第三十七話 無人墓前
回転する柱の一つを眺めながら、国王バプテスマが二度、三度と頷いた。
「……恐ろしい事だ」
声音には、確かな感嘆の情が篭められていた。
読み進める円柱にあるのは第三号勇者、佐藤正一の記述。
祝福属性を無効化する吸血鬼の誕生だ。
もはやアレを真っ当な魔物とは呼べないだろう。人間型や動物型など、吸血鬼という種族には類型によって幾つかの分類が存在するが、祝福で傷付かぬものなど当然 今まで存在しない。この世界の法則に当て嵌めれば、存在する筈が無かったものだ。
それでも敢えて名付けるのなら――。
「――勇者型吸血鬼、か」
試練の洞窟。
勇者が天上の神々との交信を行い、その祝福を受け取る場所。
第二号までの勇者達は試練そのものを受けられず、第三号たる正一は魔物と化したがゆえに失敗した。失敗をした、筈だった。
「やはり異界の生まれか。黄泉においては、魔王と同質」
正一が手にしたのは勇者の剣と同じもの、神々が勇者のみに与える祝福だ。
神の権能を宿した剣だけでは魔王に届かず、夫婦剣たる王女の剣を授けても尚足りず。ゆえに 古き時代、再度 人が神に祈った末に得た、勇者の特権、その一つ。
第四号勇者 鈴木雄二が単体にして、総数一万を超える討伐軍全体の凡そ八割を担う異常極まりない戦果を叩き出せた理由の一つ。第三号勇者 佐藤正一が、吸血鬼の身でありながら黒騎士の長剣に宿る墓標の魔法効果を受けずに済んだ、その理由。
端的に言えば、神様の お陰、という奴だ。
祝福の魔法を無効化する、更に強力な、神の祝福。
肉体に刻み込まれた碑文の記述を媒介として勇者の想いを聞き届け、願い そのままの奇跡を齎す。この世界を創造したとされる神々が、直に与えた恩恵である。
異世界から魔王を討伐し得る勇者を喚び出す召喚魔法。
魔物であれば一方的に滅ぼす事の出来る勇者の剣。
それら二つと同列に並ぶ、勇者それぞれに発現する固有の能力。
魔法属性としての祝福などとは桁が違う、地上において神の力は絶対的だ。
魔物の身でありながら祝福の恩恵を受けるという本来ならば有り得ない、この世の摂理を覆すような大事さえ、神々の計らいならば このように容易く叶うのだ。
国王の枯れた指先が白い柱の表面を なぞる。
淡く輝く文字列が、正一の身に起きた事実を書き連ねていく。
そこにあるのは事実のみ。彼自身が何を考え、何を望み、得られたソレが何のための力なのかさえ直接的には記されない。神々が彼に伝えた言葉の中身も柱の記述には存在しない。
此処は あくまで勇者達の行動を記録するための場所であり、碑文を読み上げる後世の者達に深い理解を促すものではなかった。だから必要以上の筆記はしない。勇者の記録は娯楽ではないのだ。
初代勇者の墳墓の一室、此処は弔いの場所だった。
「ナザレに流用出来れば……。いや、不可能か」
何度も、何度も、国王は正一の行動記録を読み返す。
そこに篭められた意味を汲み取るように、執拗なまでに目で追い掛ける事を繰り返した。
正一は魔物でありながら祝福の魔法を無効化した。もしもそれを吸血鬼と化したナザレに与える事が叶うなら、国王の望みを叶えるための、この上ない助力となる。
ただでさえ死に難い吸血鬼が、致命の弱点である祝福魔法を、弱点では無くせるというのなら――。
叶わぬ望みだ。
国王バプテスマは己の有する知識から その答えを導き出した。
神々から直に祝福を賜る事が出来るのは勇者のみ。
魔物でありながら祝福を受け入れられたのも、正一が勇者だから。
そう、勇者だからだ。
異界から堕ちてきた人間だから。魔王を滅ぼせる人間だから叶うのだ。
羨んだところで己の出自は変わらない。ゆえにナザレも変えられない。或いは神々の力ならば吸血鬼と化した愛息子を人間に戻す事さえ可能なのでは無いかと考えても、国王バプテスマには どうしようも無い。手を伸ばした所で無駄な事。
だから諦めよう。
切り捨てられる限りを切り捨てて、己が掌中に掴めるものだけで満足する。
ナザレが人でなくなって十数年、妻である王妃が死んで以来 十数年。国王は ずっとそうやって生きてきた。
欲張るような事はしない。最低限度で満足するべきだ。
民を捨てた。信を捨てた。王たる誇りも捨ててしまった。許される限りの あらゆる全てを切り捨てて、この枯れ木のような両手に掴める小さな国を永遠のものに変えるのだ。
永遠に生きる吸血鬼の王を頂点とした、決して倒れる事無き王朝を築く。
そのためには邪魔な者達が存在する。
第三号勇者の記録碑。そこに刻まれた文章を目で追えば、国王が目を掛けてやった人獅子の敗北と、生き残った吸血鬼達の記述が見える。
地上に生きる吸血鬼はナザレ一人で十分なのだ。
他は万が一の際に邪魔になる。永遠を生きる者は ただ一人、新たなる国王ナザレのみ。そうで なければならず、そうなるように、吸血鬼の殲滅を命じたと言うのに。
「役に立たぬ獣よな」
目的こそ果たせなかったが、共同体の弱体化は著しい。無駄ではなかった。生き残りへの対処は即座に行わなければ ならないが、今現在 動かせる私兵は どれほどの数 居ただろうか。指折り数えて思い返す。
「古馴染みは使えぬ。残りの人獅子か、或いは――」
ぶつぶつと一人呟きながら考える。
神の意思とは人のソレでは左右出来ず、勇者の動きは記録を読み上げるだけの国王では完全に把握する事が叶わない。十二王女の末妹が己の希望たる第一王子と出会った事実を知りもしない。
見知らぬ場所で、僅かずつ世界が変わっていく。
己の望みが徐々に崩れていく現実を未だ認識する事も無く、国王バプテスマは かつての夢想を叶えるために邁進する。
もはや彼には、それしか残っていないのだから。
中天に輝く太陽を見上げながら、佐藤正一は眩しさに目を細めて片手を翳す。
もう二度と見上げる事など無いと思っていたのだが、今の正一は こうして太陽を直接 仰ぐ事さえ可能であった。
だから何だ、と言うべきだろうか。
日中でも野外での活動が可能になったが、不健康な肌の色をして両目を爛々と光らせる吸血鬼が真っ昼間に外を出歩いたとして、何の利点があるのだろう。人間を始めとした他種族に見つかって殺される未来しか見えてこない。
日光を浴びても灰にならないのは喜ばしいが、そもそも正一は灰になった経験が無かった。今となっては、自分は元々 日光が平気な吸血鬼だったのではないか、とさえ思えてしまう。そんな事は無い筈なのだが。
「勇者、か」
黒騎士を相手に追い詰められながら、何か酷く腹の立つ声を聞いた気がする。
呪いだとか、穢れているとか。内容は殆ど憶えていないが、好き勝手に罵倒されては評価され、本当に酷い空耳だった。――そんな気がするのだ。
顔の右半分、今はもう全く熱を感じない、碑文の蚯蚓腫れを指で撫でる。
何か重大な変化が起こったというのに、魔物である正一の現状は、結局のところ何一つとして解決していない。
吸血鬼でありながら、祝福や日光が平気になった。しかし それだけ。これから先の一生を、他の誰かの血を啜りながら生き続けるしか無いという事実に変わりは無い。ずっとずっと、化け物のまま。佐藤正一は これから死ぬまで吸血鬼だ。
「イスカリオテ――」
呟いた正一の視線の先には、中身の無い盛土の山が ぽつんと一つ。
今回の襲撃で死んだ種族連合の襲撃者や、共同体の吸血鬼達のものでは なかった。土の下には何も埋められてはおらず、弔う相手の名前を刻んだ墓標と呼べるようなものも無い。
本来埋められるべき相手は黒い土と化して滅んだ街中に散らばっている。
そうでなくとも、元々の立場を考えれば国を挙げての盛大な葬儀が執り行われた筈なのだ。
だからソレそのものには意味が無い。全ては正一個人の、気持ちの問題だ。
中身の無い土の山は、王女イスカリオテの墓だった。
己の気持ちに区切りを付けるために、弔いの様式なども一切知らず、正一が一人で盛ったものだ。コレは ただそれだけの ものだった。
形だけの お墓モドキ。
必要以上の距離を開けた位置から、じっと正一が墓を見つめる。
正一にとってのイスカリオテは、好きだったかもしれない少女であり、憧憬の念を抱いたかもしれない御姫様であり、魔物となった際に縋り付きたかった相手であり、殺してしまった被害者であり、吸血鬼にしてしまった負い目のある同族であり、その内面を理解出来なかった存在であり、唐突に消えてしまった精神の重石だ。
彼と彼女の関係性は、言葉でもって簡単に言い表せるようなものでは無い。
ただ、イスカリオテという存在が、正一の中で今も大きな割合を占めているのは確かだった。
死の直前、確かに自分へと伸ばされていた彼女の手を、握り返す事も無く別れを終えた。見下ろした顔は、とても生き物の それとは思えなかった。
彼女に対して何を思えば良いのか分からない。
ただ、沢山 酷い事をしたという事は分かっている。
「ごめん」
万感の想いを篭めて。しかし何一つとして今在る現実を変えられない、薄っぺらい言葉を口にした。
過去は変わらない。変えられない。
正一の手の中に残ったのは、どうしようも無い結果だけ。ファンタジーな世界だからといって、死者に言葉が届くとは思わなかった。だから本当に、個人の気持ち以上の意味が無い。他に対する影響力など有しておらず、口にした言葉は風の中へと溶けていった。
謝罪の言葉を口にしたって、何も変わらないと分かっている。
ただのケジメだ。
言わなければ いけない事だ。例え自己満足だと分かっていても。
立ち上がって伸びをする。
吸血鬼の身体だというのに、全身からゴキゴキと音が鳴った。
一息吐いて、墓を見下ろす。何処から見ても子供の砂遊びと同程度の、酷く簡素で情緒の欠片も見えない土の山。多分このまま目印も無く放置しておけば、そうとは知らない誰かが踏み潰して消えるだろう。
「遺品の一つでも持っておけば良かったな」
と、言ってはみたが すぐに思い直す。
土へと還ったイスカリオテの所持品と言えば、崩れず残ったドレス等の衣類のみ。女性用のドレスを抱えて一人旅をする自分の姿なぞ想像したくない。凄く変態染みている。そういえば下着も残っていたな、と思い至った時点で頭を振って要らぬ思考を追い出した。
結局、このまま踏まれて均されて、消えてしまうのが良いのだろう。
元より個人の感傷だ。形を残しても何も無い。
「お昼ー」
「ごはんー」
「ごはんー」
「おひる寝ー」
馬鹿みたいに賑やかな声に振り向けば、黒騎士との対決において何の役にも立たなかった妖精達が飛んでいた。
太陽の下でも変わらない、色取り取りに輝く羽根の色。頭は空っぽなのに見た目だけは幻想的な、見た目以外の取り得など一つも無さそうな魔物達。
妖精に誘われて歩き出す。どうせ、このまま座り込んだところで得られるものなど何も無いのだ。良い切っ掛けが出来たと考えて、正一は この場を離れる事にした。
去り際に一度だけ振り向くと、多少距離を開けただけで目立たなくなった盛土の山が視界に映る。
正一の背を見送ってくれる姿など何処にも見えず、死者を悼んだ所で意味が無いのだと再確認。そのまま視線を前方に戻して歩き出す。
「さよなら――」
正一が小さく言い捨てて。
主の居ない墓だけが、その場に ひっそりと残された。




