第五十話 月下憧憬
地中から湧き水のよう赤い色をした何かが溢れ、やがて二人分の体積が地面の上に転がった。
赤い粘体が ずるずると緩慢な動きを見せ、やがて解け出す その内側から黒髪の少年が姿を見せる。続くように赤色が渦を巻き人型を作ると、赤いドレスの少女も また己の肉体を取り戻した。
ただし、その白い肌には所々 石ころ のように黒ずんだ痕が目に見える。
少女、マリアは暫しの間 俯いて黙り込んでいたが、やがて毅然とした表情で顔を上げ、汚れ一つ無い綺麗なドレスの裾を翻して傍らの少年を見下ろした。
地上にて姿を現して以降、ずっと倒れこんだままの佐藤正一。
仰向けになって ぼんやりと夜空を見上げながら、ただ寝転がるに任せた姿。
「イスカリオテ」
マリアが彼の偽名で呼び掛けたが、何も反応が返ってこない。
夜闇に輝く少女の眼差しが、同じ色の両目を睨み付ける。
「イスカリオテッ!!!」
見下ろした先にあるのは酷く無気力な姿だった。
何もしたくない、という内心が聞こえてきそうな程に、覇気と呼べる ものが無い。
意思が欠けている。たかだか一度や二度の敗北で、目の前の少年は この有り様。
それが酷く気に喰わない。
「イスカリオテ――」
マリアの実の父親が、死んだのだ。
王女である彼女の傍に侍る、いつ何時も口を開かぬ寡黙な男。何をするでも無くマリアの命令だけを待ち続ける、面白みの無い退屈な性格の御目付け役も、きっと死んだ。
マリアと正一を守るために、死んだのだ。
なのに守られた側が このような無様を晒す なぞ、決して してはならない事だ。
「立ちなさい」
真っ直ぐに見下ろす視線が、見上げる視線と交わら――なかった。
視線を合わせる事さえ しない。本当に ただ転がっているだけ。かつて少女が見初めたような力強さなど欠片も感じられなく なっている。
此度の敗戦が そこまでの苦しみを与えたのか。そう考えたが、ならばこそ立ち上がるべきだとマリアは考えた。
無様にも敵の術中に嵌り込んだ正一を助ける事は困難だった。
仮に彼の身柄を確保出来ても、討伐軍の厚い包囲を抜ける事は不可能と言えよう。
上空が開けてはいたが、吸血鬼三人の変身能力は蟲と子猫と血液の塊、正一にしても掌に乗るような小さな蝙蝠達の群れ。飛べば弓矢と魔法の一斉射撃が襲ってくる上、空を飛べない二人は その場に残される。飛べる二人が他者を運べるような身体構造に変身 出来ないのだから、仲間の犠牲は避けられない。戦って勝つ事は不可能だと誰もが理解しており、なのに逃げる事も出来ないと分かる。
だから王は切り捨てた。己自身と もう一人を、だ。
マリアが変身した不定形の身体で正一を包み込み、地中に潜り込んで逃走。年若い二人を戦場から逃がし、残った古参二人で討伐軍の足止めを行う。
都合良く、勇者の放った神聖光が逃走に際して目晦ましの役目を担い、後は命懸けで暴れ回って敵側の負傷者を増やす事で、少しでも逃げたマリア達の後を追えるようになる までの時間を稼ぐ。
王とナハシェの犠牲の上で、この場に居る二人は生き延びた。
「立ちなさい、イスカリオテっ!!」
吸血鬼が敗北するなんて、つい先日のマリアだって全く考えていなかった。
友が死んだ。皆が負けた。それでも顔を上げて前へと進んだ。王女マリアは もう二度と膝を折っては ならないのだ。自分の命が、誇りある同族達の犠牲によって守られて来た と知っているから。
彼女は、目の前の少年にも自身と同じ決意を強く望んでいた。
「お父様とナハシェが、私達のために貴い命を投げ出したのよ。こんな所で足を止めてなんて居られないわ」
過去を背負い続ける事が、王族たる者の在り方だ。
少なくともマリアは そう考えた。そうでなければ失ったもの達の大きさに己の心を囚われて、永遠に蹲って歩けなくなる。立ち上がるために、戦う為に、生きるために、マリアは 己の生き方は そうあるべきだと形を定めた。
足を止めるには早過ぎる。まだ、何も成し遂げては いないのだ。
「――うるさい」
そして彼女の決意なぞ、正一にとっては糞以下の価値しか有していない。
佐藤正一は、精神的には負け続けている。
己の手にする勝利と成功には全く期待しておらず、だと言うのに何か一つを失う度に、彼の臆病な心は悲鳴を上げた。
ずっと、ずっと、彼が本当に求めている ものは手に入らず。
結局、また負けてしまった。
また、失った。また、守れは しなかった。
異世界に召喚された直後の出来事を思い出す。綺麗な御姫様の懇願を聞かされた あの時から、正一は 失う以外の変化を心の底から喜べた憶えが全く無い。幸福の記憶は遥かに遠い場所にある。
吸血鬼になって強くなったが、そんなものは欲しくなかった。
イスカリオテ王女が吸血鬼になって、道連れは出来たが苦しいばかり。
そんな彼女が死んでしまって、身軽には なったが それは重石が消えただけ、開放感はあっても歓喜の情とは何処か違ったものだった。
同じ吸血鬼達の共同体に招かれても、正一の心は救われない。
顔が光って、何故か祝福と日光を無害化 出来たが、それが何だと言うのだろう。
勇者を相手に はしゃいでいたが、結果は今在る この通り。
「結局、また駄目だった じゃないか」
「イスカリオテ!!!」
弱音を吐き出す正一の首元へ、押し潰すようにしてマリアの両手が襲い掛かる。
吸血鬼の握力で強く圧迫された事で無理矢理に息が吐き出され、苦痛から顰めた正一の顔の間近には、赤く輝くマリアの視線が燃えていた。
真っ直ぐな目だ。苦鳴と諦観に濁った正一のソレとは全く違う。
もはや共同体に属していた本当の意味での同胞など一人も居らず、残っているのは自身と、未だ知り合ったばかりの正一だけ。そして現状唯一の同族は偽名を名乗り、今も犠牲の上で生き延びて おきながら立ち上がろうとも せずに倒れたまま。
マリアにだって この場における最適解など分からない。自分達に進める道が有るのか否かも不明だった。彼女の胸中には不安ばかりだ。
しかし所詮は、その程度の逆境である。
「生きているでしょうっ、貴方も、私も!」
地下城の、あの敗北の最中で、マリアは立ち向かうと決めたのだ。
自分達は強い。自分達が負けるわけが無い。
だって生きているのだ。
どれだけ多くの敗走を繰り返しても、どれほど大切なものを失くしても。未来に繋がる何かが一つだけでも有る限り、未だ終わって などいない。命に続きが あるのなら、それは決定的な敗北とは成り得ない。
自分達は未だ終わってなど いないのだ、と彼女は言い張った。
例え拙い欺瞞にしか聞こえずとも。己自身に繋がっている あらゆる全てが死に絶える最期の最後の瞬間まで、マリアは そう謳い続けると決めたのだ。それが彼女にとっての誇り。吸血鬼としての生き様だ。彼女の決めた、彼女の在り方。
それが何だ、と正一が言う。無意味な強がりだと弱気に告げる。
何も出来ない無能な少年。失敗ばかりの勇者落第。
「言っただろ、俺は、そんな大したものじゃ」
「ええ。――私達を見捨てて逃げるような薄情者だもの」
マリアは忘れてなど いない。
地下で黒騎士と見えた あの時、正一が自分達を置いて逃げた事を。
何か特別な事情が あったとか、目に見えるものを曲解して都合良く勘違い したりも しない。彼は疑いようも無く卑怯な奴だ。敵の強弱を見抜いた理由はマリアからすれば不明だが、命惜しさに同胞たるマリア達 若手を見捨てたのだ。
「分かってるなら、」
「だからこそ! 私は貴方を信じているのよ、イスカリオテ」
マリアが正一に好意を抱いたのは、彼が とても弱いからだ。
黒騎士を打ち破るような強者だから、ではない。徹底的に追い詰められた状況を覆す、祝福の影響を跳ね除ける異質な特性が有用だから目を付けたという打算も無い。
意味も価値も認めないとは言わないが、それらは彼女にとってのオマケに過ぎない。
危地に背を向け逃げ出すような臆病さ。仲間を置いて自分の身だけを守ろうとする卑しい心根。――その上で、それでも困難に立ち向かう事の出来る矛盾した彼の一面にこそ、マリアは惹かれて傅きたいと願うのだ。
知識と経験を持ち得る同胞は残らず死んだ。
此処に居るのは命懸けで夢を見る愚かな王女と、無思慮に暴れ回るだけの臆病な狂犬だ。
だけど諦めない、とマリアは言った。
生きているのだ、だから自分達は足掻かなければ ならないのだ。
自分自身を何も出来ない無能と知っても、それでも、もう一度立ち上がれと発破をかけた。
「吸血鬼は負けないわ、イスカリオテ。――まだ、貴方には私が居るでしょう」
命がある。生きている。独りぼっちでも無い。隣に自分以外の誰かが居る。
完全に終わってしまう最期の時まで、添い遂げると決めている。
そんな彼女の気持ちを欠片も察する事が出来ないまま、正一は夜風に揺れる真っ白な髪の動きを目で追っていた。
死んでしまった何処かの御姫様に似ているような気がしたが、もしかすると全然似ていないのかも しれない。少なくともイスカリオテという名の少女は こんなに真っ直ぐな目を していなかった。
強い意思に満ち満ちた瞳の明るさを視界の端で捉えながら、少年の顔が僅かに淡い光を放ち始める。
何らかの気紛れか、或いは只の冗談か。力ない声音で身の丈に合わない大言壮語を口にした。
「俺は、勇者に なりたかったんだ」
「そう。だったら、吸血鬼を救ってくれるかしら、――勇者様?」
正一が言えば、間髪を容れずにマリアが繋げる。
お互いに笑みの一つも浮かべず おどけた様な言葉を交わし、それに何を感じたのか目蓋を閉じて、もう一度だけ正一が胸の内で繰り返した。
勇者になりたかった。
宝石のような御姫様に乞われた あの時、正一は物を知らぬ幼子のように、そうなるのだと確かに願った。
誰かを守れる人になる。
――今度こそ、叶えなければ ならない。
佐藤正一は紛れも無い悪党であり、周囲に被害を ばら撒く事しか出来ない真性の疫病神だ。我が身を襲った不幸を呪い、好き勝手に当たり散らして ばかりで気付けば此処まで辿り着いていた。
彼には誇れるような ものなど無いが、誰かを守る時だけは、温度の低い身体に熱が灯るのを確かに感じる。嘆くしかなかった時とは違い、地下城で黒騎士と戦った時も、今も。見知らぬ誰かが正一の行いを肯定して くれているような気がしていた。
きっと単なる錯覚か、気休め程度の自己欺瞞に過ぎないのだけど。
『ACCESS』
今は、地下城で戦った時よりも、召喚された時よりも、ずっと頑張れるような気がしていた。
本来はイスカリオテ王女がやる筈だったシーン




