか生き残らず、彼女は年長で責任のある立場だ。
優しくまじめな性格ゆえにすべてを背負い込んだため、自分で自分を追いつめてしまった。
仲間たちはアレスを除いてフィリシアの状態に気づいていたのだが、みんなも自分たちのことで手いっぱいで見守ることしかできなかった。
そんなある日、フィリシアの中の焦りが消えて、以前のようによく笑うようになった。
エリックは最初なぜなのか不思議で仕方なかったのだが、目で追っていくうちに理解してしまった。
彼女が特に笑顔を輝かせる相手が、誰であるのか。
サブローは勝ち誇りたいのだろうか。エリックがやりたくても出来なかったことを自慢したいのだろうか。
そんなドロドロとした思いがエリックの胸に渦巻いて、限界を迎えそうになっていた。
「僕はあれ、躁うつの躁状態ではないか心配でたまらないのですが……」
「え……なにを言い出すんだこいつ……」
いきなり失礼にもほどがあることを言うサブローに、エリックは呆気にとられた。
「いや実はフィリシアさんがああいう状態になるのに僕が関わっていまして……」
「それはなんとなく気づいた」
「さすがエリックさん。皆さんが優秀だとおっしゃるわけです! それでですね、召喚されたときから彼女が無理しているのは感じていました。何度か話をして、ようやく愚痴を聞かせてもらえるようになったのは良かったんです。そこまでは順調でした」
ところが、と挟んでサブローは顔を覆う。
「次の日から僕に気を遣ってか、笑顔を作って弱音を吐かなくなりました……」
「なんでそうなる」
「ええ、本当に。一度愚痴を吐いたので、これから気軽に相談をしてもらい、不安を解消していけばいいと思ったのに、また気遣いですよ。優しすぎます。人はもっと弱くても許されるんですよ!」
こちらのツッコミを相槌だと勘違いしたのか、暴走する思考のままサブローは止まらなかった。
「まあ付き合いの短い僕がやれることはここまでということでしょう。ならばと女性陣からのフォローはアリアさんに頼みました。なのでエリックさん、助けてください! どうすればフィリシアさんは強がりをやめてくれるのですか? 彼女と付き合いも長くて、頭のいいエリックさんなら思いつくはずです! なんなら僕がなんとか手を尽くしますので、どうか話を聞いてあげてください」
エリックは頭が痛くなり、思わず目に手を当ててしまった。
とりあえず一つ疑問をぶつけることにした。
「どうしてぼくに相談を?」
「この旅の最中、みんなエリックさんに意見を求めているからですよ。野営地をきめるときも、水が安全かどうかも、襲われた時を想定してどう逃げるかも、立派に説明したり動いたりして、フィリシアさんを助けていたじゃありませんか。魔人である僕をこころよく思っていないのは重々承知しています。ですがもう頼れるのはあなたしかいません。どうにかならないでしょうか……?」
サブローが一気にまくしたてる。その言葉に裏があるとはもう思っていない。
最初に出会った時ならまだしも、悪人ではないとは早い段階で分かってはいる。
エリックがかたくなな態度をとっていたのはただの私情である。
それも必死に懇願してくる相手の情けない顔を見ていると、どんどん薄れていく。
そもそも十二の子どもに頼る、圧倒的力を持つ魔人とはどういう状況だろうか。
なんだかもう馬鹿らしくなって、ため息とともに嫌な感情を吐き捨てた。
「どうにかとか言われても、放っておいても大丈夫だと思いますよ。フィリシアさんはあれが普通の状態ですから」
「え? あれ……エリックさんしゃべり方……」
「気にしないでください。それからあの躁だとか鬱だとか、絶対に本人に言わないでください。失礼ですからね」
「言いませんよ!?」
「本当ですか? いまいち信用し辛いのですが。はぁ、フィリシアさんが聞いたら泣きますからね。
もう一度注意しますが、絶対言わないでくださいよ?」
「……りょ、了解しました。泣いてしまうということは、やはりそういう状態なのでは?」
「さすがにそこまで説明するほど親切じゃありません。自分で気づいてくださいよ」
「え……でもエリックさんの知っての通り、僕って基本的に頭が悪いのですが」
「知っての通りってなんですか!?」
勝手に相手の理解者にされてエリックは混乱する。サブローはきょとんとした顔をした。
「いやだって会って最初に言っていたではありませんか」
「あれで!? むしろ今本当にバカかもしれないって思い始めたんですけど……」
たしかに今のようにずれた会話をしたせいでエリックがつぶやいたときはあったのだが、それを理解者として受け取るのはどうかと思う。
「もしかして意外と僕の評価は高かったのでしょうか。少し照れます」
照れるべき場面ではないと思うのだが、サブローは言葉通りに頬を染めて嬉しそうにしていた。
この魔人はあっけらかんとしているため気づきにくいが、妙に自己評価が低い。
いや、卑屈な感じは見受けられないので、単に他人の評価が高すぎるのか。
どちらにせよ感覚がずれている。
「まったく、あなたという人は……。話はここで終わりで構いませんか? フィリシアさんには前みたいに普通に接してください。それで解決します」
「ふむ、いまいち納得がいきませんが、その方針に従いましょう。困ったときは自分より頭のいい人にならえと僕の本能が言っていますしね」
「それはやめてください。あなたが騙されたら被害は甚大になりますから……」
いまいち危ういサブローを置いて、エリックは朝の支度を済まして離れる。
その間じーっとみられていたが、これ以上相手にするのは勘弁してほしい。
無邪気な魔人から離れると一気に疲れを感じたが、なぜだか心が軽くなった気がした。
「しかしエリックさん……どうして敬語なんかを……。警戒されていたとはいえ、気安く話せる間柄だと思っていましたのに。僕はなにかやらかしたのでしょうか? うう……」
惜しくもそのひとり言はエリックに届くことはなく、疑問の一つが解消される機会は失われた。
エリックが野営地に戻る途中、驚いた顔のアリアが現れた。
「エリック、なんかすっきりした顔をしている」
言われて肩をすくめる。アリアはエリックがサブローに対して、きつく当たっていた理由を知っているただ一人の人物だ。
彼女なら察するだろう、と口を開く。
「サブローさんに相談されて疲れましたからね……」
「サブロー……『さん』? もういいの?」
「あの人に対して妬み続けるのは、マリーにムグの葉を好きになってもらうくらい難しいようです」
「…………まさかあなたも?」
色々省略した短い問いだったが、長年の付き合いから何が言いたいかはわかった。
そういえば先ほどアリアにもサブローが相談した旨を聞いていたな、とエリックは苦笑する。
「なんであんな頓珍漢な結論を出したんでしょうか?」
「そこは本当にわからない。フィリシアさんをマリーと同じものとみている節があるし」
「……フィリシアさんの名誉のために黙っていましょう」
一転して真顔で呆れるエリックに、アリアが頷く。あの年ごろにありがちながっついた雰囲気がないのは珍しいと思っていた。
しかしサブローは想定の斜めを行っていたらしい。悪意だけでなく好意にも鈍いのかもしれない。
他人の機微には聡いというのに。いや、時々結論がおかしいので本当に聡いのか怪しいのだが。
「しかしなんで二人して年上に、しかも魔人に呆れているのでしょうか?」
「本当にそうね。でも、悪い気分じゃないでしょ」
アリアに対し沈黙で返す。別にエリックは否定したいわけではない。
己の心に整理をつけるのに、少しだけ時間が欲しかっただけだ。
「……本当は最初から、サブローさんが悪人でないことは気づいていました。マリーが懐いていましたから」
マリーはお転婆で能天気に見えて、かなり勘がいい。
人懐っこいがそれは善人に対してだけで、悪人には絶対近寄らなかった。
一度里に詐欺師が来たことがあるのだが、大人すら騙された人当たりの良い男に、マリーが靡くことはなかった。
結局、詐欺師のたくらみは早々にばれて、大事にならずに済んだのだが。
ちなみにフィリシアは父とともに王都に出かけていたため、このことを知らない。
「だけど無意識に、そして今は意識して信頼しているフィリシアさんを見て、ぼくはとても嫌な気分でした。出会ってからそんなに経っていないのに、魔人の力がすごいのかって。ぼくは…………ずっとフィリシアさんが好きでしたから」
アリアは無言でうなずいた。彼女だけには昔から知られていたことだ。
族長の娘であり、将来優秀な婿を迎えるべくフィリシアの候補は絞られていた。
裁判長の跡取り息子であるエリックも候補に挙げられていたが、すぐに外れた。
精霊術と頭脳に関しては問題なかった。落選理由は身体の方にある。
今はすっかり健康になっているが、幼いころのエリックは病弱であった。
マリーくらいの年頃はずっとベッドにいた記憶しかない。
二年前くらいからようやく身体も元気になり、外に出るようになって気づいた。
運動が苦手で、筋力も体力もつきにくい体質になってしまったことを。
両親は裁判ごとにかかわっているおかげで優しく、エリックが健康に育てばそれだけで喜んでくれた。
裁判長の息子として恥ずかしくないように勉強を頑張ったことも、誇らしく思ってくれた。
しかし、子どもの世界は狭い。
運動ができる、身体が強いということは単純かつ明快な優位である。
下手すれば女の子にも負けるほど脆弱なエリックはかっこうのからかいの種だった。
ほんとうに男なのか? 女じゃないか? 弱すぎて情けない。
散々馬鹿にされ、卑屈になり、自信を失っていった。
そんな中、フィリシアだけは前に出て彼らを叱り飛ばし、自分の手を引いてくれた。
エリックが勉強で教師に褒められれば自分のことのように喜び、精霊術を自分の知識で応用すると心底感心する。
フィリシアに連れられて、アリアをはじめとする幼馴染たちと交流を持ち、世界が広がった。
感謝してもしきれない。恩人であるフィリシアにエリックが淡い想いを抱くのはそう時間は必要なかった。
精霊術一族の婚姻は割と緩い。
王国の貴族のように家を背負ったりしている場合も少なく、他の町村と変わらず気の合ったもの、愛し合った者同士で一緒になる。
ただ、さすがに族長一族はそうもいかず、族長の決めた相手と結ばれる形が多い。
今代の長はフィリシアをとても愛していたので、婚姻相手は慎重に選んだ。
その候補からエリックが外れたときは、枕を涙で濡らした。
しかし今の一族の中にこれといった人物はおらず、婿候補はよその部族も当たってみるという話になった。
フィリシアも特に急いでいる雰囲気はなく、またしばらくは一緒にいられると喜んだものだ。
そんな大切な想い人が苦しんでいるのに、力になれないことをエリックは呪った。
好きになりかけた自分のひ弱な体をまた疎ましく思い始めた。
そして力のある魔人を妬み、ついつらく当たってしまったのだ。
「だけど、そんなぼくにサブローさんはなんと言ったと思います? 『助けてください』に『頼れるのはあなたしかいません』ですよ。本当はぼくが言わなくてはいけない言葉だというのに」
「似たようなことはあたしも言われた。妙にプライドがないのよね、あの人」
「……こまった魔人ですよ。本当に……ふふっ……」
熱いしずくがエリックの両頬を濡らしていた。失恋の悲しみがある。頼られた嬉しさがある。
どちらの涙とも取れず、どちらの涙でもあった。
アリアは見ないふりをしてくれる。エリックは自分の恋が終わったと理解し、涙をぬぐって前を向く。
エリックは魔人に頼られた子どもだ。だったらうつむいている暇はない。戦うべき場所はどこにでもある。
隙だらけの魔人の力になる。そこが自分の新しい戦場であった。