第六十四話 暗夜終焉
その日、王都は喜びに湧き立っていた。
魔王討伐の達成、及び勇者率いる魔王討伐軍の凱旋。
万を超える討伐軍の内、無事 帰還出来た兵士達の数は元々の十分の一にも届かない。余りにも多過ぎる犠牲の上で、それでも勇者達は必死に笑顔を浮かべて王都に住まう民の歓声に応えていた。
大陸の現状を招いた諸悪の根源たる魔王現象は消滅した。
しかし これから先、未だ生き残っている魔物達に対する国を挙げての掃討戦、血みどろの時代が待ち受けている。
一年や二年では終わらない、恐ろしく長い戦いの幕開けだ。
魔王討伐の主力たる軍勢は大いに数を減らされて、きっと厳しい事になる。それでも今だけは、皆が皆 喜びの声を上げた。
内心の不安を押し殺せずに、けれど希望に満ちた未来が来る事を心の底から信じられる ように、と切なる願いを篭めて。今は作り物の笑顔を、何時か本物にしようと笑っていた。
――勇者よ。
――第五号よ。
――我らは貴女を賞賛しよう。
――当代において。
――貴女こそが真の英雄。
――墳墓の底にて その名を刻み。
――在るべき大地へと帰還せよ。
「……どうもー」
頭蓋の内側に響き渡る、数多の幻聴。
いやに はっきりと聞こえてくる神々の言葉に一言だけ答えを返し、黄泉の英雄 高橋恵三は、あの日 自分と一緒に召喚されて来た一枚の平皿と空になった牛乳瓶を、とても小さな、小柄な体格の少女 こそが使うに相応しいだろう大きさの鞄に詰めた。
魔王を倒した勇者であると、皆が彼女を褒め称える。
恵三自身から すれば、ただ単に小さな女の子が困っているから年上の威厳を見せてあげよう、などと考え奮起して、沢山の犠牲を出した上で ようやく達成。だというのに当の女の子は死んでいる。――と、不満ばかりの結果であった。
「帰って来たら お城は壊れてるしさー?」
王都より見上げる外観からは窺えないが、内側は大よそ破壊済み、それに加えて廊下は 血塗れ。駆除し終わった筈の動く死骸の残骸も転がったままで放置されていた。
辛うじて半壊には届かない、という程度まで壊されていたシェオルの王城は、未だ細かな清掃作業と瓦礫の撤去が済んでいない。
城に居残っていた人間の大半が死亡しており、やっぱり酷い事になったな、と恵三は溜息混じりに呟いた。
城内の破壊痕は ともかく、大量殺人の実行犯はナザレと その配下たる黒騎士達なのだが、詳しい事情を聞いていない恵三にとっては、現状で目に見える不利益の全てが正一の責任という事になっていた。
きっと当人が聞けば怒るだろう。しかし顔を合わせる機会が無いので問題無い。
恵三は満足気に頷いて、佐藤正一は疫病神である、と一人で こっそり呟いた。
「――勇者様、御帰還の準備が整いました」
「はーい」
侍女の一人に声を掛けられ、恵三が返事を軽く返した。
灰色の小さな鞄を肩に掛けると、先の声の主の手によって開けられた扉へ向かい、最後に一度だけ背後の室内を振り返る。
最初の日、勇者召喚の直後、恵三がゼロテと話をした部屋。
あの時 面と向かっていた筈の片割れが居ない というのは少々辛い。
重苦しい感情を胸の内側に抱えたままに、備え付けられたテーブルや椅子など部屋の内装を見渡して、一瞥のみで室内の全てを記憶に刻むと、恵三は その場を後にした。
シェオル王国の政治中枢、王城の機能は完全に喪失している と言って良い。
丸々一晩 好き放題に暴れ回った吸血鬼と、その配下たる黒騎士達。彼等は正一とマリアの手によって、恵三の帰還を待つ事無く、一人残らず殺害された。
その後 城内における生存者数を確認したが、抵抗勢力を作り上げると危ぶまれた武官勢は真っ先に襲われており、軒並み死亡。文官も戦闘能力 皆無ゆえに殺し易かったのか、有能無能入り混じって粗方殺害済み。
生き残った城の者達を取り纏められる立場の人間は、国王バプテスマ亡き今、王族という名目と召喚能力 以外を有していない十二王女と、陰で こそこそ動き回る程度の能しかない元王族が関の山。
いっそ勇者様を祭り上げよう、という阿呆な意見さえ出たほどだ。
「……や、一応やったけどさぁ」
高橋恵三、女子高生。前歴、第五号勇者、及びシェオル王国女王。
日本に帰っても履歴書には決して書けないだろう経歴が出来てしまった。
ほんの一月二月の間だけ、加えて完全に御飾り担当だった のだが、お陰で元の世界に帰還する予定が先延ばし になり、本当に大変な数ヶ月間だった。
崩壊し切った国の中枢は権威溢れる象徴無くしては纏まらず、此度の変事を生き残った元王族や貴族達も、しぶとく己の権威拡大を狙っては煩わしい声を上げる。
後者に関しては、腹を立てる事無く無視をするのが大変だった。
暗殺という事態に発展しなかったのは第一号勇者の死因がソレである事と、何より事を起こすだけの力が手元に残っていなかった からだろう。
魔王討伐の立役者たる恵三が死ねば どうなる事か、それさえ分からず実行に移す阿呆な輩が居なくて大変結構な事である。
――と、恵三は思っているのだが、彼女の知らない場所では、実は実行間際まで漕ぎ着けた阿呆が居たりする。
直前で阻止された ために標的である彼女は知る事無く女王としての任期を全う出来た、というのは完全なる余談であった。
国王バプテスマの命によって、かつて国内に配されていた兵力の大半が、王都を中心として集まっている。それはつまり、兵力を取り纏める責任ある立場の、所謂 権力者達もまた王都近辺に召集されている という事だ。
権力者が王都の遠方には存在しない。――王国は、もう何年も前から国土の管理を放棄していたのだ。
恵三が仮初の王位に就いて、勇者の名声をもって城内の官吏達を取り纏めさせた。だがしかし、先に述べたようにシェオル王国は国としての機能を喪失している。
それも、十年以上も前に、だ。
城内に詰める文武官に貴族達は、既に名ばかりの存在だった。
国王が そうなるように差配したのだ。
事故に見せかけた暗殺、或いは公的な処分。あの老人は王城を中心とした極小の領域以外を切り捨てて、辺境に住まう民達を見捨てられない良識有る官吏達のみが王都から遠い地域に残り、元より城内には存在しない。
シェオル王国の政治中枢、王城の機能は完全に喪失している。ずっと前から、その影響力は城内と城下のみに限られていた。
恵三が やった事は、勇者の名前を利用して、王城に居座る役立たず共が今ある混乱に乗じて馬鹿な事をしない ように、と戒めただけ。
馬鹿さえ やらなければ、後は彼等が何を せずとも国は回る。サボったとしても回らないのは城内だけで、王国は今日も明日も平常通り。
本当に狂った国だ、と恵三は思う。
結局のところ、彼女は この世界の事なぞ何も知らないまま 終わる。求められた役目に準じ、割り振られた仕事を やり遂げた。たった それだけの事しか出来ていない。
魔王は倒した。元の世界にも帰れるらしい。だから恵三個人としては何も問題は無いのだけれど――。
「釈然としなーい!!」
廊下を歩きながら、突如 恵三が大きく吼えた。
召喚直後は もっと晴れ晴れとした気分で帰れると思っていた ものだが、現実とは何時だって理不尽なもの。これより先は、魔王を滅ぼした事以外では極普通の一般人に過ぎない彼女が手を出せる範疇を超えている。
道案内として恵三を先導していた侍女が驚く姿に多少の申し訳無さを感じつつも、暫しの間、国を救った偉大なる勇者様は内心の不満を持て余して愚痴り続けた。
吸血鬼ナザレが塵と化して滅んで以降、第五号ディディモは意識を失い床に臥していた。
専用離宮の一室で眠り続ける彼女の脳内では再度 情報が錯綜しており、それが落ち着き次第 目覚めるだろうと医者は言う。その時 表出する人格が如何なる形、誰のもの であるのかは未だ答えが出ないのだが、いずれは分かる事である。
既に三人きり となった十二王女の生き残り、患者の妹である第六号レビが離宮を見舞う姿が頻繁に見られたが、彼女の欲する愛情が献身的な見舞いの返礼として返るか否かも、眠り姫が目覚める時まで誰も知らない事だった。
そして十二王女 最後の一人、第十二号ケファの話であるが――。
陰で生き延び此度の事態を引き起こした第一王子ナザレ。その行いの全てを知る者、生き残った者達の内でも責ある人物として一時は槍玉に挙げられた ものの、既に公的には三人のみしか存在しない王族の一人を、それ以下の立場に在る官吏達が面と向かって糾弾出来る筈も無い。
国王バプテスマが時間を掛けて彼等の権限を削り取り、死した今も尚その影響は残っている。
そこに加えて、名目上とは言え女王の立場に就いた第五号勇者も、明らかに責任能力の無い幼い少女を厳しく罰するつもりが無かった。
かと言って、無罪放免 問題無し、とも行かず。
今現在、専用離宮に軟禁状態となったケファの前には、こっそりと其処に身を潜めている正一とマリア、おまけに騒がしい妖精達が屯していた。
「くらい!」
「おなか空いた!」
「あそぼう!」
「五月蝿い。喰うぞ、コラ」
「おうぼうー!」
「くーず!」
「しね!」
「――ねえ、正一。やっぱり その妖精は殺した方が良いの ではない かしら?」
「いっ、いや、煩わし過ぎる所に、逆に愛着が湧いてさあ……」
軟禁状態の御姫様の目の前では謎の漫才が繰り広げられていた。
ナザレ主導の変事の末期、正一に大量の血を吸われたケファは貧血症状が行き過ぎた結果 気絶したのだが、目が覚めた後に王城の会議場で吊るし上げられ、それも終わって軟禁が言い渡された という事で己の離宮に帰ってきたのだが、其処で目にしたのは極小規模な魔物の群れ。
魔王を討伐した第五号勇者が異界へと帰還する今日この日。
昏睡状態の第五号や執行師としての立場を失っている第六号に成り代わり、一時軟禁を解かれた第十二号が勇者を送り返す。――その光景を見送りたい、と言う正一の我が儘が叶った結果だ。
城内には未だ醒め切らぬ混乱の名残があり、人型以外に変身出来る吸血鬼ならば、ろくに人の立ち入らぬ王女の専用離宮に身を隠す事は十分可能だった。
妖精達は そもそも勇者の凱旋に乗じて入城しており、非常に訝しげな目で見られる事はあっても、王国内では滅多に見かけない種族ゆえ、勇者の傍に居る点も加味して人を殺せる危険な魔物である と警戒される事さえ無く、こうして離宮の奥まで侵入出来た。
正一が元の世界に帰る事は無い。
勇者の帰還を見送って、夜闇に乗じて王都の外へと脱出する。
吸血鬼である彼が帰還の魔法儀式に便乗出来る わけも無く、帰れた所で今は外見からして魔物のソレだ。正一には この世界で生きていく以外の道は無い。無い、と言い切って諦めた。
そして第五号勇者 帰還のために設けられた儀式場、勇者の墳墓の大祭壇で、銀の飛沫が少女を包む。
最後の瞬間、恵三が笑って語り合える ような親しい相手は存在しない。
討伐軍所属の帰還兵達とは帰還の途中と後に幾らか話して、しかし それ以上の関わりも無いまま今日を迎えた。元より恵三にとっては予想した王城の混乱を治める為に戦力が必要だった場合のために拾い上げた者達だ、必要以上に仲を深める事は無かった。
兵士達からしても、魔王討伐を成した勇者の存在は雲上人。自分達も魔王討伐に貢献したとは思っているが、生き残りの者達は最後の決戦に居合わせた というわけ でも無い。同等の高みにある英雄では無く、友と呼ぶのも不敬が過ぎる。時間が経てば、自然と距離は開いていった。
恵三が一番 話をしたかった相手は死んだ。
彼女が腹を割って話せる相手は何処にも居らず。英雄の帰還とは思えない程の寂寥感に小さく顔を曇らせて、味気無い送還の時を待つしか無い。
「あっ、そうだ――」
元の世界への扉が開き、かつて居た場所へと帰る瞬間。恵三が儀式を執り行っているケファを見た。
勇者帰還後の城内会議にて吊るし上げを食らっていた時が初対面の、互いに大した縁も無い相手。美しい金髪の幼い執行師、第十二王女ケファ。
少女に向けて、小さく笑って別れの言葉を投げ掛ける。
「あんまり問題行動しないように、って先輩君に言っといてー」
朗らかに笑う勇者の言葉に、結果として人喰いの化け物を匿う形になっていたケファの視線が大きく泳いだ。
あれだけ無駄な感情に振り回され続けていた少年が、同郷である恵三の帰還に何の反応も見せない という事は有り得ない。
きっと絶対 何があろうと間違いなく、第三号勇者 佐藤正一は儀式が見える場所に居る。
それが分かっていながらも、恵三は何一つとして特別な行動を取らなかった。
自分に出来るのは魔王を滅ぼす事だけだ。人と魔物の問題も、これから先の国の事情も、全ては この世界の者達が解決すべき問題である。恵三には何も出来ない、という のが正確で、帰るべき場所のある自分が気を揉むような事でもない。
もしも己の帰還に便乗して元の世界に乗り込もうと したのなら、如何なる手段を用いても阻止する心積もりで儀式に臨んだ。
結果として、それは杞憂に終わったが。
「ま、これで お別れって事で――」
そう言い残し、勇者は黄泉から姿を消した。
同時同瞬、勇者の墳墓の更に先。
既に誰も知る者が居ない筈の奥深く、無数の円柱が回り続ける広々とした空間で、一人の人間が第五号勇者の記録碑の停止を見届けた。
鍛えられた体躯を簡素な衣服で包み隠し、内面の一切 窺えない表情で、壮年に差し掛かった その男は口を開く。
「――全て失敗、いや、魔王は滅んだ。これで良しと すべき、か」
平坦な声音、感情の無い顔。
国王バプテスマの死亡以後一日以上の時間経過、という条件の達成をもって傀儡の術式が起動した――その男は、正一達によって皆殺しに された筈の黒騎士達の一員だった。
彼本来の人格も今は亡き国王の記憶によって塗り潰され、新たな意識を得た その時には、既に全てが終わっていた。
ナザレは滅び、王の道具たる十二王女も軒並み死亡。王国に残されたのは並み居る無能と凡庸極まる官吏達、後は魔王討伐の喜びに沸き立つ民だけだ。
老いた国王の夢想は叶わず、今こうして一人佇む騎士の男も、漫然と勇者の帰還を確認するのみ。
「如何に するべきか。――余の夢を、叶えるためには」
脳内へと刷り込まれた王の記憶と人格と価値観。この世に遺された国王バプテスマの遺品とも呼べる情報群を抱えた その身で、刻み込まれた王の妄執、その残骸に操られる がままに、やがて男は何処とも知れない場所へと消えた。
ソレが芽吹くのは、ずっとずっと、未来の話となる。
勇者が帰還する様子を見送って、正一達は勇者の墳墓を後にした。
ケファの手引きが無ければ、遠目に見る事さえ叶わなかっただろう。正一は内心で あの親切な御姫様に感謝の言葉を大いに捧げ、喋らないように袋詰めにした妖精達を振り回しながら、闇に紛れて走り出す。
手元には小さな魔物が三匹、隣には併走する吸血鬼。
どうして こうなった のだろうか、と正一は小さく溜息を吐いた。
耳聡く それを聞き付けたマリアが物言いたげな視線を送ってくる のを無視して、何時か試練の洞窟から逃げ出した時のように身軽な身体で走り続ける。
爪の先だけで顔の右半分にある文字状の火傷痕を軽く擦ると、正一は、――彼等は、そのまま何処か遠い暗がりの奥へと姿を消した。
元は勇者だった筈の少年の、哀れで薄暗い物語は ここで終わる。
そこから先は、誰も知らない話であった。
一応ここまでで終わり。
読んで下さった方は、有難う御座いました。




