第三十四話 衝突直前
金色と灰色の二人組、少女達が揃って両手を合わせていた。
近くの草原から摘んで来た野花を、土で盛られた簡易的な墓前に添える。
戦場で死んだ兵士達は遺体を国へ持ち帰る手間さえ省かれて、行軍の途上で浄化処置を施した上で|路傍《》ろぼうに埋葬されると、戦死者名簿に名前を書かれるだけで弔い全てが終了する。
遺族への弔慰金などは一切無い。生きている間は軍属として適正な給与が支払われるが、戦死した際の補償等は何も定められていなかった。
死体を野晒しにされない だけでも手厚い待遇だと言える。
魔王討伐軍の存在意義は名前の通り、魔王を滅ぼす事なのだ。軍内の負担は可能な限り省くべきであり、生き残った者達とて無事 国に帰れる保証は無い。
明日は我が身、皆が理解した上で納得している。
無論、例外として保身を優先している貴族連中なども討伐軍には居るのだが、それに関しては省略する。
「……ゼロっち、本当に これで良いのかな?」
死体を埋めて盛り上がった土の山に大きく拍手しているのは第五号勇者、高橋恵三だ。
彼女の行動は墓参りの作法として微妙に間違っていたのだが、この場に それを指摘してくれるような知識人は存在しない。傍らで恵三の真似をする王女ゼロテにしても、これが勇者の故郷における正しい遣り方なのだと勘違いしていた。
ぱちぱちと拍手の音が鳴り、一頻り叩いて手を止める。
「はい。きっと彼等も心安らかに眠れる事でしょう」
恵三には全く理解が足りていなかったが、魔王討伐軍とはつまり、魔物との戦争行為を主任務とする戦闘集団なのである。
戦えば当然、犠牲者が出た。
軽重問わず せめて負傷のみで済めば良いが、討伐軍が魔王に近付くにつれて敵の数は ますます増えて、死者の数も また比例する。彼女達の眼前にある墓は、そうした犠牲者達の一部のものだ。
人が死んだ、らしい。
恵三には今一つ実感が無い。
テレビ越しに事故や事件の被害者名簿が読み上げられているような、とても遠い場所での出来事に思えた。
顔を知らない、名前も知らない、同じ軍に属して同じように魔王討伐を望んでいて、しかし事を成す前に死んだ人達。そんな彼等の生死に関わる話を耳にしたのに、どうしても恵三の心には響かない。
見も知らぬ誰かが死んだと聞いても、涙を流すほど悲しんでは あげられなかった。
「アタシって薄情な奴かなあ……」
この墓参りとて、悲しいから やっているという わけではない。
義務感、というのも少し違う。
人が死んだと聞いて、ならば こうしよう、と今までの人生で培った良識を元に、彼女にとって当たり前の社会規範に沿っただけだ。
高橋恵三は特別 頭が良いでは無いが悪人というわけでもなく、善良 且つ常識的な判断の出来る人間だ。だからこその墓参り。だからこそ、頭が良くないなりに今も こうして悩んでいる。
てっきり、ゲームのように上手く行くものと思っていた。
自分が勇者で、敵には魔王が居る。
ならば戦って倒せば良い。
ゼロテのような小さな女の子でさえ国や他人のために頑張っているのだ、年上である自分に出来る事があるのなら、骨を折ってやるのは当然だろう。そう考えて引き受けた。
考えなし、と言うしかない。
「アタシより前の勇者達の お墓も有るの?」
「……はい。勇者様方を弔うための墳墓に、お名前が刻まれているそうです」
一番最初の、御伽噺の勇者の墓標。
代々の勇者達が戦死した場合は、其処に遺体を納めるのが通例だ。
第一号と第二号は遺体を納めて それで終わり。
第三号は死して尚 活動中であり、第四号勇者は動く死骸として利用されたため念入りに浄化処理をした結果、骨の一片も残っていない。
第五号勇者 高橋恵三も、死ねば其処へ行くのだろう。当人の意思など関係無く、元の世界に彼女の死亡を知らせる事も出来ぬまま、何処とも知れない土の下に埋められて終わるのだ。
それは嫌だな、と恵三は思う。
誰一人として傷付く事無く、魔王の存在も何時の間にか消えていて、皆が笑ってくれて、目が覚めたら元の世界で。――などという都合の良い奇跡など無い。
全てが叶ってしまったら、余りにも都合が良過ぎて、頑張る意味が消えてしまう。
楽である事は良い事だ。しかし それだけでは駄目だと思うのだ。
それでも願う。
戦争をしているのに虫の良い話であるとは思うが、恵三は暗い話題が嫌いなのだ。
「皆、無事に帰れたら良いね――」
とても小さい、寝惚けたような声だった。
相も変わらず、国を救うという固い決意も、勇者としての誇りも持てず。今の恵三が抱いている感情は他人が傷付く事を厭うだけの、優しいと言うよりも甘い考え。形が とても曖昧で、子供が思い描くような拙い願望だ。
だけど本気で思っていた。誰も傷付かなければ良いと、頭の良くない少女が望んだ。
だからこそ。
この世の誰にも見えない場所、第五号勇者の内側で。
神々の声が笑って応えた。
――敬虔なる掃除婦よ。異界より訪れた勇ある者よ。我らは貴女の持つ稚き優しさを汲み取ろう。
それは神の祝福だ。
目には見えない無数の文字が、勇者の中で踊っている。派手な演出など何も無いが、もしも誰かの目に映るなら、淡く輝く碑文の記述を見た事だろう。
試練の洞窟の最奥に在る、石碑に刻まれた文字列を。
「うーん?」
「どうか なさいましたか、恵三様?」
「んーん、空耳ーっ」
灰色の王女と言葉を交わす第五号勇者の内側で、確かな変化が起こりつつあった。
今はまだ、それを知る者は誰も居ない。
佐藤正一は元勇者だ。
異世界から召喚された平凡な人間。勇者の試練を真っ当に乗り越える事も叶わず、この世界の者達に利益どころか明確な被害ばかりを与えてきた到底 勇者らしくない経歴を持つが、それとて全ては異世界に訪れてから築いたもの。本来の彼は周囲に埋没してしまう程度の、極有り触れた人生を歩む只の学生であり、一般人。
彼の心は弱く、歪だ。その歪さゆえに強靭な部分も持ち合わせたが、そんな事は当たり前、無欠の心を持つ人間なぞ存在しない。
強くもあり、弱くもある。そういった意味で、彼は至極普通の人間だった。
「イスカリオテ……」
独りぼっちで泣きながら、吸血鬼の王女マリアが偽名を呼んだ。
とても支配者たる振る舞いではない。自らこそが至上と信ずる吸血鬼の、見知ったものとは全く異なる哀れな姿。それを目にした正一の中には人間らしい同情の心が湧き出した。
もはやマリアの中に論理的な思考能力など残っていない。
信じていたもの全てが崩れ去り、置いて来た者達に手を伸ばしても届かないと知っている。彼女が泣いている理由は悲しいから という単純なものではない。憤怒も諦観も悲嘆も絶望も、ありとあらゆる激情が煮詰まって、抱えきれなくなったが故に零れたものだ。
マリアはもはや耐えられない。泣いて縋る以外に、出来る事など何も無い。
縋ったところで それが叶うか どうかさえ今のマリアには判断出来ないが、それでも彼女は願うのだ。
自分には何も出来ないと知ってしまったから。
相手が誰かなど関係無く、何が出来るかを知りもしないのに。
ただただ有りもしない夢を見て、空虚な希望に頭を下げて、必死になって縋り付く。
「イスカリオテっ」
――異世界よりの勇者様。
「たすけて」
――どうか魔王を倒して下さい。
「お願い、皆をっ」
――シェオル王国第一王女イスカリオテが、他ならぬ貴方にこそ お願い致します。
「たすけて、ください――!」
――私達を、お助け下さい、勇者様!
出来るわけが無い。叶うわけが無い。
こうして乞い願う彼女とて、きっと何処かで諦めている。それでも何かをせずには いられないから、偶然 今 目の前に現われた正一に頼み込む事で少しでも楽になろうとしている。
逃げられない絶望から、目を背けようと足掻いている。
実を結ぶか どうかなど、考える余裕さえ残っていない。
助けて欲しいのは本当だったが、助けられるとも考えられない。既に彼女の中の希望は絶えていた。本当の意味では、何も信じてなど いないのだ。
だが、そんな空っぽな願い事でも、正一の心には確かに届いた。
「――期待は するなよ。俺は、そんな大したもの じゃないんだから」
仮に引き受けたとしても、そこには他者に誇れるような意義は無い。
吸血鬼は所詮 人喰いの魔物で、地下城に攻め入った側にこそ正義がある。
父や同胞を想って涙ながらに訴え掛ける王女マリアもまた、無邪気に嗤いながら多数の犠牲者を生み出してきた。化け物の分際で、今更どの面下げて他者の慈悲に縋るというのか。
吸血鬼側こそが滅ぼされるべきであり、彼等を助ける事は間違っている。
――それが どうした。
今度は あの時とは違う。高貴な美少女に絆された というわけではない。
きっと上手く行かないだろうし、奇跡が起こって成功しても、吸血鬼を助けるなんて凄く悪い事に違いない。
地上への道が安全であれば、此処で出くわしたり しなければ、正一も頷いたりは しなかっただろう。マリアの髪が真っ白で、何処かの御姫様に似ていなければ見捨てる事だって簡単に出来ていた筈だ。
なんと都合の悪い事だろう。成功しないと考えながら、仮に成功しても間違いなく後悔するのに、それでも拒否する事が出来なかった。
理由も分からず死んでしまったイスカリオテの存在は、今も正一の心に深い痕跡を残している。
明確な理由など無くとも、僅かな面影を有する少女が涙ながらに頼んだだけで、たったそれだけの事で、死地へと足を踏み出してしまうくらいに大きな痕を。
きっと他にも色々な原因があるのだが、結果として、佐藤正一は黒騎士に挑む事を決意した。してしまった。
当然ながら、勝てる根拠など何処にも無い。
息を乱しながら、獅子の顔を晒した騎士が剣を振るう。対する吸血鬼の王もまた、身体の一部のみを蟲に変えて敵の攻撃を躱しながら、隙を見ては大振りな爪の一撃で鎧を砕く。
互いに疲労が積み重なり、万全と言うには程遠い。
両軍共に、犠牲者の数が疾うに半数を超えている。種族連合は ほぼ全滅、黒騎士の部下も負傷から脱落者が出ていた。が、それでも戦場にける優位性を確保しているのは最も統制が取れ、最も生き残りの多い黒騎士と麾下の騎士達だ。
「貴様らは、此処で仕留める……!」
吸血鬼の王が気炎を上げるが、疲労と負傷は隠せない。
黒騎士も鎧を幾らか壊されて、血を流す姿には確かな戦力の低下が目に見える。
しかし神聖魔法による絶対的な優位が、今一歩の所で吸血鬼達を寄せ付けない。
このまま戦い続ければ、遠からず黒騎士達が勝利する。
しかし戦闘の消耗は間違いなく大きい、王が逃がしたマリアを追い駆けるには体力を取り戻すための時間が必要だ。だから、退かない。与えた傷の分だけ王女の安全が堅固なものと なるのなら、死兵と化して最期まで戦う。
その決意を、黒騎士の刃が迎え撃つ。
長剣による一閃を受けて、黒ずんだ土砂が散らばった。
もはや立ち上がるための肉体を満足に作る事も出来ず。幾らかの蟲の群れとしてのみ王の意識が宙空を舞い上がり、頼りない姿で黒騎士の眼前に立ちはだかる。
「……見事だ」
部下への指示以外で、初めて黒騎士が口を開いた。
相手は死に体。
小さな蟲達を相手にすれば長剣による攻撃は当たり辛い、しかし部下の使う魔法ならば別だ。浄火の魔法を撃てば、残らず燃やされて死ぬだろう。
手向けとして、言葉を贈った。それを吸血鬼が喜ぶとは考えないが、黒騎士の胸中には敗者に対する確かな敬意があった。
だが、事は そう綺麗には終わらない。
「こ、ん、に、ち、わあ」
無数の蝙蝠が騒音としか言い様の無い大きな羽音を立てて、戦場に立つ大多数の視線を釘付けた。
種族連合の持ち込んだ灯りの届かない、地下城の暗がり。闇の向こう側から、真っ赤に輝く吸血鬼の瞳が近付いて来る。
黒騎士の持つ、人獅子たる金色の瞳が闇の中を見通して、其処に誰が居るのかを認識した。
異界の魂、第三号勇者。
吸血鬼と化した黒髪の少年。一度は王命によって襲撃を仕掛けたが、予定通りに見逃した、今回の殲滅対象の一人。
もっとも、国王バプテスマは深追いするなと命じていたが――。
「遊ぼうぜえ、クソ野郎お――」
赤と金、二色の視線が容易く絡み、一方的な戦いが始まる。




