第五十五話 魔王消滅
白銀色の斬撃が、天と地を繋ぐが如き一条の巨大な光線を描き出す。
第五号勇者の生命力と、第二号 召喚執行師の生命力。組み込まれた神の権能を発現するための必要量以上を供給された勇者の剣が、内側から破裂せん ばかりの大出力を放出した。
振り下ろされる銀の光が黒の柱に接触し、悪意の渦を晴らす眩い輝きが天地を染め上げ広がっていく。
そこまでしても、剣の柄を握る恵三には一切の衝撃が伝わって来ない。神聖光の爆発は、人間である彼女に対して欠片も影響を及ぼさない。
ただ、酷く身体が重かった。
今までに無い大量の神聖光を吐き出す光景を目にして、恵三の直感は何らかの異常が起きている事を察していた。
それはゼロテが王女の剣を経由して彼女の持つ勇者の剣に生命力を供給している からなのだが、夫婦剣の仕組みを一切知らない恵三からすれば予想外の事態に他ならない。
何かが おかしい。こんな力を出せる筈は無い。
けれど、――だからと言って、ここで剣を止めるわけにも いかなかった。
これ以上の出力を今後 発揮出来るとは思えなかった。理由は分からないが、剣の威力の増大は魔王討伐という一点に限れば心強い。
後の事は後になってから考える。余計な思考を振り捨てて、恵三は刃を振り切った。
それと同時に、第二号ゼロテが事切れた。
周囲一帯を埋め尽くすほど大量の神聖光が収まった時、肩を弾ませ視界の霞んだ疲労困憊の恵三の前には、黒く小さく立ち昇る、陽炎のように淡い何かだけが揺れていた。
天を衝くほどの巨大な柱が、ただの一撃で その大半を消し飛ばされた。
其処に在るのは魔王の残り滓と呼ぶ のが相応しいだろう、酷く小規模な悪意の湧き水。
ソレに向かって恵三は勇者の剣を持ち上げて、――持ち上げようとして剣を落とした。
「……無、理、かも」
何時も通りに能天気な表情を取り繕うだけの気力も無い。身体の中にあるエネルギーの全てを絞り尽くした かのような吐き気を催す倦怠感。ふざけて口を衝く弱気な声音も荒れた呼吸で不規則に震えて己の耳にさえ届かなかった。
落ちた剣を、拾わなければ ならない。
それが分かっている というのに、身を屈める どころか軽く痙攣し続ける指先を動かす事さえ出来なかった。まるで全身を巡っている筈の体液が鉄か何かに置き変わったかのような、今にも死んでしまいそうな程の絶不調。
まずい、と思った。
もはや自分の意志では一ミリだって動かない。冗談抜きに、命に関わる事態のようだ。
「ぜっ、ゼロ吉ぃ……っ」
先程まで明瞭だった恵三の意識が途絶えていく。
この場で最も信頼出来る少女の名前を呼び掛けたが、その声は吐息と然して変わらぬ希薄なもので、誰にも届く事無く掻き消えた。何よりも、何時もならば聞き届けてくれた誰かの命も、勇者の知らぬ間に絶えている。
恵三の目の前に、消滅寸前の魔王が居る。
あと一度だけでも剣を振るえば、滅んでしまう だろう小さな残り火。
確実に滅ぼせる所まで来ている。なのに、後たった一度の攻撃が行えない。
それが恵三にとっては凄まじく悔しい事だった。容易く叶う筈の願いが、どうしても実現に至らない。自分の身体が今の体勢から一ミリだって動かせず、意志に反して彼女の視界は暗くなる。
ここで意識を失えば、きっと酷く不味い事に なってしまう。
小さくなった魔王が時間をおいて復活するか、或いは、恵三自身が もう二度と戦えなくなるか。
周辺には魔物だって居た筈だ。迎え撃つだけの戦力が、今の討伐軍には存在しない。
彼等が魔王を守るか否かは不明だが、魔王を目前にして無防備に意識を失っている人間種族を目にしたとして、何もせず放置するなぞ有り得ない。間違い無く殺される。殺されてしまえば、魔王を倒せない。
魔王を倒せなければ、少女との約束を果たせない。
「アタシって、意外、と、約、束はっ、守る、タイプなんでぇ……っ」
召喚初日の事である。
高橋恵三は、その日ちょっとだけ見栄を張った。
喧嘩だって ろくにした事の無い、動物で例えると辛うじて草食系に分類される高橋恵三。戦場でこそ輝く英雄の器を持ちながら、彼女は争い事とは無縁だった。
勇者の何たるかを全く知らず、むしろ異世界に召喚された現状を夢かも しれないとさえ考えていた彼女は、今にも泣きそうな顔で必死に言葉を重ねる年下の少女を相手に「魔王を倒す」と豪語したのだ。
年齢が妹と近かったから。泣きそうな顔をしていたから。彼女が一生懸命な様子で恵三を勇者と呼んだから。
それは極めて感情的な理由であったが、約束したのは恵三の意志だ。
契約と呼べるような強制力は何も無く、上っ面だけの口約束。守らなくとも罰則なんて存在しないが、恵三にだって女として、年上としての矜持がある。
だから。――よし、いっちょ勇者様に なってやろうか。と胸を張りながら言ってやった。
約束は、守らなければ いけない。
年下が あんなに頑張るのなら、叶えてやるのが年上の役目。ゼロテに語ったように、彼氏が喜ぶだろうか、という ふざけた理由も嘘偽りの無い恵三にとっての本音であった。
「小さい子に、縁がある、な――っと」
年齢相応に小さな恋人の、小生意気な笑顔を思い出す。背が低くて灰色の髪の、一生懸命な可愛い御姫様の お願いを叶えようと心に決めた。
本当に自分が勇者ならば、見事やり遂げて胸を張ろう。元の世界に帰ったら年下の恋人に自慢話をしてあげよう。
ゼロテには、あの時のように頭を撫でて、魔王は倒したのだから もう泣かなくても良いのだと、そう教えてあげ なければ――。
「――だから、さ。もう、ちょっと、だけ」
沢山の事を考えたからか。真っ暗闇に呑まれた視界が、ほんの少しだけ晴れた気がした。
手を伸ばして、剣の柄を握って、もう一度 魔王目掛けて攻撃を。
攻撃、を。
出来ない。
「あぁ――」
声が出ない。
力が出ない。
息が出来ない。
立ち上がれない。
意地を張らなければ いけない時に、一番大事な瞬間なのに、恵三の身体は持ち主の言う事を全然聞かない。
両手が動かず、勇者の剣に届かない。
武器が無ければ恵三など只の人間だ。僅か一メートル以下の距離を埋める事さえ叶わずに、揺れる視界の中で地面に転がった銀色の刀剣を物欲しそうに眺めるだけ。
誰か取って くれないだろうか。そんな事を考えた。
「――ほら、ちゃんと握ってろ」
そう考えたから なのか、目の前に勇者の剣が差し出された。
小さく震えるばかりの恵三の両手に、押し付けられる ようにして柄が触れる。もはや呼吸をするだけの体力さえ勿体無い、ただ一心にソレを掴む事だけを考えて、真っ暗闇に閉ざされた視界が一面 銀の光に包まれた。
誰かは知らないけれど、有り難い。
これでゼロテとの口約束を守れる。どうだ やってやったぞと年上としての面目が立つ。
恵三は笑って礼を言った。
本当に其処に誰かが居たのか、白銀に塗り潰された視界では確認の しようも無かったが、手の内にある柄の感触だけは疑いようの無いものだった。
「これ、で」
――これで、終わり。
そう呟いて、勇者は魔王を滅ぼした。
真っ黒な大地の上に、無数の騎士達が倒れ伏している。
死屍累々。そうとしか呼べない光景だった。
或いは一人一人を確認すれば息のある者も居たのだろうが、この場に立っている正一としては そんな面倒な作業は したくない。
「生きてたー?」
「こんばんは!」
「やっほー」
「ぜんめつ!」
「……お前ら、まだ居たのかよ」
喧しい と言うよりも姦しい。
勇者率いる魔王討伐軍 本隊に くっ付いて此処まで来たらしい妖精達が、正一の姿を目にして相変わらずの様子で騒ぎ出す。
気が付けば片手の指で足りる程度の少数のみ が生き残り、しかし悲壮感なぞ全く無い。ここまで能天気に生きて行けるのならば きっと人生も楽しく感じて仕方なかろう。
「魔王が滅んだ ようだけど、……良かったのかしら?」
「俺は気にしないけど……」
「そう。なら、良いわ」
既に日の落ちた時間帯、一緒に歩いてきたマリアが首を傾げて訊いて来る。
彼等の目の前には、もはや噴き出すものも無い ただ黒いだけの地面と、其処に倒れ伏す金髪の少女勇者の姿があった。
それ以外には何も無い。本当に、何一つとして残っていない。
正一達が此処に辿り着いた時点で既に、おぼろげな黒色が燻る ばかり。魔王と呼べる ような存在なんて残り滓のような色彩のみで、影も形も見えなかった。
正一が己の掌を見下ろせば、勇者の剣に直に触れた事で僅かな痒み を覚えただけの、青白い魔物の皮膚が見える。
石像のように姿勢を固めて震える勇者。彼女を手助け したのは単なる気紛れだ。
魔王に会ってケジメを付ける。そう考えていたのだが、到着した時には もはや それらしいもの も無く、何故か魔物である自分が勇者である少女に助力するという意味不明な事が起こった。
「締まらない なあ……」
結局 此処には正一のためのもの なぞ何も無い。
勇者として召喚された筈が魔物になって、最後の最後に本物の勇者が魔王を討伐する姿を特等席で観賞するだけ。これでは何のために喚ばれたのか 分からない。
目の前に倒れているのは、正一と然して年の変わらぬ女の子だ。
染色された金髪の根元が地髪の色を ほんの少しだけ覗かせて、血と汗と泥に汚れた鎧姿には目立った傷など見られない。きっと此処まで沢山の仲間と一緒に進んで来たのだ。正一とは違って、本当に勇者を 演れたのだろう。
羨ましい、という感情が湧き出した。
すぐに、仕方が無い、と諦めたが。
「――で、お前は何者だあ?」
言って振り向いた先には一人の女が立っていた。
華美な装いなど ではなく、しかし軍人と思えるような あからさまな武装も無い。その足元にはドレス姿の少女が一人、事切れたか のように倒れ伏している。
魔王の居た場所、吸血鬼を前にして。感情の見えない女の顔は余りにも不自然な ものだった。
「ふむ、――失敗作か」
「ぁあ゛?」
平坦な声音が耳朶を打つ。
女らしさ とは無縁の物言い。それ以上に、侍女姿の女の振る舞いは場違い過ぎる。
彼女には必死さが無い。
先程まで この場では勇者が、討伐軍が、国を救うための戦争を行っていた筈だ。
なのに女の声には感情が無い。恐怖も高揚も歓喜の情も、何一つとして窺えなかった。まるで血みどろの戦い、その全てが自分には関係無いとでも言うかのような、人形の如き立ち姿。
「なんか、憶えがあるな」
違和感と同時に既視感を覚える。かつて何処かで感じた、自分の認識以外の全てが どうでも良いと言うような、周囲から乖離した、場に そぐわぬ立ち居振る舞い、異質な言動。
そうして正一は思い至る。
――イスカリオテに そっくりだ。
己の離宮に単身 忍び込んで来た元勇者の吸血鬼を相手に、何時も通りの微笑を浮かべた王女の姿。
自分の血を吸って欲しいと希う、吸血鬼となった少女の言葉。
真っ当な感覚とは噛み合わない、空気の読めなさ。異質な振る舞い。身勝手な感性。
「……お前、誰だ。王族か何かか?」
イスカリオテ王女の縁戚だろうか。
深い考えなど特に無いまま、仮に戦闘になってもマリアと二人掛かり なら負けない だろうと楽観して、正一は ふと思い至った可能性を言葉に直して問い掛けた。
対する侍女の反応は、僅かに動きを止めただけ。
肯定も否定も無い。ただ なんとなく、その様子が正一には自分の疑問を肯定している ように感じられた。
「やはり素晴らしい。――が、もはや お前には価値が無い」
暫しの沈黙から ようやく口を開いたかと思えば、褒めているのか貶しているのか判断に困る言葉が出て来た。
本当に意味が分からない。
徹頭徹尾、己の頭の中だけで完結している。正一の意志なぞ彼女は全く必要としない。大事なものは己の思考、己の都合、己の望み。ソレに沿わないものは等しく無価値。そう言ってのけている かのようだ。
控え目に言っても屑の振る舞い。
コミュ障か、と正一が眉根を寄せて溜息を吐いた。
「ねえ、イスカリオテ。もう良いのでは ないかしら?」
傍らで話を聞いていたマリアが焦れた ように促した。
何時まで話をしているのか と不満を吐き出す。
彼女と彼女の同族達が吸血鬼の王として見い出した少年が、見も知らぬ下等な人間一人に価値が無いなど と言われれば、正一に好意を抱いている彼女が腹を立てるのも当然だ。
が、マリアの呼び掛けた名前に、侍女姿の女が反応する。
「イスカリオテ?」
「……おぅ」
第一王女の名前。吸血鬼に対する正一の偽名。
不思議そうに訊ねられると、気まずそうな正一が小さく返す。
死んでしまった少女の名前を己の偽名に利用した。その事実のみを見つめ返せば、死んだ彼女への失恋を引き摺る面倒臭い男か、或いは少々以上に偏執的な何かを感じる。
二人の反応にマリア一人が首を傾げて、そこに篭められた意味を理解出来ない。
僅かに場の空気が緩んだが、侍女は これ以上 無駄な遣り取りを行うつもりが無かった。
魔王は滅んだ。勇者の価値も最早無い。
あとは王国の縮小と掌握をナザレが成せば、彼女の内側に残された意識の残滓も消えるだけ。為すべき事は後一つ。
永遠に生きるべき王と同等同質の存在、吸血鬼の殲滅のみ。――だが どうにも間が悪かった。
本来なら勇者を用いて行う筈が、結局 都合が付かずに魔王は死んだ。今も倒れ伏す第五号勇者も、果たして未だ息が有るのか どうなのか。どちらにせよ、これ以上は勇者を利用するのも限界だった。
国王バプテスマが死んでしまった時期も悪い。あの状況では ああする事が最もナザレの精神に対して効果的だったが、臆病な王子様が城内で上手くやれて いるのか どうか、心配で心配で仕方が無かった。
全てが万事抜かりなく、など望むべきも無い事だが。国に関しては最早ナザレに任せる以外に手段が無い。真に口惜しい事である。
ならばこちらは、こちらだけは。
「――父として手を尽くして やらねばな」
そう言って、正一達が反応する間も無く侍女の肉体が眩く光り。
周囲一帯を巻き込む規模で、爆発した。




