第三十八話 動乱前兆
第六号レビは平穏な日常を送っていた。
かつては とある街で神父をやっていたという近衛騎士、アグラファという名の老人に師事するために予備とはいえ召喚執行師の立場を失って、それでも彼女は今まで知らなかった自由の中で健やかに日々を過ごしていた。
神聖属性の魔法を教わり、書物や口伝によって知識を深める。
毎日毎日、休む事無く努力を重ねれば、ただそれだけで瞬く間に時が過ぎた。
苦痛では無いか。疲れていないか。そう訊ねてくるアグラファに対して、レビは小首を傾げて不敵に笑った。
「――足りないぐらいよ、先生」
当人としては「大丈夫です。心配してくれて有難うございます、先生!」と言っているつもりなのだが、彼女自身の努力や内面の素直さに反して、レビは生まれつき口が悪かった。悪いと言うか、どうしても高圧的な口調が飛び出す。王女と言う名の職業病だろうか。
どうにか直そうと頑張った過去があり、当人は改善出来たと思っているが、現実は古馴染みの実娘を気遣った近衛騎士に対して鼻で笑い、冷えた視線と声音で悠然と師を見下す気位の高い王家出身の糞餓鬼にしか見えなかった。
暗い金髪の陰から吊り目がちの大きな瞳がアグラファを真っ直ぐ見つめ返す。
輝く空のような色。とても美しい瞳だった。
それを目にした彼女の師匠は、馬鹿で鈍感で心根ばかりを真っ直ぐ伸ばそうと頑張っていたトマスという名の青年を思い起こす。アグラファが神父を やっていた頃に面倒を見ていた青年だ。生まれも育ちも見た目も全て全く完全に違っている筈なのに、その視線だけは どこかが似ていた。
口の悪い小娘だ、という意識がある。あるが、この目を見ると拳骨を喰らわせるのは また今度にしてやろうと思うのだ。
第六号執行師たるレビは、幼少の頃より勉強と訓練漬けの毎日を送ってきた。
そのための調整を施されて生まれてきたが故に、魔力と属性に関しては問題が無い。しかし知識と経験だけは、赤子のままでは到底足りない。当然の事だ。だからこそ、彼女達十二王女は ずっと過剰なまでの努力を強いられてきた。
日々の基準値を定められ、必要な値に届かなければ、出来るまで ずっと繰り返す。出来ないからと言って注意も叱責も存在しない。ただ日々の課題が残るだけ。延々と同じ事ばかりを繰り返し、一つを終えれば次が来る。それを物心付く以前より今に至るまで続けてきた。続けさせられて、きた。
執行師たる者、常に一定以上の力量を示し続けなければならない。全ては異界より勇者を召喚し魔王を討伐するため。そのためだけに、生まれてきたのだ。
己が身の上と その処遇に疑問を抱く余裕も持てず、命じられるまま、ただひたすらに研鑽のみを繰り返した。繰り返している内に、何時しか それが無駄な努力だと悟ってしまう。
自分は、執行師には なれない。
彼女は上から六番目、予備に過ぎない第六号だ。何よりも、姉妹の内で最も早く生まれ、最も優れた才を示した第一号が居たのだから。
しかし今は違う。今は自分しか居らず、比較されるような事が無い。成功すれば評価され、失敗すれば訂正される。学ぶ全ては決して意味の無い努力でない。打てば響くような努力と結果、今まで決して得られなかった、彼女の求めるものだった。
無為な研鑽を繰り返す事が当然だったレビは今、意味のある努力を許されている。苦痛に感じる理由など何処にも無い。まさしくアグラファの気遣いなど無用なものだ。
「何時 勇者様と同じ討伐軍に参加出来るのかしら。まだ勉強が足りないの――?」
レビが学んでいるのは神聖属性の魔法だ。
特に不死種族に対する効果が大きいけれど、魔物であれば総じて祝福は害と為り得る。だから神聖魔法を学ぶというのなら、きっと自分も魔物との戦いに臨む時が来る筈だ。
彼女は そう考えていた。余りにも無邪気に、常識的に判断した。
第四号勇者の召喚の後、より正確には第一王女イスカリオテの死亡を公式に発表した直後から、国中が魔王討伐のための戦時体制に移っている。
王城に住んでいてさえ、どこか以前とは空気が違うと感じていた。例え執行師として生まれた自身が只の道具に過ぎなくとも、或いは道具の立場であるからこそ、レビは自分が学んでいる知識と魔法が国や民のために直接 役立てられるのだと信じていた。
戦争が起こっている。敵である魔物に対して有用な魔法の才能があると言われて学び始めた。ならば魔物に対して実際に使う機会が訪れる筈。
レビの結論自体は間違っていない。当たり前に考えれば、そうなるだろう。
「殿下は、……討伐軍への従軍を お望みですか?」
アグラファが僅かに言葉を濁し、遠慮がちに問い掛ける。
立場を弁えた口調を守り、しかし気が進まないと暗に語るような物言いだ。
問われた生徒は、教師役の言葉に疑問を抱く。
レビは国の作り出した魔王討伐の道具の一つ、必要とあらば有する機能を果たすのは当然だ。聞こえの良い言葉を選ぶなら、曲がりなりにも王族なのだから国のために尽くしたとして、おかしな事では無いだろうに。
第六号には近衛騎士が何を言っているのか、その意図する所が分からなかった。
十代半ば に過ぎない少女が、国の名を背負うべき立場の王族が、戦場の最前線で血を流す事の必要性を納得出来ていないアグラファは、むしろレビの物言い こそが理解出来ない。
息子のように思っていた第一王子、ナザレは そうやって死んだのだ。
どうして彼の妹である彼女まで戦わなければ ならないのか。
それは至極 感情的な意見であり、アグラファ個人の つまらない感傷だ。戦いなど軍人が やれば良いと思う この老人の考えも そう間違ったものではないが、国の内情を鑑みればレビの発言も また正しい。これに限っては価値観の違いと言うしかなかろう。
「当たり前でしょう、先生。私は そのために学んでいるのよ」
頑張れば、評価されるのだ。
頑張れば、姉妹達も、きっとレビを見てくれる。
彼女の中からは姉妹達の愛情を求める気持ちが消えていない。多少 目に映る世界が広がっても、今まで育んできた想いは容易く消えるようなものではなかった。
アグラファに師事するようになってから、初めてレビは評価された。努力は報われるのだと知ってしまった。
だから頑張る。頑張れば愛されると思ったからだ。
戦場に出て活躍すれば良いのだ。姉や妹からの愛情を得るために、彼女は自分に出来る事をやろうと決意し、そのために努力し続けていた。
何のために、自分がアグラファの下に就けられたのかを知らぬまま。
姉妹達が、実績を上げた自分に愛情を向けてくれるだろう未来を信じて。
今のレビには目の前の事しか見えていない。
彼女とて未だ年若い少女、立場さえ無ければ責任ある大人でなく、子供として見られるべき年齢なのだ。目には見えぬものを察しろと言うのは、十二王女の養育された環境を鑑みれば酷な話。
叶うはずの無い夢を見る、第六号レビを映し出す瞳が一対あった。
決して温かなものでなく、心底 忌々しげに睨み付ける、彼女の姉妹の視線である。
茶褐色の長い髪を握り締め、歯軋りするほど上下の顎を強く食い縛った第五号。――第六号の姉に当たるディディモの両目が、報われる事を知った妹の姿を しかと捉えて離さない。
複数の派閥に渡りを付けて、こそこそと陰で這い回る事しか出来ないディディモ。その有り様に反するように、へらへらと上機嫌に笑っているレビ。
「……失敗作の癖に」
第六号執行師としての立場を失った、失意に暮れていてこそ当然の妹。
ディディモの予測とは裏腹に、現状は全くの逆だった。
――どうして、あんなにも幸せそうなのだ。
頑張って、頑張って、頑張って、頑張って。――今も必死に頑張り続けるディディモが こんなにも苦しんでいるのに、何故、国王陛下から見限られた筈の失敗作ばかりが笑っているのか。
おかしい。こんな事は、あっては ならない。
握り締めていた髪の毛が、小さく音を立てて引き千切られる。
感じる痛みに顔を歪めても良い筈なのに、レビを睨み続けるディディモは己の変化に気付きもしない。幾本かの髪を引き抜いて、また次を握り締めては引き千切る。
レビが憎い。レビが妬ましい。レビが、羨ましい。
自分や他の姉妹達と比べて努力も熱意も欠けているのに、どうしてレビばかりが他者に認められている。
不相応だ。
才能も、努力の多寡も、割り振られた番号も、全て残らず絶対に自分が勝っているのに。なのにレビばかり報われる。笑っている。それは余りにも不公平ではないか。
何が違う。何が悪い。どうして、こんな事になってしまうのだ。
「憎い。憎い。憎い憎い憎い……ッ」
その感情はディディモに限ったものではない。
生来の立場を奪われたレビの姿は一切 隠される事もなく、近衛騎士に師事する彼女を、王城に勤める誰もが目にする事が出来た。城の兵士から始まり、他の十二王女も一様に。
だからこそ知っている。
一切の枷に縛られる事無い今のレビが、誰に憚る事も無く、充実した日々を送っている事を。
他の十二王女とレビは違う。
今も来る筈の無い出番を求めて のた打ち回る予備の九人と彼女の間には、今や決して埋まる事無き大きな格差が存在する。立場を剥奪されたと思われていた第五号こそが、姉妹達の中で最も恵まれているようにさえ見えた。
確かな事実としてレビ個人が何らかの偉業を成したわけでは無くとも、十二王女には関係無い。
レビは無価値ではない。レビは充実している。レビは笑っている。
――他の無価値な姉妹とは違うのだ。
淀みに淀んだ激情が、嫉妬に狂うディディモの背中を押していた。
国王バプテスマの暗殺など、成功する筈が無いというのに。
結果として第十二号は行方不明。十二王女が残らず死に絶えない限りは出番の来ない、例え死んだとしても姉妹の誰一人として喜ばない、彼女の末妹が居なくなった。
――役立たずめ。
末妹の不在を悲しむ声など一つも無い。
姉妹の愛情を求める第六号か、或いは勇者との関わりによって精神的な余裕の生まれている第二号ならば一言以上の何かがあったかも しれないが、彼女達二人が消えたケファに関して知るような機会は未だ訪れていなかった。
嫉妬と渇求と劣等感。渦巻く姉妹達の感情は、もはや何を目指しているのかさえ不明瞭。
彼女達の誰もが知らない。
レビの現状が、十二王女の心を掻き乱す為だけに用意されたものだという事を。
どれだけの努力を積み重ねても、これ以上は何も、何一つとしてレビには期待されていないという事を。学んだ力を振るう機会など用意されていない事を。
間違いなく予備のままで終わるだろう末の妹達の存在は、王城内に居着く国王にとっての邪魔者共を排除するための餌に過ぎないという事を。
最初から、十二王女は国王の道具だ。
魔王討伐のために必要なのは先番の数名のみ。万が一の予備であるため召喚魔法の使用に不備が無いよう躾けられてはいるが、五号より下の姉妹には まず間違いなく出番が来ないと国王だけは理解していた。
彼女達の誰一人、最初から期待されてなど いないのだ。
歪な心で踊り狂って、精々 役に立てば良いとさえ考えている。
道具とは、使われるためにこそ生まれてくるのだ。
「おにい、さま?」
「うん。そう、なるね。――ケファ」
そして人間種族とは、定められた運命を打破するためにこそ生きているのだ。
ナザレとケファ。黄金のような頭髪を戴く、酷く似通った彼等二人。
血の繋がった兄と妹が、国王以外の誰一人として立ち入れ無い筈の後宮の奥深く、秘匿された暗い霊廟の中で静かに語り合っていた。
溶け出しそうなほど真っ赤に輝く、ナザレの瞳が妹を捉える。
透き通った真紅の瞳、ケファの幼い眼差しが、人ならざる兄を見つめている。
此処から全てが狂い始めた。
この地に生きる あらゆる全てを望むままに操ろうと目論む国王バプテスマの知らぬ場所で、己が心のままに生きる者達が、僅かずつ その掌上から逃れ始める。
行き着く先が幸福だとは限らないが、それでも皆が一様に もがき苦しみ、己の未来を求めていた。




