一○四話:あなたを守るための力
ナギの鋭い斬撃を悠々と避け、海老澤の拳を受け止めた反動で距離を取ってから、竜妃はため息をついた。
「さすがに人の身のままでは辛いですね。こんな感じで行きますか」
彼女は軽くぼやいてから少しだけ魔人の力を解放した。コウモリを思わせるような刺々しい翼と太く長い爬虫類の尻尾を生やし、右手だけを長い爪を生やした化け物のそれへと変えた。
続けて繰り出されるナギの連撃を爪で一太刀残らず捌ききり、尻尾で海老澤ともども薙ぎ飛ばした。
重い一撃を受けて後退するナギが不可解な顔をする。
「む、あいつも一部だけ変化できるのか?」
「まあサブローは嫌というほどあいつのを見て身に着けたみたいだからな。むしろあっちが元祖だ」
海老澤が説明を終え、より深く腰を落とす。ナギとうなずき合い、先行して前に出た。エビの魔人の持ち得る瞬発力を活かし、あっという間に距離を詰める。
黒い魔人は重そうな巨体に似合わぬ拳の連打を叩きこむのだが、竜妃は鼻唄交じりでその場を一歩も動くことなく迎撃しきる。らちが明かないとより大ぶりの一撃を繰り出したが、衝撃で後退したのは海老澤の方だった。
舌打ちしながら地面を滑って下がる彼の肩を、ナギが踏み跳んで高度を得る。より高い位置から勢いを得た彼女は、光をまとう虹夜の聖剣を力いっぱい振り下ろした。
剣と爪がぶつかり合い、金属の衝突する甲高い音が廃墟に響き渡る。虹夜の刃はわずかに魔人の爪に食い込んでいた。
「へぇ、なかなか強いですね。最初のその棒の持ち主と遜色ありませんよ。まあ……わたくしにはかないませんが」
竜の尾がナギの腹を打ち抜く。宙に投げ出された彼女を海老澤は受け止め、落下の衝撃を受けるのを防いだ。
「……まだ戦えるか?」
「ごふっ、ごほっ……当然だ」
咳き込みながら口の端に滲む血をぬぐい、闘志が衰えない様子をナギは見せた。サブローは当然の結果を見て固めた拳が震えていた。
自分の怪我はまだ軽い。魔人に変って参戦すれば二人もまだ戦いやすくなるだろう。フィリシアとミコを含んだ調査隊が逃げる時間を稼げるはずだ。
なのに、サブローは一歩も動けなかった。死よりも恐ろしい女に立ち向かう勇気がわかなかった。勇者と、勇気がある者と呼ばれるようになったはずなのに。
土を踏む音がすぐ隣からする。ミコがしゃがみ、血を流す脇腹に包帯を巻きつけていた。サブローは思わず距離を取ろうとするが、無理やり押さえつけられる。
「ごめん、サブ。ちょっとの間だけ我慢して」
フィリシアも急いで駆け寄り、回復術で傷をふさぐ。そのまま二人で両脇について身体を支え始めた。サブローの鼓動が激しくなり、立っていられないほどの吐き気がこみ上げる。
「サブローさん、すみません。行きましょう、師匠さん」
「たく、あの女は……!」
ミコが憎々しげに後ろの竜妃を一瞥してから前を向く。歩みに力が入らず速度が出ない。足を引っ張れば、この場にいる大事な人たちが危ないというのに。
「あの速度ならあなたたちを片づけても、まだまだ余裕そうですね」
「片づける? そう簡単に行くか!」
そうは言うが、ナギの顔は苦渋に満ちていた。彼女ほどの使い手がこれだけ刃を交わして、力の差を読み取れないわけがない。隔絶した力を正確に把握しながらも、サブローのために足止めを買って出てくれた。
「ま、お前さんの思い通りにことが運ぶのは癪だわな。徹底的に邪魔するさ」
軽い口調ながらも海老澤は戦う意思を曲げていない。相棒だというのに迷惑をかけっぱなしである。
「はぁ……それにしてもあなた様、嫌な目を旦那様に向けますね」
「なんのことだかわからんな」
「……いえいえ、あなた様方……勇者がよくする目ですよ。主に弱い人に向ける目ですね。わたくし、その目が大っ嫌いでして」
竜妃は昏い目をナギへと向けた。イライラした様子で今にも爆発しかねない。
「決めました。あなたも旦那様に殺してほしいと言わせて見せます」
「ふん、サブローが言うわけないだろう。難儀な奴だ」
「言いますよ。旦那様はとても弱いお方ですもの」
不快そうに顔を歪めて瓦礫を蹴とばすナギに対し、竜妃は軽やかにステップを刻んで避けた。
「本当にもろくて脆弱で、優しいけど無力なお方です。わたくしがついていないとなにもできないお人です」
「……サブローのなにを見てきたんだ?」
「あなたこそなにを見てきたというのですか? わたくしは逢魔で何度もボロボロになる旦那様を見てきましたよ。弱いのに誰かが傷ついていると身を投げ出さないと気が済まないようなお人です。弱いから身体を張るしか、誰かの代わりになることしかできなかった人です。だから決めました」
竜妃が邪気のない笑顔をサブローに向けてくる。目の前で殺意を乗せているナギと海老澤がいるというのに、歯牙にもかけない。
「旦那様はわたくしがお守りします。この世のどんな苦痛からも、誰からもこの力なら遠ざけることができるのですから」
「んなこと言って、お前が一番傷つけていちゃ世話ないだろ!」
「……そうですね。本当に、どうしてこうなってしまったのでしょうか。わたくしは傷つけたくなかったのに」
創星の言葉を肯定し、初めて竜妃の顔が悲しみに染まった。後悔しているような、疲れているような、複雑な表情だった。サブローはその発言が真実であることを知っている。
昔、傷つけられて意識を失いかけていた自分に、泣きながら謝る彼女の姿を薄目で見た覚えがあった。どうしてこうなったのか、サブロー方が知りたかった。
竜妃が豹変した夜に自分がなにをしたのか、彼女は頑なに語ろうとしなかった。ただただ、なにもかも自分に委ねろ、心配事はすべて壊してやるとしか言わなくなっていた。
最初は説得しようとしていたサブローも、今では震えて恐怖しか抱けなくなってしまった。自分の大事な人たちをすべて壊すという言葉が、本気だとわかった日から。
「でもまあ、今更普通の恋がしたいなんて過ぎた願いだったのでしょう。もういいんです。なら怪物らしく、旦那様の大事なものをすべて奪って、わたくし以外の選択肢を失くしてあげます」
竜妃は誘うように手のひらをサブローに向けて、無理やり笑顔を作った。
「それが終われば、そのときこそ普通に、傷つけずに愛せるはずです。だからいきましょう、サブロー様」
今日初めて彼女が愛しい人の名前を呼んだ瞬間、耐えられなかったように海老澤とナギが同時に攻撃に移る。一瞬の交差は爪と金属がぶつかる火花を生みだし、すれ違った。
背中を向け合ったまま距離をとる三つの影は、やがて二つが地に伏せる。ただ一人立っていた竜妃は勝ち誇ることもせず、静かにサブローへ近寄った。
「あと一歩のところで邪魔をした鰐頭はいませんよ。観念してください」
本当に魅力的な笑みを、竜妃は浮かべた。このまま膝を屈し彼女の願いを聞かねば、殺す以外の苦痛を両脇にいる大事な人たちに与えかねなかった。
色の失った顔のままサブローは激しくもがいてフィリシアたちから離れ、竜妃の眼前に転がり出る。
「ダメです、サブローさん!」
「諦めるな、サブ!」
二人の声が遠い。サブローはこうべを垂れて諦めを口にしようとした。しかし竜妃が目線をそらして別の方向を見ている。恐る恐る視線を追うと、半ば崩れている神殿から青い光が漏れていた。
『隊長、もう大丈夫ッスよ!!』
毛利の声とともにドローンが人影を伴って出てくる。その人物は影しか認識できないほど高速で動き、竜妃に跳び蹴りをぶつけた。
すさまじい激突音とともに、この地に来て初めて右手から血を吹きだした竜妃が忌々しげに顔を歪めた。
「サブ、頑張ったな」
いくつになっても子どものように扱い、彼はサブローの頭を撫でる。白い甲冑を全身に張り付けたような細身の身体。顔を鉄のようなバイザーで隠す、魔人らしくない魔人。
明光寺一治郎――『魔人を殺す魔人』が異世界に降臨をした。
今日は夕方ごろに竜妃主役の幕間投下します。