第三十三話 両軍絶叫
吸血鬼は、間違いなく魔物の中でも上位に位置する種族である。
優れた身体能力、人間種族と比較しても遜色無い思考能力、不死種族特有の死に辛い生態、他の生物の血液を自身の力へ変換する特性、種々様々な変身能力、そして他者を同族に堕とす特異な繁殖能力。
ざっと並べるだけでも多種多様、彼等は多芸な魔物である。全般的に優れた能力を備えた、紛れも無い優等種族。
――しかし。
優れた身体能力は、同じく魔物の一種である人獅子、黒騎士の洗練された身体制御をもって相殺された。
頭脳に関しては、子や孫達を殺され、真っ向勝負に持ち込まれた時点で何の意味も持ち得ない。今の彼等は激情のままに ぶつかるだけだ。
十字架型の小さな輝き、神聖属性、墓標の魔法が吸血鬼の肉体を それ以外の何かへと変質させ、刻まれる傷の一つ一つが再生不可能な黒土へと変わっていく。
全身を鎧兜で包み込んだ騎士達を相手に血を吸う暇など有りはしない。先程の先制攻撃で内側に潜り込んだ蟲達は、部下の使う浄化の魔法で残らず殺され切っていた。魔物である黒騎士にも若干の苦痛を与えた上で、だが。
変身能力は正面からの戦闘でも役立っている。
吸血による繁殖は血を吸う暇が無いので意味が無い、――と言うわけでも無かった。
「っぐ、助け゛っ」
「我が眷属と化す栄誉に咽び泣けぃ、劣等ゥ――」
戦場に立つのは吸血鬼と黒騎士達だけではない。
騎士達の背後に控え、弓矢による援護を行っていた種族連合、小型の生物に変身した吸血鬼が騎士達を迂回して彼等を襲い、血を啜って味方を増やす。
無論、生まれるのは吸血鬼では無い動く死骸だ。
だがそれで十分。
正面から立ち向かう複数の吸血鬼と、背後から襲い掛かる元は味方だった動く死骸。挟み撃ちの形で攻めれば、如何に不死者殺しの手練れとはいえ優位を保ち続けるのは困難となる。
決して逃がすつもりは無い。絶対に、若き同胞達の仇を討つのだ。
主義も見栄も、今は捨て置く。欲するのは勝利のみ。
憎悪に輝く吸血鬼の瞳が、戦場となった城内の通路を一時 赤色に染め上げる。
「魔物を従えてまで我等を滅ぼしたいか、黄泉の民よ――っ!!」
憤怒に滾る赤目と、兜越しの金目が交わった。
王を始めとする古参の吸血鬼達を相手取り、黒騎士は全身を包む鎧甲冑に大小様々な傷を残しつつも、部下の援護も合わさり辛うじて拮抗していた。
一部が欠けた兜の内側から、人ならざる獣の両目が僅かに覗いて その出自を語る。
神聖魔法の恩恵があるとはいえ、驚異的な戦闘能力。
黒騎士の持つ長剣を操る技術は人間種族 特有のもの、生まれ持った能力に頼った、力任せな魔物の戦術とは全く異なる。
人の手によって飼い慣らされたか、或いは囚われ、鍛える事を強いられたのか。
前に立って直接 戦う黒騎士と、後方から神聖魔法で援護を行う部下の魔法使い、そこに加えて魔法専門の者達を守るために盾を構えた槍騎士が複数、魔法を併用しなければ決定打には程遠い、申し訳程度の弓兵が三人。
戦闘の軸に人間種族の敵である魔物一体を据えた、様々な意図を邪推出来る編成だ。
だが少なくとも不死者殺しとしては有効だった。有効過ぎるからこそ、ろくな手傷も負わずに若手の吸血鬼達を殺し尽くす事が出来たのだろう。
王の怒声に黒騎士は何も答えない。部下の騎士達も同様だ。
小刻みに振るわれる長剣が淡い残光を幾重にも描き、吸血鬼側は鎮魂の刃を受けるわけには いかないからこそ攻撃の回避を怠れない。互いが決定打には程遠く、時間ばかりが過ぎていく。
前方では黒騎士が吸血鬼を相手に剣を振るい、後方では種族連合が犠牲を出しながらも戦っている。間に挟まれた部下の騎士達は黒騎士への援護に徹し、後方における戦闘の結果次第では彼等も直接戦う事になるだろう。
城内の戦闘は乱戦状態に移行しつつあった。
しかし国王バプテスマの派遣した戦力が、ただ真っ向から戦うだけのわけが無い。
「――第二部隊、これより城内に侵攻する」
黒尽くめの新たな一団が、種族連合の協力によって確保された地下への入り口に足を踏み入れる。
その一歩目と ほぼ同時に、無数の小鼠の群れが彼等の足元を駆け抜けた。
「「「「これより先には、行かせぬぞ……っ!!!」」」」
吸血鬼を滅ぼそうとするのなら、常道に沿って考えて、攻め入る時間帯は彼等の弱点である日の差す頃合いを選ぶべきだろう。地下に篭もっていれば遮光も十分とはいえ、万が一を考えれば、二重の備えを怠る理由は無い。守るべき子供等が共に暮らしているとなれば尚更だ。
吸血鬼達の住まう地下城は、地上部分にも大きな城砦を築いて地下への扉を守っている。
貴族主義的な見栄もあったが、実用的な意味では日光を遮る目的があった。
しかし当然ながら、連合側には敵の護りとなる地上部分の城砦を無事な形で放置する理由も無い。最低限の処置でしかないが、地下への入り口周辺を真昼の太陽が僅かに照らせる程度には、壁も天井も破壊済み。
動物の群れに変身したとはいえ、地上に姿を現した無数の小鼠も元は ただ一体の吸血鬼だ。彼が地上に出れば どうなるかなど、分かりきった事だった。
鼠達が日の光を浴びて溶けていく。
溶けながら、それでも群れの疾走は止まらない。
「「「「決してっ、行かせは、せぬぅぅぅぅう!!!!!!」」」」
鼠達の口から決死の絶叫が迸った。
入り口に踏み込んだ騎士達の足元から、鎧の表面に足を掛けて這い上がる。
隙間から全身鎧の内側に潜り込み、牙を突き立て眷属化の呪いを施す。潜り込む隙間が見つからずとも、全身に纏わり付けば動きの阻害に役立てる。
次から次へと灰と化していく鼠達。運良く騎士達の影に居た事で日光を浴びずに済んだ個体も居るが、一度 牙を突き立てれば また新たな相手に飛び掛かり、移動の最中に日に当たって結局は肉体が崩壊していく。
敵を一人でも多く葬るため、殺された子供達の道連れを増やすためだけに、迫り来るの死を ものともせずに鼠が走る。
「退けっ! 時間は味方だ、放置すれば勝手に死ぬぞ!!」
「待ってくれ、兄さんがあっ!!!」
「もう無理だっ、死人は見捨てろ!!」
狙う相手は騎士だけではない。むしろ与し易い相手として種族連合の人員が襲われ、動く死骸が増えるに連れて、いとも容易く足並みが乱れた。
吸血鬼との戦いにおいて役立っていないように見える彼等だが、別に弱過ぎるという事も無い。ただ単純に、生者を相手にした際の不死種族が強過ぎるのだ。
生半な攻撃は通じず、血を吸われれば敵が増える。所属員の大半が魔物なために神聖属性を使えない連合側、彼等が唯一 付け込める弱点の日光にしても、相手が捨て身であれば殆ど何の意味も無い。
傲慢な吸血鬼が劣等種族を相手に捨て身になるなど、誰一人として想像だに していなかった。
子供等を殺され追い詰められたからこその現状。これは黒騎士達の責任と言える。
もっとも、王国側の本音としては種族連合の犠牲が どれだけ増えたとしても、吸血鬼に対する攻め手を緩める理由にはならない。
最初から、対等な協力関係など望んでいないのだ。
吸血鬼の居城に侵入するための手段として利用価値があるからこそ、わざわざ魔物としての素顔まで晒して連合に参加した。最初から吸血鬼退治に関しては彼等の戦力を期待していない。だからこその自分達だけで勝利し得る部隊編成、だからこそ後詰めとして待機していた第二部隊の存在。
だが吸血鬼とて もはや手段を選ばない。
騎士達の用いた浄火の白い炎が地下を目前とした狭苦しい戦場を炙り焼き、急速に その数を減らしながらも小鼠の大群が止まらない。
悲鳴と怒号が入り混じり、戦闘の結果は ともかくとして、第二部隊の侵入に関しては一時 差し止められていた。
その戦いを、正一が地下の暗がりから眺めている。
共同体に属する吸血鬼は数が少なく、侵入者達も一塊になって行動している。戦闘の音から距離を取りつつ城内を歩けば、誰にも見つからずに此処まで辿り着く事も十分可能だ。
此処までは順調だった。しかし此処から先に進むのならば、見つからずには居られない。地下と地上を繋ぐ出入り口に見張りが居るくらいの事は正一も予想していたが、数が多過ぎる上に此処でも争っているというのは想定外。正一の足は此処で完全に止まってしまった。
何よりも、今は日の差す時間帯だ。
地下城内の暗闇で丸一日以上を過ごしていた為に、時間間隔が狂っていた。仮に出入り口周辺に誰一人居なかったとしても、吸血鬼である正一が このまま外に出れば全身が灰と化して死んでしまう。
これ以上は進めない。ならば城内へ戻るしかない。
此処に留まり続ければ戦いに巻き込まれる。無関係だと言い張ったところで、誰も信じは しないだろう。
だが、戻って どうしろと言うのだ。
マリア達を見捨てて逃げた正一が、日の落ちる時間帯まで城内で無事に身を潜め続けられるとは思えない。
どちらが勝とうと、敵の残存戦力を確認するために地下の探索は行なわれる、筈。滞在期間の短い正一が地下城内部の構造を知悉しているわけが ないのに、どうやって隠れる事が出来るのか。
黒騎士が相手なら、問答無用で殺されるだろう。吸血鬼が相手なら、若者達の中から一人無傷で生き残った正一を怪しまずに見逃してくれる可能性は如何ほどか。何の咎め立ても無いと楽観視するのは難しい。
「……また、か」
顔の右側にある蚯蚓腫れを、指の腹で ゆっくり なぞる。
暗い穴の奥に閉じ込められ、出口周辺には多数の邪魔者。試練の洞窟で悪態を吐いていた頃を思い出させる状況だ。
今は悪態を吐くだけの元気も無い。
過去を思い起こしても活路は見えず、城内に引き返した所で何が変わると言うのだろう。進むも退くも同じ事、相も変らぬ真っ暗闇だ。
自分は、あの頃から何一つ変わっていないのかもしれない。
「いかない?」
「もどる?」
「しぬ?」
「いっしょ?」
好き勝手に飛んでいった者達以外の、何故か正一に纏わり付く幾匹かの妖精。まるで自問自答のように、正一の思考そのままの言葉が小さな口から繰り返される。
進んだところで日に焼かれて死ぬだけだ。
戻ったとしても何が出来るとも思えない。
死ぬのは、嫌だと思う。
「一緒に、来るか?」
言葉が通じているのかさえ分からない、小さな魔物。同じ言語の筈なのだが、会話が成立する機会の方が少ない気がする。
弱音を吐けば、妖精達が けらけら笑う。
誰にも見つからないように、城の中を ゆっくりと引き返す。
色取り取りの羽根が正一の後を追い掛けて、薄っすらと闇を塗り潰していった。
砕けた兜から姿を現す、黒い人獅子の頭部が大きく吼えた。
「――ッッ!!!!!」
積み重なった負傷を度外視して、血を流す黒騎士が長剣を両手で振り下ろした。
墓標の魔法効果がある以上、ただの一撃でさえ吸血鬼にとっては後を引く大きな負担となる。戦闘中に患部切除の処置など出来ない。黒騎士から与えられる傷の一つ一つが、両軍の拮抗状態を崩す材料足り得るのだ。
堅実に敵側の傷を増やし続けた戦いの中盤、突如 今までの戦い方を、捨て身の戦法に切り替える。
互いの速度に大差は無い。そして黒騎士の攻撃の厄介さは、吸血鬼の爪や牙とは比べ物にならないほど危険なものだ。事ここに至って戦況の優位を確信した黒騎士は、一息に相手を押し潰す事を選択した。
「敵陣を突き崩す。――続け」
黒騎士の指示に部下達が応え、今の今まで魔法使いの守りに徹していた槍騎士達が、盾を構えながら戦列に加わる。
動きを最小限に抑え、体力を温存し続けた騎士達の参戦。
魔物である吸血鬼と人獅子の持久力を鑑みると、両者共に戦闘の続行は可能だろう。しかし複数人からの攻勢を凌ぎながら僅かずつ再生不可能な傷を増やす事に腐心していた黒騎士と、怒りに身を任せて攻め立て続けた吸血鬼ならば、前者の方が余裕がある。味方が増えるのならば尚更だ。
吸血鬼は優れている。しかし、同じ魔物であり獣人である人獅子、歴戦の勇たる黒騎士もまた、肉体的な性能に関しては全く負けていなかった。一部においては勝ってすら居る。
生まれ持った力がある、騎士としての培った技術がある。吸血鬼の弱点である神聖属性の援護も、新たに戦列に加わる部下の助力も、黒騎士の側に利する要素が数多にあった。
だから、このままでは負ける。
吸血鬼の王が、古参の臣下達が、十数年前に味わった敗戦の味を想起した。
種族連合を襲っている吸血鬼は優勢だが、僅か数分程度の交戦で勝利を決定付けられるほど、連合の者達も甘くは無い。騎士達を挟み打つ策は間に合わない。
「マリア、逃げ――」
その先を言って良いものか、吸血鬼の王は迷ってしまった。
敗北によって多くの同胞を失い、逃げ延びた辺境で悲嘆に暮れながら生きてきた時間を思い出す。
あれを、娘に味わわせるのか。
親として、仲間として、同胞に甘い吸血鬼をして、選べなかった。
命以上に大切なものもある。命が無ければ手に掴めないものもある。どちらも大事だ、どちらも与えてやりたかった。だから、敗北を目前にして娘に何を命じるべきか、彼は見た目相応の若者のように言葉に迷い、ただただ唇を震わせた。
余りにも情け無い王の、父としての姿。
それを見て王女マリアは決断した。
「わ、わたしもっ、戦います――!」
足が震えていた。肩が震えていた。声も震えたままだった。つまりは全身が恐怖に縛られ、戦う事など出来ないくらいに脅えに浸りながら萎縮していた。
吸血鬼こそが最強だと信じていた少女が、己の夢想を打ち砕かれて泣いていた。
友人達が死に、尊敬していた古参の吸血鬼も傷だらけで、父親は娘を想う余りに今まで見た事の無かった心の弱さを覗かせている。
「逃げ、ませんっ。私は、私達は、誇り高き吸血鬼なのよ!!!!」
払拭せねば ならない。
吸血鬼こそが至高。他は全て下位に位置する家畜に過ぎない。
それは証明するまでもない事実だ。現実が己の信仰と異なるのであれば、手ずから正してやらねば支配者としての矜持に関わる。
今まで当たり前に信じていたものが真っ赤な嘘であったとしても、今の彼女は そうあって欲しいと心の底から願っていた。
自分の同胞を傷付けた敵に負ける事だけは、絶対に許せない。
「――貴様らが、それを言うかああああああ!!!!!!」
種族連合から、血を吐くような怒号が返る。
劣等と蔑まれ、容易く摘み取られてきた弱者の怒り。
汚らしい捕食者に過ぎない吸血鬼が、何を被害者のように振る舞っているのか。
多くの涙を流したのも、必死に戦い抗ってきたのも、自らの正しさを信じて立ち上がったのも、全て周辺に住まう他種族の者達だ。断じて、今更になって情を見せた吸血鬼達などでは無い。
「死ね!!!!」
「殺してやるう!!!!」
「そこを退け、クソ野郎がああああ!!!!!」
緊迫した戦場が一転して、燃えるような被害者達の怒号に埋め尽くされた。
前に出た騎士達の槍によって、吸血鬼側の動きが鈍る。後方での戦いも、種族連合が勢いを盛り返して押し留める。
戦況は急速に種族連合の側へと傾いて行った。
より強い感情が、本来は質で上回る吸血鬼を相手に己が優勢を掴み取る。
黒騎士の長剣が吸血鬼の首を、胴を的確に捉え、じりじりと押し潰すようにして勝利を手繰り寄せ、吸血鬼達の胸に かつての絶望を取り戻させていく。
「マリアっ」
王の身体が無数の蟲に変じて、娘の身体を掻っ攫う。
肉体の半分近くが逃走に移った事で、黒騎士の眼前にある王は戦力の一時的な拮抗さえ叶わなくなり、頭部と心臓部に鎮魂の剣閃が打ち込まれた。
「っまだだ、わたし、は王――、っだ」
「終わりだ。――次」
黒い石塊と化していく王の体躯に更なる追撃を見舞い、黒騎士は次の獲物に向かって足を踏み出す。
床に落ちた黒石が砕けて転がり、散らばった破片も戦闘の最中に騎士達に踏み躙られると形を崩され散らばっていく。
趨勢は決した。
「おとう、さまっ。お父様! こんな、私はっ」
蟲の大群に包まれて移動するマリアは、言葉にならない感情を たどたどしく吐き出しながらも抵抗出来ずに城の奥へと運ばれていた。
蟲達は何も語らない。
変身した王には話をするだけの余裕が無く、娘を説得出来るだけの立派な名分も持ち合わせていなかった。ただ娘に死んで欲しくない一心で、負けの見えた戦いから背を向けて、同族達を見捨てて自分達だけ逃げているのだ。
黒騎士の攻撃で完全に殺されたのは肉体の半分。半分だけだ、未だ王は死んでいない。大量に血を啜って魔力と生命力を補填すれば、復活は十分に可能だった。
だが、彼はそれを選ばない。選ぶ事など出来なかった。
仲間を見捨ててまで、共同体の王が生き延びるわけにはいかない。
きっと現時点で最も若い同族を逃がすためとなれば、今も戦い続けている彼等は納得するだろう。既に一度 王国から落ち延びた経験があるのだから、もう一度繰り返したとしても王個人の背負う恥が増えるだけ。
「生き延びろ、マリア。これは私達老人の我が儘だが、お前だけは」
言い捨てて、蟲達が今一度戦場へと舞い戻る。
返答を聞く事無く飛び立った父親に向かって手を伸ばし、生まれて初めての敗北に打ちのめされたマリアが呆然と床に膝を折る。
たった一時間にも満たない間に、彼女の持っていた全てが消えてしまった。
マリアの頭の中は真っ白だ。何を考えれば良いのかも分からない。身体が動かず、足からは力が抜けて立ち上がる事も叶わない。再び流れ出した涙が頬を濡らしても、それに対して気を払うだけの余裕が無かった。
「おとうさま、みんな、私は」
もはや彼女一人では どうしようもない状況だ。
彼女が放置された その場所には外部へと通じる緊急用の避難通路が設けられていたが、今のマリアには父の気遣いを汲み取るだけの判断力も残っていない。
彼女には何も出来ない。
何か出来るとすれば、それは彼女以外の、状況に全く無関係な誰かの力だ。
赤と緑と、黄色と青が暗闇の中で舞い踊る。
小さな足音が幾度か聞こえて、彼女から僅かに離れた位置で動きを止めた。
妖精に導かれて辿り着いた黒髪の少年が、真っ白な髪の少女の前に立っていた。
「――いすかりおて?」
泣き疲れた幼子のような顔が正一を見上げる。
互いの視線が合わさると、少年の顔に刻まれた文字列が 淡く小さく輝いた。




