一○三話:折れた心
名前を呼ばれた竜妃は満足そうにサブローに抱き着き、その感触を堪能し始める。
「ああ、こうして身体を合わせるのも何年ぶりでしょうか。今まで過ごしてきた数百年よりもこの数年を長く感じていました」
「おい、てめー説明しろ! なんで生きてやがるんだ!!」
断たれて力なく巻き付いた触腕を引っ張る創星が竜妃に食って掛かった。彼女は鬱陶しそうに一瞥をしてから、目の前の聖剣を蹴り飛ばした。まるでコンクリートの巨大な塊かのように剣がわずかに後退してから重く落下した。
「相変わらず重たい上に騒がしい棒ですね。ま、いいでしょう。今のわたくしは機嫌がいいのでお答えします」
愛しそうにサブローの胸板に頬ずりをしながら竜妃はそういった。
「数百年前、死にかけの共犯者……あなたたちが魔王とか過大評価しているバカに異世界への扉を開いてほしい、と頼まれました。もちろんわたくしはただで日本に連れていくなんてまっぴらごめんでしたよ。あの国はお気に入りですもの」
サブローの頬に彼女の細い指が添えられる。感触を確かめるような右手のなすがままに任せるしかなかった。
「そうしたら不老長寿の霊薬をもらえると言われて、連れて行っちゃいました。わたくしも女の子ですから歳はとりたくなりませんでしたし、かといって不死になるのも少し怖かったです。エルフくらいの寿命で不老だというのなら、きっと死ぬころには飽きているだろうからちょうどいいかな、って思ったんです。それが……」
竜妃が首に手を回し、唇を重ねてきた。サブローは青ざめた顔で彼女の要求を呑むしかなかった。今回は舌を挿入せず、軽く触れ合うだけで終わる。
「まさか永遠に添い遂げたい相手が見つかるなんて、思いもしませんでしたが」
「どの口で言ってんだお前」
「酷い言いざまですね。まあ、しょせん棒ですから礼儀なんてご存じではないのでしょうけど」
「……次だ。お前いま、魔人の気配がほとんどなかったけどどうした?」
「ああ、それはですね……」
竜妃はスッとサブローの後ろに回り、両手で視界をふさいだ。
「だ~れだ?」
「……なにやってんだ?」
「ふふふ、日本で恋人同士がする遊びだそうです。これをするのに魔人の気配が邪魔だったので、抑えられるように頑張りました」
こつん、と自分の頭を小突いて舌を出し、竜妃はイタズラっ子のように明かす。留守にしていると安心していたサブローは、これを披露されたときは生きた心地がしなかった。
「そんなことのために……?」
「愛に不可能はありません。さあ、旦那様いきましょう」
「させません!」
それまで黙って成り行きを見守っていたフィリシアが天使の輪を展開し、飛び上がった。ミコでも抑えきれなかったのか。
サブローはまずい、と彼女をかばうように動いた。一歩遅く、フィリシアの翼は半ばから折れた。
「え!? なにが……」
見覚えがありすぎる技をサブローは目撃していた。竜妃は指に小さな小さな炎のブレスを圧縮した塊を作り、目にも止まらない速さで放り投げたのだ。
コントロールを失いかけながらも、よたよたと蛇行してフィリシアは地面にたどり着く。信じられないものを見るような目で竜妃を凝視していた。
「……安心してください、旦那様。かばうように動いたということは、あの勇者に似た女の子も大事な人ということですよね? 後ろの貧相な方もそうでしょうか?」
これ以上にないほどの上機嫌な顔を竜妃は浮かべた。怒りも一切乗せていない、悦びだけを乗せた笑顔がサブローは一番怖かった。
「だったらあの子たちも対象です。ゲームを続けましょう、旦那様」
「そんな……やめてください。誰も彼も、関係ないでは――――」
最後まで口にすることは許されず、サブローは上から叩き伏せられた。細腕を振るう着物美人の足元に這いつくばる懐かしい感覚を、今嫌というほど味わっていた。
「わがままを言ってはいけません。わたくしとの約束ではありませんか」
竜妃は駄々をこねる子どもを優しく諭すように言い、サブローの顔を上げさせ、自分でつけた土埃をハンカチを使って拭う。
「でしたら、言うことがなにかご存じのはずですよね?」
「……身勝手なことを言って申し訳ありませんでした。どうか、物分かりが悪く鈍くてどうしようもない僕を、続きに参加させてください」
「ふふ、ちゃんと覚えておいてくださったのですね。はい、もちろん大歓迎ですよ」
「ちょっと待て、殺戮姫! お前、アニキに……」
「竜妃です」
「……竜妃、お前はアニキになにをさせる気だ?」
竜妃はおとがいに人差し指を当てて、無邪気に目をまばたかせた。
「いえ、なにもさせませんけど? ただわたくしの傍にいてもらうだけですよ」
「嘘をつけ! だったらなんでアニキが怯えているんだ!?」
「……本当ですのに。ただわたくしと一緒に過ごしてもらって、旦那様が他の大事な方々を殺してほしいと望んだときにすべて消し去ってあげる、というゲームをしているだけですよ」
フィリシアとミコが訳が分からないという顔をした。当然であろう。サブローも最初に聞かされたときは理解を拒んだ。創星がこの場を代表して疑問をぶつける。
「なに言ってんだお前?」
「わたくし、思いました。旦那様は大事なものを残しすぎだと。わたくしだけを見てくれないのだと。ですけど、ただ奪っただけでは意味がありません」
夢見心地のように瞳を濡らし、竜妃はほぅ、と甘い吐息を漏らした。
「わたくし以外いらない。わたくし以外はむしろ捨ててしまいたい。どのような形であれ、旦那様がそう思ってこそ意味があると思っています。それにしても、あなた様方はずいぶんと可愛らしいですね。旦那様に愛してもらったのですか?」
「な、なにを言いだすのですか!?」
「もう少し直球で言いますか。そのだらしない乳でわたくしの旦那様を誘惑したのですか?」
フィリシアがあんまりな決めつけに言葉を失った。ミコがかばうように前に出る。
「あんまり下品なことを言わないでくれるかな? フィリシアは慣れていないんだから」
「ふ~む……あなた様はあなた様で、その貧相な身体で旦那様を満足させられましたか? いろいろと足りないようですが」
「……一度会ったことあるんだけど、やっぱ忘れられているか。あのときはサブにあんなことをしていたなんて、思っても見なかったけど」
ギリ、と奥歯を鳴らしてミコは竜妃を睨んだ。
「ケンゴに聞かされたよ。あんたがしたこと、絶対に許さない」
「そう言われましても、旦那様はわたくしの物ですし。ちゃんと身体に印をつけたはずですが、まだついていない場所があったのでしょうか? えいっ!」
サブローのわき腹から血が噴き出た。竜妃の手には抉り取られた肉がつかまれている。血が着物を汚してもまったく頓着しない。むしろ愛しそうに千切り取った肉を撫でている。
サブローは必死に歯を食いしばって悲鳴をあげないように努力をした。昔、似たような状況で絶叫し、愛が足りないと彼女が怒ることがあったからだ。
今はフィリシアもミコもいる。機嫌を損ない、約束を反故にして二人を襲わないとも限らない。大事な人たちを守るため、痛みに耐えきった。
「あら? そこはもうわたくしの印をつけた箇所でしたか。痛い思いをさせただけのようですね。ごめんなさい、旦那様。お詫びとして……」
椅子として手ごろな石に腰を掛け、彼女は草履と足袋を片方脱いだ。染み一つない綺麗な白い足を投げ出し、蠱惑的な笑みを浮かべる。
「舐めていいですよ。お好きでしょう?」
「ふざけんな! アニキがそんなの好きなわけが……」
「好きですよ。そうですよね?」
正確には好きにさせた、だ。苦痛から解放する条件として良く出されていた覚えがあった。長い時間をかけられ、いつの間にか足を舐めることを待ち遠しくなってしまった。そのことに気づいた竜妃が喜んで祝った記憶が身体をむしばむ。
身体が震え心が恐怖心にがんじがらめになり、膝と両手を地面につけて差し出された足に舌を伸ばした。当時のように喜んで迎えた竜妃が両手を叩いてはやしたてる。
息を飲むフィリシアたちの姿が視界の端に映る。見ないでほしい。口に出して竜妃を不快にすることはできないので、心の中だけでつぶやいた。
「師匠さん、私は我慢できま――――」
「ダメ。死にに行かせない」
「師匠さんは悔しくないんですか!? サブローさんがあんな目に遭わされて、私は、私は……」
「大丈夫、時間稼ぎはこれで充分」
ミコが我慢は終わりだと言わんばかりに吐き捨てると、上空から二つの影が竜妃に襲い掛かった。標的は片足で器用にはね跳び、打撃と斬撃から逃れる。
「いよう、くそ女。久しぶりだな」
「相変わらず口が悪いのですね、海老澤様」
不機嫌な様子を隠さず、黒い魔人へと変わっていた海老澤は竜妃を睨みつけた。
「立て、サブロー。君のような人間がそんな卑しい真似をさせられるのは、耐えられない」
ナギが優しい顔でサブローに手を貸して立たせてから海老澤の隣に並んだ。虹夜の聖剣を油断なく敵に向ける。
「エビサワ、あのどす黒い“灯り”の女は誰だ?」
「竜妃っつーやばい女だよ。最も強い魔人の片割れだ」
「……そうか。まったく、“灯り”の曇らせ方も人間と変わらないものだ。長年生きて暗い欲望を熟成させ続けた老人たちと、似たような“灯り”だ」
気が重そうに息を吐き、ナギは竜妃を見据えた。その様子をサブローは夢で見ているかのように呆然としていると、フィリシアが手を引いた。
「さあ、サブローさんいきましょう!」
しばらくはなすがままに従っていた。やがて、彼女の言葉が先ほどの竜妃の言葉を思い出させた。
――さあ、旦那様いきましょう。
吐き気に突き動かされ、手を払ってしまう。目を見開いてショックを受けるフィリシアに、とても申し訳なかった。
「す、すみません。フィリシアさ……うぷっ」
我慢できず、胃の中身を地面にぶちまけてしまった。ミコが心配そうに背中をさすろうとする。けれどもその手からも逃れたくて仕方なく、地面を転がるように離れてしまった。
「あ、アニキ。相手はアネゴ二号とミコだぞ。落ち着け!」
腰に戻ってきた創星が必死に訴える。言われなくてもサブローは充分にわかっていた。だけど、子どもに見えるナギは無事であっても、竜妃と同じく女を感じさせる二人には恐怖心が先立ってしまった。
「くそっ! 俺も初めて見るわ。あれがケンちゃんやサンゴちゃんが言っていた状態かよ」
「どういうことだ?」
「話にしか聞いたことないけど、助け出されてすぐのサブローは酷いありさまで女という女を怖がっていた。どうにか落ち着くのに数か月かかったみたいだぜ」
海老澤は一歩進めて前面に出る。焦っているのが一目でわかる状態だった。
「となるとあの女を倒さないといけないわけだ」
「そいつはちと無理な相談だわ。サブローとミコが万全の状態なら逃げ切ることはできるかもだが」
「ならどうする?」
ナギが尋ねると、海老澤はため息をつく。
「どうやら子どもっぽいオーエンならサブローも大丈夫みたいだ。俺が時間を稼ぐから、ある程度戦ったらサブローを担いで逃げろ」
「あまり建設的とは言えないな。第一、あの女が許すわけがない」
「そうなんだけど……俺なら心配するな。どうやらサブローに俺を殺してくれと言わせたいみたいだし、命だけは保証されている」
「はい、海老澤様も旦那様の大事な人ですからね。必ず殺してほしいと言わせて見せます」
「……悪趣味な」
嫌悪とともにナギは吐き捨て、ますます敵意を強めていく。対して竜妃は変らずのほほんとしていた。
「御託はいいからかかってきたらどうですか? 虹夜の棒に選ばれて勇者とおだてられているようですが、その自信をへし折って差し上げますよ」
「とことん気の合わない相手のようだな!」
竜妃の挑発が始まりの合図となる。突進するナギと海老澤に、やめてくれとサブローは叫びたかった。