シンデレラの姉の恋
私が初めて彼女を見た時、私は、体内から何かがじわじわと満ちてきて沸騰する感覚を覚えた。
金糸のように艶やかな髪、聡明な青い双眸、愛らしい小さな唇。明らかに子供らしい外見にも関わらず、それでもどこかになまめかしさを漂わせるその佇まい。象牙の肌はきっと、触れる者全てを例外なくこの少女の虜にする。
そう。つまり私は、赤毛でとても美人とは形容出来ない容貌の私は、一目で恋に落ちたのだ。それまで漠然と焦がれていたこの国の王子のことなど、一瞬にして忘却の彼方へ。それどころか、もう何もかもどうでもいいと思った。この、目の前の少女が手に入るなら。
少女――彼女の名はエラと言った。後に彼女は、シンデレラと渾名されることになる。
とにかく、私がシンデレラに一目惚れしたその日、私は彼女の義姉となったのだった。
「いつまでやってるの!」
今日も母の金切り声が屋敷中に響く。母は、玄関ホールの階段の拭き掃除をしていたシンデレラを、思い切りはたいた。私は階段の下で、それを見上げた。
「暖炉の掃除も皿洗いも、やることは山積みなのよ!」
「ご、ごめんなさい」
「ちょっと、なんなのよこれ!」
今度は姉のお出ましだ。姉は階段を激しく軋ませながら下りてきて、シンデレラを見下ろした。長いスカートが、鬱陶しそうに姉の足に絡みついた。
「ここの汚れ! 落としておいてって言ったのに、全然なってないじゃないっ」
姉は緑色のドレスをシンデレラに叩きつけた。シンデレラは反射的に頭を庇っていた。つぎはぎだらけの衣服は、シンデレラのそばに立つ母や姉の豪奢な服と違って、貧相だった。
余りにも見ていられない光景で、私はその場を離れ自室に逃げた。ベッドに倒れ込む。皺一つないこの純白のシーツも、シンデレラの手によるものだ。
先程眼前にしたような光景は、毎日繰り返されている。シンデレラは今や、この家の奴隷だ。母も姉も、何故あれほど非情になれるのだろう。娘とはいえ、妹とはいえ、他人だから?
違う、だろう。二人はシンデレラの美しさに嫉妬しているのだ。例え二人が認めなくとも、それは確かな事実だ。私が二人のようにシンデレラを攻撃せずに済んでいるのは、シンデレラの美貌を嫉妬ではなく憧憬でもって受け入れたから。ただそれだけだ。
水色のサテン生地のスカートを、摘まんだ。私のような醜女に着られたこのスカートも、泣いているようだ。これはシンデレラこそが身につけるべきもので、彼女が纏うからこそ光り輝く。だが、母や姉が振る舞いを改めない限り、シンデレラがこれを着ることもないだろう。彼女はいつまでも〈灰被り〉のままだ。
シンデレラを豪華に、清楚に着飾らせてあげたい。かつての艶を失った金髪を磨いてあげて、そうしたなら、もう一度微笑んでほしい。ここに来て、私の隣で安らかに眠ってほしい。穏やかな体温を感じさせてほしい。
母や姉に反抗する力のない私に、それらの願いを叶える時は来ない。
シンデレラは不衛生で暗い屋根裏部屋で生活している。いや、させられていると言った方が正しい。彼女は夜遅くまで働き、仕事を終えると、とても休まるとは思えないその部屋へ帰り、夜明けとともにまた働くため部屋を出る。そんなシンデレラを尻目に母や姉、そしてそれに付き合う私は、着飾り外出し、遊び呆けるのだった。
今日もそんな一日が過ぎて、私は何事もなく眠りについた、ふりをした。
日付が変わる頃になると、階段をぎしぎしと踏みしめる音が響いてくる。ベッドの中でそれを聞き留めた私は、体を起こした。足音は私の部屋のある二階より、更に上がっていき、やがて消えた。私は部屋を脱け出して、裸足のまま足音を鳴らさぬようにしながら、階段を上がった。この階段は屋根裏へ繋がっている。上り切ると廊下の空気は一変し、埃臭くて眩暈がした。
物置部屋の前を通り過ぎて、廊下の最奥で立ち止まる。腐りかけささくれ立った木の扉。この向こうにシンデレラがいる。私は恐る恐るドアノブを回し、親指ほどの隙間を開けて中を覗き込んだ。ここ最近、毎日同じことをしているが、この瞬間の緊張にはいつまで経っても慣れない。
「お母さん。会いたいよ」
此方に背を見せ、窓辺に座って、シンデレラは呟く。
「もう叩かれたくない。怒られたくない。私も、今のお母様やお姉様みたいに、お洒落したいのに……」
とと、と軽やかな音がして、次にネズミの鳴き声が聞こえた。シンデレラの友達は、もう不細工なネズミ一匹しかいない。
「ジャッキー。また来てくれたのね」
シンデレラは一匹のネズミを抱き上げた。月光に照らし出されたネズミは、茶色の毛を豊かに生やしていた。ジャッキーという名前らしい彼は、シンデレラの頬を撫でた。
「これ? これはね、お母様に叩かれて腫れてしまったの。こっちの火傷は、上のお姉様にやかんを押しつけられて出来てしまったのよ」
シンデレラは泣いているようで、声を震わせていた。暗がりの中、月明かりだけでは彼女の雫は光らない。
「ねえ、ジャッキー。私、どうすればいい? 辛くて苦しくて、たまらないの」
シンデレラはしゃくりあげていた。私は彼女を抱き締めたいと思った。けれど、出来るはずもなかった。絹の寝間着を着ていても、私は醜い。
「下のお姉様は私を殴ったりしないわ。でも、お母様と上のお姉様は……」
下のお姉様。
動揺して、頽れるところだった。過呼吸のように乱れる息を整えながら、私は扉横の黄ばんだ壁に体を預け、座り込んだ。シンデレラが私のことを話題に出すのは、初めてのことだった。いつも、シンデレラは母か姉の話しかしなかった。
その後、母や姉の仕打ちがいかに悲しく苦しいものであるかを、シンデレラはぽつりぽつりとジャッキーに語っていた。勿論、ネズミなどが人間の言語を解するはずもない。それでも、シンデレラは告白を続け、涙を流した。嗚咽はまるで甘美な吐息のように、私の耳を犯す。
シンデレラが私の話をしないのは当然のことだと思っていた。私はシンデレラをいびりもしなければ、助けもしない。だが一度シンデレラの唇から漏れた私は、私がなりたかったもう一人の私のように、可憐で端麗だった。泡沫のように死んでしまったけれど。
どうして、今まで気が付かなかったのか。シンデレラの口から私を語らせるには、私のことを思わせるには、もっともっと強く、彼女に刻みつけなければならないのだということに。私という存在を刹那的にでも忘れさせないようにするには、強烈に彼女の心を支配せねばならないのだということに。
今更、シンデレラが私に笑顔を向けてくれるとは思わない。ならばせめてその宝石の如き涙だけは、私のものにしたいではないか。
朝、普段より早めにベッドを出ると、手早く身支度を整えて部屋を後にした。シンデレラは一階のダイニングの暖炉を掃除していた。ボロを身に纏い額に玉の汗をかいたシンデレラは、入口に立つ私に気付きもせず、働いていた。
「シンデレラ」
最後に呼んだのは、いつだったか。もしかしたら名前を呼んだのは初めてだったかもしれない。シンデレラは肩を震わせて、ゆっくりと振り返った。
「お姉様……」
シンデレラは立ち上がり、頭を下げた。
「おはようございます、お姉様」
シンデレラの顔は煤に汚れ、髪や服は灰まみれだった。正に、シンデレラという蔑称に相応しい。だが、そのような状態ですら彼女はその美しさを全く曇らせない。
私はシンデレラの挨拶に応えなかった。いつもそうだった。母も姉もそうしているから、シンデレラは特に気にした様子もなく作業に戻っていた。私は彼女の背後に立ち、そして、その背中を思い切り蹴り飛ばした。ヒールのある靴で。
暖炉に倒れ益々灰に汚れたシンデレラは、驚愕の瞳を私に差し向けた。
「……なによ」
シンデレラの表情が恐怖に歪む。逃げ出そうとして後退した彼女は、しかしすぐに暖炉の壁に突き当たって行き場を失った。私は一歩、彼女に迫った。彼女は全身を震わせ、涙を一杯にした。ぞくぞく、として、私の全身は歓喜に包まれた。
今、シンデレラの瞼に溜まるのは、頬に伝うのは、私が彼女に流させた涙だ。彼女が、私を目の前にして、私だけのために流したものだ。これほど艶美で麗しいものは、この世に二つと存在しない。
「なにを泣いてるの?」
私はシンデレラの両頬に手を伸ばして、触れようとする直前で止めた。どんなにみすぼらしい身なりをしていても、シンデレラは聖母マリアのような高みに生きているから。醜悪な私が触れるということは、神への冒瀆に等しい。
私は袖を引き伸ばし、シンデレラに直接触れぬようにして彼女を殴った。彼女が倒れた先の煤塵が、黒々と舞い上がった。
「私が怖いの?」
シンデレラは何も言わなかった。彼女の涙には、悲しみだけでなくきっと、私や母たちのような醜い女に屈することへの悔しさも含まれていることだろう。なんでもいい。大切なのは成分ではなく、彼女の瞳が零す結晶そのものなのだから。
私はシンデレラの腕を掴み、暖炉から引きずり出した。シンデレラは大きく咳込みながら、泣き続けた。彼女が前のめりになると、シンデレラの谷間が垣間見えた。私は舌舐めずりをして、思わず彼女の胸元の布を切り裂いていた。シンデレラはハッとして胸を隠した。
羞恥に染まる頬、傷だらけの雪の肌、おののく紅い唇。
シンデレラはその全てでもって、私の情欲を煽る。
「嗚呼!」
自然に、叫びにも似た感嘆が溢れ出した。私はシンデレラの両頬を引き寄せた。
「好きよ、シンデレラ」
私はシンデレラを突き放し、部屋を出た。自室に戻りベッドに潜り込むと、恍惚とした溜息が出た。私はシンデレラとの邂逅によって教えられた、自らの昂りを鎮める貴い行為に及ぶことで、彼女の涙を自分自身の体に刻み込んだ。
今日は王の居城で、王子の婚約者探しの舞踏会が催されるらしい。母や姉はすっかり浮き足立って、仮面のような化粧を施し、煌びやかに着飾っていた。王子などどうでもいい私は勿論乗り気はしなかったが、母と姉により強引に飾りつけられた。そういった様子を、シンデレラは仕事に追われながら羨ましげに眺めていた。
ここ最近、シンデレラを最も強く深く痛めつけているのは、私であろう。私はシンデレラの涙見たさに、日を追うごとに攻撃の手を苛烈にした。私の暴力の証は、シンデレラの肉体にはっきりと表れている。
「お母様、私も行きたいわ」
洗濯を終えたシンデレラは、私たちが身支度に走り回っている衣装部屋にやって来て、母にそう告げた。母や姉は、忌々しげな顔をした。だが、一番恐ろしい表情をしたのは、私ではないだろうか。
シンデレラを王子と引き会わせるわけにはいかない。シンデレラのような見目好い女が舞踏会にいれば、男は必ず目を付け自らのものにしようとするに決まっている。そうなったなら、シンデレラはここからいなくなる。だから、誰の目にも晒してはならないのだ。
母ははなからシンデレラを舞踏会に連れて行く気がなかった。暖炉に豆をばら撒いた母は、それを拾い終えたなら連れて行ってやる、とシンデレラに言った。灰の中から小さな豆たちを選り分ける作業は容易でない。シンデレラも母の本音に気が付いたろうが、それでも豆を拾い始めた。
「本当に図々しい娘」
化粧台の前の姉が、ルビーのイヤリングを付けながら言った。母は今夜の馬車の手配のため、外出していった。
「ドレスもないくせにどうして行きたいなんて言えるのかしら? 恥知らずもいいところよ」
「……そうね」
シンデレラにドレスがないのは幸いだった。それは舞踏会に行けないから、というよりも、シンデレラをより輝かせる小道具になり得るからだ。穢れにまみれていても美しいシンデレラなのに、それを強調させてどうする? 汚らわしい虫が寄りつくだけだ。
椅子の上でぼんやりとしていた私に、姉は勢い良く振り向いた。きつい薔薇の香水が匂う。
「ちょっとあんた、あいつの様子見て来なさいよ」
「なんで私が」
「あんたが一番下っ端でしょ。ほら」
姉は顎で私を動かした。私は仕方なく立ち上がった、ふりをした。内心はシンデレラに近付ける喜びでいっぱいだった。
シンデレラは、静かにダイニングの暖炉の前に跪いていた。私の足音に気が付くと振り返り、怯えた様子を見せた。
「まだ終わらないのね」
私はシンデレラの横にしゃがみ込んだ。シンデレラは此方を見て目を見開いたが、すぐに俯いて作業を続行した。私はシンデレラを覗き込みながら、ワインレッドの爪で豆を一粒、摘んだ。それをシンデレラの傍らにある籠に放ると、彼女は今度こそ愕然として私を見つめた。私はそれに知らぬふりをして豆を拾い集めた。
本当に、なんて可愛くて……単純なのかしら。
ほとんど全ての豆を回収し終えると、シンデレラは瞳を輝かせて私を見た。
「あ、ありがとうございますっ」
私は微笑んで、シンデレラの髪を撫でた。出会ったばかりの頃は絹のような光沢を帯びていたそこは、すっかり艶を失ってがさついていた。そんなシンデレラでも私は、愛していると断言出来る。
私は豆を積んだ籠を持って立ち上がると、それをシンデレラの頭上で逆さにした。籠の中のものは、一粒残らずシンデレラを打ち、ダイニングの四方八方へと転がっていった。
「貴女は舞踏会に行ってはいけないの」
私は籠を放り投げ、その場を後にした。ヒールが床を叩く音に混じって、シンデレラのすすり泣きが聞こえた。
シンデレラを想う限り、私はどこまでも非情になれる。シンデレラはこの家という箱庭に閉じ込めておかねばならないのだ。例えそれがシンデレラにとって不幸でも、私のために、そうしなければならない。
シンデレラの幸福と私の愛情が矛盾すると言うならば、私は当然、自分の愛こそを優先させる。
舞踏会の最中、私は手持ち無沙汰でいた。母は私や姉をどうにか王子に近付けようと躍起になり、姉も必死になって王子の歓心を買おうとしていた。そんな二人を端から眺めて、なんて醜い、と思う。取り立てて美しくもなく教養があるわけでもない私や姉に、一国の王子が振り向くとでも思っているのだろうか。王子の顔を見てみろ。自分のための舞踏会だというのに、先程から僅かにも楽しまず、女を遠ざけているではないか。何故それに、皆気が付かない?
私は葡萄を一粒、口に含んだ。果肉を唇の間に挟み、皮を剥ぐ。流石、上等な代物だ。今の私と同じ青紫の衣を脱いだ葡萄は、なんて官能的なのか。
その時、会場が騒めいた。王子が一人の女の手を取り、踊り始めたからだった。私は目を凝らし、王子を手中に収めた色女の姿を捉えようとした。人垣の隙間から、刹那的に私の瞳に映ったものに私は目を見開いた。立ち尽くすばかりの情けない男や、負け犬と成り果てた女を突き飛ばし、王子と女の踊る会場中央へと出た。
何故、何故、何故。
目が醒めるほど光り輝く金髪をなびかせ、愛らしい双眸と唇は笑みを作り、ぎこちないながらも華麗なステップを踏む、王子のパートナー。この世に二つとないであろう素晴らしい薄桃のドレスにガラス製のヒールで着飾った彼女は、他の誰でもない、シンデレラだった。
私は足元から崩れ落ちた。周囲の者に邪魔にされ蹴り飛ばされても痛みを感じぬほど、驚愕と絶望と悲哀に襲われ、全身がわなないた。
シンデレラは心底幸福の中にいるようで、頬を上気させ王子を見つめていた。家にいる時には決して見せない、シンデレラの満面の微笑み。今、彼女の手を握るのは、王子。そして王子も、シンデレラを優しく導いている。
私は、王子に対して殺意にも似た嫉妬を向けながら、シンデレラに見入っていた。彼女は身に纏う高級なドレスや靴を圧倒するほどに艶やかで、可愛らしく、目映かった。私の下腹部は熱くなり、何かが満ちてくる感覚とともに内腿は振動した。
最早、私の瞳に王子は映らなかった。この空間にいるのはたった一人、シンデレラ。そしてそれを遠くから見守る私。ただ二人だけの世界なのだ。シンデレラは一人で舞っている。私は彼女の手を取ろうとはしない。何人たりとも、彼女に触れてはいけない。彼女は、キリストを産んだ処女の生まれ変わりなのだから。
嗚呼。
今この瞬間のシンデレラを永遠に、私だけのショーケースに捕らえて逃げられないようにしてしまえればいいのに。
舞踏会の夜、午前零時を回ると同時に、王子の踊りの相手は姿を消した。後に残されたのは、城外へ続く階段に落ちていた片方だけのガラスの靴だったらしい。そして今、王子はそのガラスの靴をぴたりと履きこなせる女を捜している。
「いい、貴女たち。なんとしても靴を履くの。どんな手段を使ってもよ!」
シンデレラは今日も、部屋の隅で床に跪いて掃除をしている。その彼女こそがガラスの靴の持ち主であったことに露ほども気付かない、母と姉。
まあ、そんなことはどうでも構わない。私がすべきことはたった一つ、あの男にシンデレラを渡さないこと。そのためには母の言う通り、手段を選ぶ余裕はない。
シンデレラは私のもの。私のものでないと言うなら、誰のものでもない、誰のものにもならない。
昼食の時刻を少し過ぎた頃、王宮からの使いがやって来た。大仰な馬車を乗りこなしてきた彼らの内の一人は、片足分のガラスの靴を携えていた。私たちは玄関ホールで使いたちを迎え、ガラスの靴を履くことになった。
まず、姉が靴に右足を挿入した。シンデレラの妖精のように小さな足に嵌っていた靴に、姉の足は当然入らない。姉はそれを使いたちに感付かせないようにしながら、靴を履こうと格闘していた。
私は静かにその場を離れた。廊下を進み、調理室に入る。私は何を考えるでもなく、調理用ナイフを手にした。
踵を切り落とす。
これから実行することに対して、不思議と恐れはなかった。シンデレラを喪失することより恐ろしいものなどない。
「お姉様?」
鈴を転がすような、小鳥の囀りのような、声。私の背中に緊張が走った。ゆっくりと振り返った先にいたのは、雑巾を持ったシンデレラだった。
「お姉様、そこで何を……」
シンデレラは最後まで言わぬまま、息を飲んだ。彼女の視線の先にあるのは、私が握るナイフだった。シンデレラは青ざめ、雑巾を放って走り寄ってきた。
「お姉様っ。一体何をなさる気ですか!?」
嗚呼この娘は、なんと心優しいのだろう。自分を散々に苦しめ抜いた人間のことを、本気になって心配出来る者が一体何人いると言うのだろうか。シンデレラの優しさは、私の劣等感を掻き立て、憎らしいほどだった。それでも、その分、愛おしい。欲しくてたまらない。
「危険です。ナイフを放して下さい!」
シンデレラが私の手を掴んだ。瞬間、体に電流が走る。私は彼女を思い切り振り放した。興奮したナイフはシンデレラの珠のような肌を切り裂き、その中から真紅の液体を滲ませた。その液体は独特の香りでもってシンデレラの頬を伝う。私は生唾を飲み込んだ。シンデレラを傷付けたことへの罪悪感が、呆気なく欲望に飲み込まれてしまった。
私はナイフを調理台に置き、シンデレラを引き寄せた。頬を押さえていたシンデレラは、体勢を崩して私の胸に倒れ込んだ。私は彼女の顔を持ち上げた。そして、舌先で傷口を舐め上げた。
「――やっ……」
シンデレラは甘美な喘ぎを漏らした。それが私を益々駆り立てた。私は彼女ごと床に崩れ落ちた。
シンデレラに触れたら彼女を穢してしまうだなんて、なんて馬鹿げた考えだったのだろう。欲望に忠実でいる方が、余程人間らしいではないか。この美味な血を味わってしまっては、他のどんな高級食物ですら泥水のように思えてしまうに違いない。
しかし、ほんの僅かな傷口から摂取出来る血液はたかが知れていた。聖液がこれ以上溢れ出てこないことが分かると、私はより多くの血を求めた。さながら、吸血鬼のように。
もう一度、ナイフを握り直した。シンデレラは自らの身に降りかかろうとしていることを察したのか、瞳を歪めて逃げ出した。私はナイフを振り回しながら、彼女を追いかけた。
「いやっ!」
果てしなく続くのではと錯覚するような長い廊下を走るシンデレラを捕らえ、その腕を引いた。彼女は抵抗して暴れ、その拍子にナイフは私の左腕を抉り、おぞましい色の血潮を噴出させた。シンデレラは動揺したようで動きを止めた。私は、林檎を握り潰せるのではというほどの握力で彼女の腕を捻り上げた。そこに私の血液の手形がこびりついた。
「ひっ――……」
シンデレラは恐怖と嫌悪を混ぜた表情を浮かべ、私を突き飛ばした。その瞬間に、ナイフの先がまた彼女の頬を掠めた。そのまま逃げ去ろうとする彼女を、私は肉が裂けた二の腕部分を押さえながら追おうとするも、気絶に導かれそうな激しい痛みに襲われた。壁に寄りかかりながら、一歩一歩、シンデレラの走る先へ向かう。シンデレラの背中はどんどん、どこまでも遠くなっていく。
どうして、行ってしまうの。
私は力尽き、前に転倒した。言いようのない不快で残虐な音がした。見ると、私の左胸に深く、ナイフが刺さっていた。首を上向けても、シンデレラの姿は、もうない。
行かないで、シンデレラ。ここにいて。そばにいて。
ねえ、お願い。
霞んでいく視界の中で、私は、舞踏会の日のシンデレラの笑顔を見た。私ではなく、王子に向けられたもの。私のものではない、その笑顔。
私が一番、欲しかったもの。涙と同等に、いや、それ以上に求めていたもの。本当に欲していたもの。
それが私に捧げられた世界が、存在したのだろうか。私が彼女を傷付けなければ、寄り添うことが出来たなら、それは私のものになったのだろうか。シンデレラが王子に恋することも、なかったのだろうか。
世界が黒に染まり、遠ざかっていく。物音も鼓動も、聞こえなくなっていく。頬に熱い何かが伝う。
分からない。今分かることは、たった一つだけだ。
私はもう、彼女の涙を見ることすら叶わない。
私は、深く深く、決して逃れられない暗闇に堕ちた。
*
苦しい。
苦しくてたまらない。呼吸が出来ない。誰かが、憎しみの限りをその手に籠めて私を締め上げる。
誰?
私はなけなしの力を振り絞って薄目を開け、私を死の淵に追いつめる人物を確認した。悪魔も震え上がるような凄まじい憎悪の表情を浮かべるその人物は、紛れもない、シンデレラだった。
シンデレ、ラ?
どうして、貴女がここにいるの。貴女は、あの王子のもとに行ったのではなかったの。人生の清福と引き換えに、王子に純潔を捧げたのではなかったの。
嗚呼、そうなのね。
貴女は私のために、行かないでくれたのね。ずっと私のそばにいようって、決心してくれたのね。嬉しいわ。
さあ早く、私を殺して。
食べて、排泄して、汗をかいて、自慰にまで手を染める、生きている私より、静かに目を閉じて眠る私の方が余程綺麗でしょうって、貴女はそう思うのでしょう? だから、私を殺すのでしょう? その手で、その目で、私を捉えて殺してくれるのでしょう?
私は貴女の、憎しみですら愛おしい。
私の首を絞めるシンデレラは、薄桃のドレスにガラスのヒールを履いていた。私が目にした中で最も美しいシンデレラの格好をしていた。貴女のその姿は一生、私の網膜というショーケースに閉じ込めておくわ。
ふと、私の口から、丸く小さな物体が零れ落ちた。それは舞踏会の日の、媚薬のような味わいをした葡萄の粒だった。途端、意識が薄れていく。
さあ、早く。
――ふふ、もうすぐよ。せっかちなんだから、お姉様は。
嗚呼、その笑顔。なんて、綺麗。今の貴女は、王子ではなく私に、その笑顔をくれるのね。
ねえシンデレラ。貴女は永遠に、私の亡骸を愛撫し続けなくては駄目よ。
――分かっているわ。ほら、行きましょう?
ええ、そうね。