第四十三話 不意遭遇
――赤い瞳の誰かに関して、報告するべきでは なかったかも知れない。
お偉い人間というものは腹が立つ。
第五号勇者 高橋恵三は、負担の少ない軽鎧を身に付けながら唇を尖らせた。
彼女は王国内における騎士団の肥大化や その影響、貴族連中の腹の内を深く見知っているわけではない。ただ単純に、討伐軍に属する兵士達が頑張っている最中でさえ意見の一致を見せる事無く喧々囂々と好き勝手に言い争って、傍目からは いい年をしたオッサン連中が私情優先で我が儘を言っているように見えていた、――それが気に食わないというだけだ。
恵三は王国内の詳しい内情なぞ何も知らなかった。だから或いは、彼女の考えは視野の狭い了見と言い切られてしまう程度のもの かもしれない。
しかし、それでも、だ。
「面子って奴? ……なんだか不良っぽいなぁ」
魔王討伐軍が吸血鬼を追わねばならない理由なぞ、彼等の個人的感情に他ならない。
騎士として、貴族として、元王族として。
そして何より、シェオル王国に属する人間種族としての矜持だ。
ただ それだけのもの であり、それ以上には成り得ない。王に媚を売るため、単なる点数稼ぎの手段として見ている者達も居たが、恵三から見えた視点において彼等全てに言える事は、吸血鬼を追跡、討伐する事に関して反対する者が一人も存在しなかったという点だ。
犠牲者はナザレとイスカリオテ。二度に渡って汚点を刻んだ、王族殺しの吸血鬼。
きっと間違いなく今現在 後を追おうとしている相手とは別人だが、敵対象が吸血鬼であるというだけで殺す理由には充分過ぎる。彼等は そう判断していた。
恵三には全くもって理解出来ない話である。
この世界の原住民、王国に属する立場有る人間。それゆえの判断、独自の価値観だ。
国家の威信、王族を守れなかった近衛の面子、自分達が戦力として吸血鬼に劣るわけではない という言い訳、体面、面目、体裁、虚栄心、――只の つまらぬ人の意地。
吸血鬼など無視してしまえば良い。恵三はそう思ったが口を噤む。
首脳陣の勝手な言い分に振り回されているのは恵三ではなく、討伐軍の最前線で必死になって戦っている人達だ。御客様気分の異世界人が声を張り上げても、もしかすると余計な御世話になるかもしれない。多少の御節介 程度なら ともかく、はっきりと迷惑を掛ける事は嫌だった。
だがムカつく。恵三は憤慨して勇者の剣を振り回した。
オッサン同士の感情的な言い争いなど見ていて楽しいものではない。彼女の豊かな胸の奥には多大なストレスが蓄積されていた。こんなにも腹が立ったのは父親の浮気が母にバレて家庭内の不和が最高潮に達した時以来の事だ。ちなみに後に両親が離婚し、恵三の苗字が高橋に変わるという事件が起こったが、現状とは無関係ゆえに話を戻す。
「吸血鬼って どんなのだろ」
ふんふん鼻息を鳴らして昂ぶった気持ちを持ち直した恵三が、手櫛で己の髪を撫で付けながら呟いた。
遠目に見つけた赤い瞳、輝く両目。それ以外は全く知らない。
恵三は事あるごとにゼロテから この世界の話を聞くが、その内容と言えば勇者関係の事情のみに留まっている。自分が何人目か、前の人達は何をしたのか、その程度。
ゼロテ一人が知っている限りでも、勇者に関する情報は膨大だ。
御伽噺に語られる初代の召喚に始まり、戦死した勇者の行き着く先である墳墓の成り立ち、召喚執行師の職務と来歴、正直に言えば内情が多彩過ぎていて恵三は半分も憶えていない。
実は恵三の聞きたかった話は もっと身近な事なのだが、一生懸命に話をしてくれる小さなゼロテを目にすると話の腰を折るのも気が引けた。
当然ながら勇者が戦うべき敵である魔物関係の説明も聞いたが、それとて戦場で直接 目にした種族に限る。
知らない物ばかりの異世界なのだ、目に付いたものに関して疑問を呈し、ゼロテが答える。それが何時もの流れであり、見知らぬ魔物の情報なぞ訊ねる理由が無いため訊いた事が一度も無かった。
つまり、吸血鬼と戦った経験の無い恵三は、ソレに関して何も知らない。
ゼロテに訊けば答えてくれると知ってはいるが、彼女を連れて行くつもりの無い恵三は、出発の際にでも軽く聞いておこうかと気軽に考え頷いた。
吸血鬼。
目が赤く、顔色が悪く、牙は生えていて、大きく開いた口からは血が滴っており、あとは蝙蝠のような翼が有る。――それが恵三の思い描く吸血鬼だ。
この世界に存在する吸血鬼も、彼女の想像と大きく掛け離れたものではない。
赤く輝く両目を持ち、肌は青白い蛍石、吸血のための牙が生え、翼は無いが変身する事で空を飛ぶ者も少なくない。あとは強靭な生命力が有る程度。
細かな違いは存在するが、この世界の吸血鬼も、恵三の想像する姿そのままだ。
出立に際して、不安な気持ちを隠しきれないゼロテが言った。
「不意を突かれなければ勇者の剣で滅ぼせます。くれぐれも、お気を付け下さい……っ」
恵三の実妹よりも ずっと素直な、可愛らしい灰色の王女様。
心配されている事が傍目からも はっきり分かり、これから危ない事を しに行くというのに恵三の心は温かな気持ちで一杯だった。
うちの妹も これくらい可愛ければ……。と余計な願望を交えつつ、不安気なゼロテの頭を撫でて討伐軍本隊を後にする。
彼女の周囲には勇者を守るために付けられた護衛の騎士達が十人ほど。
多過ぎると文句を言ったが、必要だからと押し切られた。プロの軍人相手に押し問答をして勝てる自信を持たない恵三は、大人しく守られるべきかと馬に跨り肩を落とす。ちなみに相乗りである。何故なら、彼女は一人では馬に乗れないからだ。
同性の騎士の後ろに乗せて貰い、一路 吸血鬼の居る場所へ。
――などと意気込んでみた所で、追跡対象の現在地が分からなければ何処に向かえば良いのかも分からない。
索敵魔法の使い手が斥候役として馬の背に乗って走り回り、後から出発した恵三達は先行する彼等と連絡を取りながら吸血鬼を捜索する。相変わらずの泥縄式だった。
それでも、討伐軍全体で動くよりは遥かに早い。
斥候と勇者一行が追跡し、その後を討伐軍の主力部隊が堅実に足場を固めながら進軍する。様々な思惑の入り混じる首脳陣の意見を すり合わせた結果、このような形と相成った。
急ぎ後を追う勇者が吸血鬼を討てば それで良し。そうでなくとも、討伐軍の主力が追い付けば群れが相手でも負ける事など有りはしない。少なくとも首脳陣は そう考えた。
即座に追えば追い付ける。見失う事など無いだろう。
恵三が目撃した吸血鬼が巣を持たない野良だと考える者は誰も居らず、ゆえに逃げたとしても完全に取り逃がす恐れは低いと見ていた。
奴らは日に当たるだけで死んでしまうのだ、塒の確保は最重要。単独行動を取っていたと思われる件の相手が、討伐軍が全速で侵攻しても辿り着けない程の遠方に行くとは誰一人として考えて いなかった。
日が落ちる前には陣中へと帰還する。そういう取り決めで吸血鬼の捜索を開始した一行だが、そうそう簡単に見つかるわけも無い。高速で走り回る馬の背で揺られながら、恵三は吐き気を堪えて強く目蓋を閉じていた。
「きもちわるぅい……っ」
呟く言葉は誰にも届かず掻き消える。
騎士達の騎乗している この動物、見た目は馬だが尋常な速度では無かった。
岩や荒地も構わず駆け抜け、小器用に歩調を切り替えながら前へと走る。
明らかに馬ではない。今までの行軍中はゼロテと相乗り、周りに合わせて のんびり進み、全力で走り回る姿を目にしたのも恵三とは遠い戦場の最前線。こんなに速く走る生き物だとは思わなかった。
「待ってっ、騎士さん待って。吐きそう。アタシ乙女的に やってはいけない事になりそう だからあ……ッ!!」
吸血鬼とは全く関係の無い己が尊厳の危機に直面する第五号勇者。
前に座った騎士の肩を叩いてエチケット袋を要求する彼女を救ったのは、――赤く輝く魔物の両目だった。
『こちら先行部隊っ、突如 横合いからドラゴンが――』
「退けぇええええ――ッッッ!!!!!」
「ヴァっ、吸血鬼だぁッ!!!」
咄嗟に勇者の剣を鞘ごと振るう。
高橋恵三の生命力を吸い上げて、白銀色の神聖光が放出された。
鞘の隙間から弾けるように光が飛び出し、焼き尽くすように周囲を洗う。
しかし無意味。
中距離間を繋ぐ通信の魔法越しに斥候部隊の切迫した声音が届き、それと同時に両目を炎のように燃え滾らせた吸血鬼が恵三達の頭上を飛び越えた。
勇者の剣の輝きが吸血鬼の両脚を舐る。
――だというのに全く怯まず苦痛を覚えた様子も見せず、赤く尾を引く少年の視線が恵三に向かって ぐるりと動いた。
互いの視線が絡み合い、そこでようやく、恵三は目の前の吸血鬼が黒髪の、己と然して年の変わらぬ少年である事を認識した。
「あの時の――?」
恵三が思わず呟いた。
討伐軍 首脳陣へと恵三自身が知らせた相手、赤い瞳の何者か。吸血鬼。目の前の彼こそが、戦場で視線を交えた当人だと確信する。
理由は無い。ただの勘だ。しかし恐らく間違いではない。
そして黒髪の少年もまた、恵三と同じ事を考えていた。あの時の視線の主である、と。
黒髪の吸血鬼は その背に土色の甕を背負っていた。
取っ手部分の穴に布を通して紐にして、それを身体に括り付ける事で運んでいる。
何が入っているのかは分からないが、何の価値も無いというわけでも無いのだろう。しかし今は そんな事より、やるべき事が恵三にはあった。
「勇者かあ、お前え――」
「そっちは吸血鬼さん かな、っとぉぉ――!」
考えるよりも先に身体が動く。剣先を持ち上げる動作に伴い、恵三の身体が馬の上から転げ落ちた。
地面との衝突の痛みは事前に掛けられた防盾の魔法で軽減されて、それ以外にも彼女の纏った鎧が守る。
怪我も無く、痛みも耐えられた。ならば次は戦うだけだ。
恵三に剣術の心得など一切無い。勇者の剣を用いるためには、技術の有無など必要無いのだ。ただ振るい、ただ望めば、剣は勇者の意志に応えて光を生み出す。
だが、効かない。
傷一つ無い魔物の姿を捉えた恵三は、何かが おかしいと ようやく気付いた。
赤い両目の片側が、内部から塗り替えられるように白銀の輝きへと変化する。
太陽は落ち始めて気が付けば夕焼け色に切り替わり、僅かに赤みがかった日差しの最中で吸血鬼の顔が謎の紋様に彩られた。
その変化に何の意味があるのかは分からない。しかし勇者の剣が吐き出す光と同じ色、白銀に輝く文字列を目にして、恵三は背筋が冷えるような錯覚を覚えた。
「なんか不味いかもっ?!」
剣と右目の同じ色。勇者の剣の光に呑まれて尚 無傷の吸血鬼。
ゼロテは不意を突かれなければ滅ぼせると言ったが、目の前の光景は彼女の言葉を裏切っている。魔物に関する知識と戦闘経験が浅過ぎる恵三には明確な判断が出来ないが、ゼロテが嘘を付いたとも思えない。つまるところ、何らかの異常が起きているのだ。
敵の詳細は未だ不明のままだった。けれど恵三の思考が追い付かずとも、彼女の直感とゼロテへの信頼が状況の不利を全身全霊で伝えてくれる。
同行していた魔法兵が魔法による攻撃を開始して、馬に乗った騎士達が吸血鬼を取り囲むように手綱を操る。
「にげろー!」
「置いてくなー!」
「はくじょーもの!」
「また食べられた!」
「どらごーん!」
そこに突如 乱入して来た、多様に輝く妖精達。
「っち!」
「うっわ、空想的……」
妖精達の姿を目にした黒髪の吸血鬼は、即座に恵三から視線を切って逃げを打つ。
予想も出来なかった乱入者、色取り取りの妖精達に刹那 意識を囚われて、恵三はまんまと吸血鬼の逃亡を許してしまう。――が、どちらにしろ戦い続けるつもりも無かった。
アレには勝てない。恵三は至極冷静に結論を下した。
地鳴りが響く。
見上げるような巨体、何時か動物園で目にしたアジア象よりも、住宅街で目にする一軒家よりも背の高い、二足歩行の大柄な爬虫類が姿を現した。
「どっ、大地竜――っ!?」
周囲の騎士達が驚愕に染まった声を上げる。
魔王に近付いたとはいえ、この一帯では まず遭遇しないと予想されていた種族。
肉食の食性を持ち、敵対者を単純な暴力で黙らせ喰い尽くす、とても恐ろしい害獣だ。
翼を持たない超巨大なオオトカゲ。
恵三には現実的な規格に貶められた恐竜にしか見えないが、あれが名高いドラゴン様らしい。
魔法の存在する異世界なのに、造形に遊びが足りないと言うべきか、見た目が余りにも味気無い。僅かに気落ちしながらも、恵三は勇者の剣を振りかぶる。
「よいしょー!」
緊迫感など欠片も宿さぬ気合の一声。
一秒以下の極短時間のみ放出された眩いばかりの神聖光が、見事 恐竜の頭部を消し飛ばした。
脳味噌を失い頽れていくドラゴンの体躯。
周囲の騎士達が間近で目にした勇者の強さに響めいて、勝利を祝う空気が漂い始めたところに、――更なる追撃がやって来た。
一、二、三体。不機嫌そうな唸り声が耳に届く。
群れと呼ぶほどの数ではないが、今し方 倒したばかりの魔物の同類、恐らくは仲間だったのだろう個体が複数。
放置して逃げるにしても足の速さが不透明。背を向けた所で あっさり追撃を受ければ間抜けとしか言いようが無い。つまりは応戦こそが最も安全、確実な活路となるだろう。
「嵌められた、ってわけじゃないよね……?」
吸血鬼に誘い込まれた、と考えるには少々追い詰め方が足りていない。そう考えて、首を振る。
偶然にしろ何にしろ、戦う以外に道は無い。
斥候役として先行していた騎兵達の無事も分からないのだ。生きているのならば助けるし、死んでしまったのなら遺品の一つも持ち帰らねば、彼等の家族に申し訳ない。
勇者の剣を構えた恵三が、向かい来る魔物達を斬って捨てる。
巨体が倒れて音が鳴った。舞い上がった土埃に両目を細めて、後ろに下がりながら敵の接近を見逃さぬようにと意識を張り詰める。
「全員下がって――!!」
あの巨体だ、死体の転倒に巻き込まれれば人間は それだけで死んでしまう。
手早く片付けなければ ならない。
前後に対する警戒心。焦燥に駆られた恵三の視線が、吸血鬼の走り去った方角、討伐軍本隊の居るだろう場所へと一瞬だけだが向けられた。
白銀色の光で新たな竜を斬り捨てて、額から流れる冷や汗に気付きながらも、構う事無く剣を振るう。今は何より、手早く片付け本隊の位置まで戻らねばならない。
「嫌な予感が、あ、あああっ。気のせいかなあっ!?」
恵三が声のみで慌てふためき、戦いながらも口にする。
その同時刻。
魔王討伐軍と黒髪の吸血鬼が、再度 激突しようと していた。




